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***日本人は自然
海外から不思議な変わった人々と思われているにも関わらず自らを一番「普通の人」と考える日本人。島国で日本人だけと暮らすから自らを相対化する経験が少ないためだ。日本人にはまったく驚くことに自分たちが奇妙な人々である意識はないのだ。奇妙な人だけが暮らす島ではそれが当たり前であるのは当然だし、奇妙と言われることに抵抗がある。我々は自然だ。奇妙なのは外の人々の方だろう、と。
***土着な自然主義、仏教、武士の習い
最近、読んでいるのが日本史関連、特に日本人の精神起源。読んでいるとキーになるのが、土着な自然主義、仏教、武士の習いのようだ。
土着な自然主義は仏教伝来前の万葉集にも見られる日本人のアミニズム的特性として語られる。しかしその後も回帰し続けるのは日本人の生活環境と密着しているからだろう。島国であり、四季があり、定期的に災害がある。現実的な問題として自然との深い関わりがある。
日本人の民主化において重要なのが武士の台頭である。大和朝廷以降、中央集権がひかれ、土地も人も管理されたが、技術の向上は農地の生産性を上げ、地方で富が生まれて、力を付けてくる。また武器も製造可能になり、武力の中央独占が困難になる。
社会は混沌とし自衛が求められるなかで武士化が進む。そこで重視されるのは法でもなく、貨幣でもなく、信頼できる絆である。卑近な主従関係が基本になる。すなわちその時代、民主化と主従関係は深く結び付いている。
さらに民主化は高い精神性を生み出す。仏教は聖徳太子以降、中国の最新の思想として伝来しつづける。だから当初は政治への影響が大きかったが、鎌倉時代には庶民へと浸透する。鎌倉仏教といわれる浄土宗、禅宗、日蓮宗など庶民をターゲットにした仏教である。
これらはいままでの政治思想と結び付いた、外来的で特権的なものではなく、民衆の覚醒を重視する。念仏をとなえればよいとなど実践的であるだけではなく、日本人により開発された面が強く、土着の自然主義を取り入れ、また武士の習いと結びつき、さらにはひとつの精神性へと高めるまでに発展していく。
***武士の台頭と日本人の覚醒
なぜ鎌倉仏教が日本人の精神性の覚醒時期と言われるのか。このような自然主義が仏教として表現されて、一般に浸透した。それまで漠然としたものが言葉表現を持つことで、広く伝達され、またさらなる発展を可能にしたのである。
それまでの仏教は最新の外来文化であった。知的エリートが学び、政治運営などへ影響を与える。言葉を持つことで覚醒した。技術革命と言える。単に自然主義が仏教により言葉をもっただけではなく、ここまでくる背景がある。それが武士の台頭である。
武士に血統があるとしても、武士の台頭を支えたのは農民からの転身である。平安末期になると、鉄器の普及などの技術も進み、地方も力をつけていく。特に開拓を促進するために一定期間の私有地も認められて富を蓄えていく。中央集権体制も緩み、地方では自衛が必要になる。このような背景から特に東日本において農民が武装した武士が台頭していく。すなわち武士の台頭は技術進歩、富の増加を背景とした民主化であった。
武士が台頭して、自衛による治安が基本になると、それまでの中央集権により暴力の独占は崩れる。法は効力を失い、また交易も略奪の危険にさらされる。重要になるのは強い信頼関係である。武士が親分子分、兄弟の契りなど卑近な主従関係を重視するのはこのためである。そして組織が大きくなることで封建的な秩序が生まれてくる。
それとともに精神的な成熟が起こった。自然に対する絶対的な無力感を表現する方法論をもつことで多様に展開されていく。それが鎌倉新仏教である。
***自然に対する絶対的な無力感
哲学思想を学んでも回帰するボクの考えの元にあるのが、自然に対する絶対的な無力感である。これって日本人の精神性の原点ではないだろうか。日本的な自然主義はこの無力感、そして自然への恐れ、敬意から始まる。そして理論的な空論よりも実働的な成果を重視する。
ボクの日常哲学派の慣習主義は日常が成立することの深遠さを認める。ヒュームや、ウィトゲンシュタインの西洋思想的背景はおいておいても、日本の基底には、論理より、自然があり慣習を重視する文化がある。
一つには運命共同体のハイコンテストな島国では、考えを相対化して論理化する超越的思考は必要とされない。そんなこと考えるより実際に会えばシンクロしてわかりあえるわけだから。
このような日本の慣習主義が意識されたのは鎌倉仏教以降だろう。それまでの漠然とした慣習主義が表現方法を持った。そこには漠然とあったものが表現されてことと、表現されることで客観視されて加工可能なものになった意味がある。
***言葉(教典)から慣習(唱えの反復)へ
鎌倉仏教の特徴は色々ある。有名なものでは他力であること。自力など些細なことで阿弥陀の他力がなければ浄土へ行けない。だからひたすら唱えるしかない。ここで重要にことはいままでの教典主義から離れたこと。偉い坊さんが難解な教典を学ぶことで悟るのではなく、ただ祈るだけ。
