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なぜ日本人は怒らないのか?(去勢された・・らしさの文化)/ytaka2011.blog
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投稿者 稲垣勘尚 日時 2011 年 8 月 03 日 11:03:13: Je/tdYZdw47GA
 

http://ytaka2011.blog105.fc2.com/blog-entry-218.html

国内でも、また海外のメディアなどでも「これほど政府や東電にウソをつかれ裏切られているのに、なぜ日本人は怒らないのか?」との疑問が沸き起こっている。
3月11日の東日本大震災が起こった当初、海外のメディアは一斉に日本人の秩序だった行動と規律正しさを称賛する記事を掲載した。しかしそのような海外メディアもいまは、「どんなに痛めつけられても怒らない日本人」を特集するものがとても多い。
実際に被災した福島や宮城の人々は別にしても、なぜその他大多数の日本人は怒らないのだろうか?諸外国であれば、政権の打倒や東電の解体を叫ぶ激しいデモが巷で起こり、実際に政権を打倒したり、東電を解体しているはずである。
例えば、アメリカのティーパーティー運動がよい例であろう。基本的にティーパーティー運動は、金融危機とその後に続いた長期不況に対する一部の国民の怒りの爆発を発端としていた。最終的にはリバタリアンとキリスト教原理主義者が運動を主導することにはなったが、今回の上限引き上げ阻止で連邦政府を破産ぎりぎりまで追い込むほど、怒りの爆発は国政を左右する巨大な力となった。これは今後も続くことは間違いない。
これはヨーロッパなども同じ状況だ。ドイツは最近全面的な脱原発を決定したが、ドイツ政府にこの決定をさせた理由の一つは、国民の原発に対する怒りの抗議運動であった。
独裁政権を国民の怒りの運動で打倒した歴史を持つ台湾や韓国などの国と比べても怒りを忘れた現代の日本は特殊だろう。
諸外国の国民はすぐに怒り、その力で政治を変えることができるのに、なぜ日本人はまったくと言ってよいほど怒らないのだろうか?なぜなのだろか?

■かつてはよく怒った日本人
だが、最初から日本人がおとなしかったわけではないのだ。歴史的に見ると、日本人は比較的最近まで頻繁に怒り、社会運動の実践的な担い手になっていた。
1940年代から50年代の激しい労働運動、岸政権を転覆させた60年の安保闘争、70年代の反公害運動と成田空港建設反対運動など枚挙にいとまがないほどである。
特に70年代の反公害運動は非常に激しく、政府に新たな厳しい公害規制を導入させることに成功した。いまでは「公害」という言葉を聞くことさえほとんどなくなるほど、当時の環境は改善した。それも日本人の広範な怒りの運動があったればこそである。
90年代始めにもエイズ反対運動も大きな盛り上がりで、エイズ被害者の救済とエイズ予防の法案が可決され、エイズ問題は解決に向けて大きく前進した。
それがどうだろか?90年代始めのエイズ反対運動は例外にしても、1970年代以降、日本人は怒りを完全に忘れてしまったかのようだ。
「ただちに健康被害はないので安全だ」を繰り返し、事実をとことん隠蔽する政府。土壌汚染の実態を細かく把握しながらも公表を拒む文部科学省。経産省、原子力保安院、御用学者が一体となった原子力村の既得権益集団による事実の隠蔽。年間100ミリシーベルトまで安全だと平気で宣言する御用学者。規制値をはるかに上回る可能性のある食品を平気で給食に混ぜる地方自治体など、これまでの日本の常識ではもはや考えることのできない出来事が相次いでいる。その規模は、戦後のどの時期も凌駕している。
いまほど怒らなくてはならないときはないはずだ。それなのに、なぜ我々は怒れないのだろうか?