これは、誰でもできる信仰の民主化ということだけではない。言葉(教典)から慣習(唱えの反復)への移行を意味する。人間が考える理屈などたいしたことがないただ唱える。それは慣習として唱えを入れ込み反復すること。この慣習主義への転換が日本人に受け入れやすく、実際に日常に浸透する。
そしてそれまでの素朴な慣習主義が表現方法を得たことで、一部の日本人によって禅宗の「空の思想」など、西洋思想に劣らない精神的に高尚な表現法として洗練させていった。
***親鸞のぶっちゃけ仏教
親鸞の思想はぶっちゃけなわけだ。仏教っておもしろい?みんな欲深いじゃん。僧侶がそれいってもいいの?阿弥陀はもっと大きいから大丈夫。善人悪人なんって超越しているから。むしろ悪人こそ救われるんだよ。
それで自分は嫁をもち、肉も食ってしまう。いまの日本の仏教の生活に入り込んだ身近さはここからきた。これは仏教史にはタブーで革命的だ。これが、なぜだめかは、ここまで発散させたら、結局何でも有りになる。悪いことしても救われる。普通は宗教的にありえない。
***「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」
その核心的な親鸞の言葉。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」「善人ですら極楽浄土に行くことができる、まして悪人は、極楽浄土へいくのは当然ではないか。」この強烈な逆説において、親鸞は日本の精神性を覚醒された。その真意はなにか。
一つは、世間の善悪を超越したところに阿弥陀様はいるという強烈な俯瞰思考。悪人をも愛するふところの広さ。誰もがみな多かれ少なかれ悪人であるという。それをすべて許容する。
もう一つは、性善説になっていることだろう。罪を憎んで人を憎まずではないが、悪事をはたらいてもその心の奥では、人はみな善人である。すなわちみな、自らが悪事をはたらいていることを知っているし、そこについての後悔を持っている。そのことを阿弥陀様はわかっていること。だからいつでも心を開いて、素直になりなさい。
日本人はこのような許容を仏教の当然のものと考えるが、それはすでに親鸞の教えが深く浸透しているからである。実際の仏教はもっとも厳格なものです。救われるためには厳しい鍛錬が必要になる。
親鸞の考えは、通常の仏教にすればあまりに緩い。念仏を唱えるだけで救われる?それも悪人でも救われる?この相対主義の先にあるのが、では悪事をした方が得ではないか。という考えである。
***日本教
これをきっかけに、日本の仏教が生活深く入り込む。なぜか?決して発散しないように日本人の慣習が前提として隠されているから。なんでもあり、悪いことをOKと言われて、なんでもしますか?逆にやらないでしょ。なぜなら日本人にはすでに運命共同体的な慣習があるから。この日本の特殊性故に日本人は親鸞的緩い仏教を受け入れた。だけでなく、日本的なものと共存を可能にした。逆に厳しい戒律は日本人は受け付けない。「日本教」とぶつかるから。
しかし海外では慣習は多様だ。世界宗教にはこのような慣習を超越することに意義がある。そのためにはどれかの慣習との迎合する緩さは危険である。独自の厳しさと、信じろ!という徹底的にベタな信仰が求められる。
***いまも日本人は阿弥陀様とともにある?
歎異抄は親鸞の弟子の唯円が親鸞の言葉、思想を記述したと言われる。その第十六条に「阿弥陀が自然である」と言ってしまっている。この自然とは環境の自然であるとともに、慣習である。なんとも日本的な自然主義。なにをしようと(日本人なら)体にしみこんな自然からのがれられない。悪をすれば自らの中の自然が辛くなる。この矯正効果こそが阿弥陀さまのお力だということ。なんとも日本人的。そしていまも日本人はこのように秩序を維持している。いまも日本人は阿弥陀様とともにある。
このとき、人々は阿弥陀という超越性を通して、強烈に共同体意識を感じるのではないだろうか。自然環境と人々と繋がっていると。
親鸞は日本人の奥に眠る慣習を阿弥陀様と名指しした。まだ僻地であった東北の田舎に流された百姓暮しの中から、信仰を広め、慣習が仏であると見いだし名指しした。まだ京都中央集権時代に、仏は権威であった時代にすごいことである。日本人はいつも仏とともにある。これがいまの日本人の精神性の基本ですね。だから震災でも当たり前のように治安が乱れない。
すべて、あらゆることにつけて、極楽浄土へ往生するためには、利口ぶる心を持たずに、ただ阿弥陀さまのご恩が深いことを常にほれぼれと思い出す必要があります。そうすれば、自然と念仏が申されてくるのであります。これが自然ということであります。自分のはからいでないものを自然といいます。これはすなわち他力ということでもあります。そうであるのに、自然ということが別にあるように、もの知り顔に、偉そうにいう人があるということを聞きましたが、何とも情けないことであります。
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