■怒らないが愚痴と文句は言う
確かに現代の日本人は怒りを忘れたかのようだ。だが、多くの愚痴と文句だけはあらゆるところから聞こえて来る。「政治家は国民のことなど考えていない」、「国民の生活を考えない総理を去るしかない」、「官僚こそが諸悪の根源だ」など聞き慣れた政治批判の大合唱である。もちろん、そうした愚痴と批判には危機感は感じられない。そして現実を変えるための行動が伴うこともほとんどない。
多くの場合、怒りは現実を変えるための本格的な抗議運動を呼び起こす。ドイツの反原発運動、筆者は方向は正しいとは思わないがアメリカのティーパーティー運動、韓国の多くの市民運動などはそうしたものの典型であろう。
一方、愚痴と文句には、現実を変えるための抗議行動に結び付く積極的な契機は乏しい。むしろ反対に、現実の矛盾をしょうがなく受け入れ、現実を絶対に変えられないものとして甘受するときに起こってくる諦めの感情こそが、愚痴と文句なのではないかと思う。
つまり、怒りは現実を変えるための抗議行動を呼び起こすが、愚痴と文句は、「しょうがない」と現実を受け入れ、現実を変えることを断念させるというわけだ。

■周囲から突出することの恐怖
しかし、それにしてもなぜ我々日本人は、怒るかわりに愚痴と文句を言いながら現実を甘受してしまうのだろうか?そこにこそ、我々現代の日本人に特有なメンタリティーが存在しているように思う。
結論から言うなら、それは、周囲から突出することの恐怖である。おそらく日本人ほど、周囲の人の感情を気にし、その場の雰囲気を読もうと苦心し、周囲の調和を維持することに多くのエネルギーを使う人々はいないのではないかと思う。おそらく「KY」なぞという言葉があるのは日本だけであろう。
他の国々では、個人の個性に基づいたはるかに多様で自由な自己表現が許されており、そうした自己表現が飛び交う場こそ日々の会話の場面である。
しかし、このような強い自己表現は、日本では許されない場合が多い。その場の雰囲気を読むことなく自己主張しようものなら、即刻「KY」のレッテルを張られ、集団から排除されてしまう。排除された場合、能力に関係なく下手をすると食えなくなってしまうのだ。

■なぜこれほど集団から突出することを恐れるのか?
もちろん、こうした環境では自分で考え、自分で判断し、自分で行動する強い個人は生まれ出ることはない。だが、それにしても、周囲から突出する恐怖はなぜこれほど強いものなのだろうか?頭では怒らなくてはならないことははっきり分かっていても、自分だけが突出することを考えると、その恐怖は計り知れないものになってしまう。なぜこれほど強いのだろうか?
それは、どんな場面でも周囲の人の期待を裏切らないように行動し、また発言するということを我々が徹底して教え込まれ訓練されてきたからだ。中学までの義務教育の大きな目標は、これであったと言っても過言ではないかもしれない。
これは、それぞれの場面で作用している厳格なルールをしっかり覚え込み、それを徹底的に身体に刻み付けることを必要とする。
われわれの日常は、「交渉の場面」「友人との飲み会の場面」「結婚式の場面」など、さまざまな場面でできているとされる。それぞれの場面には、人の振る舞いや行動を決定するルールがあった。どの場面にも以下の要素がかならず存在した。
@立場
その場面における人の立場
A言葉遣い
立場にあった言葉のふさわしい使い方
B振る舞いの原則
立場にあったふさわしい振る舞い
C服装の原則
立場にあったふさわしい服装
これらの原則に則って振る舞うと、おのずから「中学生らしさ」「営業マンらしさ」「サラリ−マンらしさ」などの「らしさ」がかもし出されてくる。「らしさ」を醸し出すことは、その人が社会的に信頼できる存在であることの証だ。なぜなら、「らしい」存在は社会のルールをよく知っているので、予想外の行動や突飛な行動はとらないことを意味するからだ。
こうしたルールを徹底して身につけると、どこに行っても一人前として尊重され、受け入れられる。特に、企業ではそうであった。
特に、企業ような組織では、社会的なルールをとことん身体化させ、どんな場面においても相手の期待感を絶対にはずさない行動を取れることは、その人間のパーフォーマンスを評価する重要な項目でもあった。「らしい」人ほど信頼性は高まったのだ。

■三つの「らしさ」
このような過程から、三つの「らしさ」と呼び得るようなものが出てきた。
・第一の「らしさ」
「住友マンらしさ」「トヨタマンらしさ」など個別の企業の場面ルールにまでさらに際限なく細分化されていった。組織や企業のメンバーは、組織の一員である限り、振る舞いや話し方、そして服装にいたるまで、その組織の正規のメンバーである印を身体に刻印していなければならなかった。だいたいどの組織や企業もこのようなカルチャーのようなものをしっかりもっていた。ここではこれを第一の「らしさ」と呼ぶことにする。
どの個人も、それなりの人生経験で培われた個性がかならずある。ということは、この「らしさ」は、個人がその人生経験でできあがった個性を「くせ」として抑制し、型にはまった「らしい」人格へと組み入れられることで出来上がるものといってもよい。言い換えるとこれは、組織の場面ルールに個人が完全に埋め込まれることで生まれてくるのがこの「らしさ」であるということだ。
・第二の「らしさ」
一方、個性を抑制する第一の「らしさ」でも許された個人の「らしさ」が存在していた。これは、一度社会の規範に組み入れられた個人が、与えられた役割を演じ、それを幾度と無く繰り返す過程でかもし出されてくるズレとしての「らしさ」だ。最初はみんなほとんど同じだった振る舞いにも、個人の間のちょっとした違いが出てくるようになる。それが個人の「らしさ」になってくる。これは第二の「らしさ」と呼ぶことができるだろう。
これは、先に説明した第一の「らしさ」とは根本的に異なる「らしさ」のあり方だ。でも、それが第一の「らしさ」から出てくるズレであるということでは、「らしさ」のルールの脅威とはならない。これは組織では問題なく許容される。
・第三の「らしさ」
ユニークな自立した個人として自分の人生を生きる個性的な「らしさ」は確実に存在する。
自分の人生の目標や生きがいは自分で決めるしかないものだ。こうしたことには、組織や他人によって与えられるあらかじめ準備された答えなどは存在しない。
このように、ひとりひとりが人生に見出す「意味」はそれぞれ違っている。こうした人生の「意味」がそれぞれ一人一人の人間としての「らしさ」の原点にあるものだ。だとするなら、この「らしさ」は「個の積極的なユニークさ」と呼べるものだろう。
だが、「らしさ」を強調する現代の日本にあっては、個人が自分の流儀にしたがって行動すると、それは「わがまま」とみなされ、規範からの逸脱行為として排斥されたり、「半人前」としてまともな扱いを受けないかのいずれだった。いずれにせよ受け入れられなかったのだ。
そうはいっても、「個のユニークさ」を希求す欲望は普遍的なものだ。どんなに抑制されても、この欲望はそう簡単には消滅しないはずだ。ユニークな生き方をしたいという欲望は、個人の心の地下水脈のように、決して実現されない見果てぬ夢のようなものとなっていた。人々は、生活の安定のために自由を犠牲にしていたと言えるだろう。

■強い個人の不在
政府や組織を変革するのは、組織の外側に存在する自立した個人がいなければならないだろう。そうしや個人は、自分で考え、自分で判断し、自分で行動する個人、つまりは怒って抗議行動を起こすことのできる個人である。
いまの現代日本人の状況ではこれは望むべくもないのではないだろうか。特にバブルの崩壊した後にやってきた長期の不況でリストラが進んだため、職の安定と安全を確保するために、多くの日本人はますます「らしく」なろうと努力した。不況が深化するほどこの努力は激化した。それは、高度経済成長が続いていた60年代や70年代をはるかに大きかったかもしれない。
ところで、以下は100年近く前の1919年にアナーキストの大杉栄が書いた文章である。
*****
〆「僕らの主義(1919年 8月)自分のことは自分でする。」
これが僕らの主義だ。僕ら労働者の、日常生活の上から自然にできた、処世哲学だ。
僕らには、それで食ってゆくという、親の財産はない。またかじるべき親の脛もない。僕らは小学校を終えるか終えないうちから、自分で働いて自分で食ってきた。自分の身のまわりのいっさいの世話も、親や兄姉の忙しい僕らの家庭では、子供の時からすべて自分でやってきた。自分で自分のことをするのはいい気持だ。何事にでもわがままがきく。勝手でいい。威張られることもなし。恩に着ることもなし、よけいなおせっかいを言われることもない。
少し大きくなって、世間とのいろいろな交渉ができ始めてからも、やはり自分のことはたいがい自分でしなければならなかった。そして、やはり自分でやるのがいつでも一番気持がよかった。自分のことは自分が一番よく知っている。自分のことは自分が一番熱心にやる。しくじればしくじるであきらめもつき、また新しい方法の見当もすぐにつく。人にやってもらったんでは、不足があっても、ありがとうとお礼を言って満足していなければならない。よしまたうまくやってくれたところで、自分でしなかったことが僕らには不足になる。
世間はますます複雑にかつますますめんどうになった。敵と味方の区別すらもちょっとはわからない。人に頼んでは馬鹿ばかりみる。ことになにか甘そうなことをやってやろうという先生などにたのむと、いつもかならず大馬鹿をみる。
労働運動でもやはりそうだ。 」
*****
筆者はここで、労働運動をやるべきだと主張しているわけではまったくない。「やはり自分でやるのがいつでも一番気持がよかった」という自立性こそ、いまの我々に欠けているものだと言いたいだけだ。
また、「人に頼んでは馬鹿ばかりみる。ことになにか甘そうなことをやってやろうという先生などにたのむと、いつもかならず大馬鹿をみる」という文を読むとはっとしないだろうか?東日本大震災以降、我々は多くの御用学者の先生、官僚、政治家に自らを預け、それこそ大馬鹿を見たのではないだろうか?

■強い個を作る思想こそ日本の伝統に内在
では、大馬鹿を見ないような自立した個人になるにはどうしたらよいのだろうか?やはり、人権思想のお膝下であるヨーロッパの思想と哲学をものにしなければならないのだろうか?
いや、おそらくそれは違うだろう。我々が強い自立した個人になるための思想と哲学は、日本の伝統にこそ内在しているのである。
しかし、その伝統の水脈に確実に到達するためには、ある迂回をしなければならない。次回に続く。(抜粋)
 

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コメント
 
01. 2011年8月14日 13:17:50: ieWTAudjoA
日本全体がムラ社会というわけですね。この片田舎では尚更です。当たり前の事を言って行動して自分らしく生きようとすると、必ず邪魔が入ります。地縁血縁が濃い人や顔が広い人に物事が有利に働くように妙なピラミッドが出来上がっています。お役所の就職もコネは当たり前の裏事情。藪医者病院の隠蔽工作は日常茶飯事。
しかし、あろうことか、信じられない強弁でねじ伏せてくる一番の敵は身内にいました。信頼を寄せていた人物がです。一人で理不尽と闘うにはものすごいエネルギーが必要で、それに疲れ果てた人間がうつ病になるのでしょう。そして、岩平良系製薬会社の薬漬けというお定まりのコース。
結局愚痴になりましたが、義憤に駆られる者たちが心身ともに強い策士になって、利害を超えた人脈を拡げ、不敵な(素敵な)面構えの出すぎた杭になれば、日本は勿論、世界が変わるのでしょうね。

02. 2011年10月04日 18:42:08: NZy2exYNKM

とりあえず、学校での【前へならえ】・【右へならえ】を廃止しよう。


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