http://www.asyura2.com/10/social8/msg/415.html
Tweet |
http://agora-web.jp/archives/1363267.html#more
人の一生は儚い。生きるためにあくせくはたらいて、気がつけば初老にさしかかってしまった。いったい私は何のために生きているんだろうと、一度くらいは思った人は多いだろう。そこで、できる範囲内で人生を楽しもう、と思える人は健全である。なかには悠久の大義にいきなければ、と思って錯覚してしまう人もいる。
それで、国家のために、会社のために、あるいは思想のために、命をかけようなんてことを本気で考える人があらわれることになる。首相が死んでも、会社がつぶれても、天皇が死んでも、日本という国はとりあえず存在するわけだから、長くても100年足らずで死んでしまう個人とくらべたら、国や組織の寿命はかなり長いといえなくもない。人は自分の命よりも長いと感じられる何かに命をかけることに快感をかんじてしまう。もちろん、本人がそれが楽しければ、とやかくいう筋合いのものではない。それを関係ない他人におしつけるのは、下品である。大義に命をかけて死ぬ人よりも、女に命をかけて死ぬ人のほうが上品だろう。大義に命をかけて死ぬ人の多くは、自分の行為が人々に賞賛され、自分を尊敬する人が出現するであろうという、稚拙なナルシズムにひたっている。女に命をかける男は無名の死をただ死ぬだけだ。
だいいちこの世は悠久の心理などないし、永久の同一性を保つものも存在しない。会社も国家も巨人軍も原子もいつか必ず消滅するのである。無限にくらべれば、悠久の大義も神も国家も、あなたの一生と同じくらい一瞬の出来事に過ぎない。人は刹那に生きて、刹那に死ぬべきである。
さて、会社や国家が大事とかおもっている人は、いざとなったときに、会社や国家が自分の存在を保証してくれるとおもっているのかもしれない。あるいは会社や国家などどうでもいいとおもっている人の中にも、いざとなったら日本人だから会社や国家が何とかしてくれるだろうとおもっている人もいるにちがいない。終身雇用や大衆民主主義の下で、福祉国家という美名によって甘やかされてきた人々の心のおくは、こういった幻想からぬけだせないのだろう。自由で上品に生きるとは、自分の努力と才覚でいき、結果て対して自分で責任をひきうけることをいう。結果的に会社や国をあてにしてもいけないし、信用してもいけない。退職金や郵便貯金などはいつチャラになるかわからない、と思うべきである。年金も同じ。結論から言えば、国は破綻するのがわかりきった年金制度を速やかに廃止すべきであろう。自分の老後は自分で計画して自分で責任をとるべきである。社会をあてにしないで生きるのは上品である。
そうはいってもそういう社会はすでにあり、バカな法律や、強制加入の保険や年金もすでにある。自助努力、自己責任といったって、どうしようものではないか、という人もいるだろう。この意見に反対はしない。当面は、国家や制度はできの悪い道具であるとかんがえるほかはない。道具は利用すべきものであって、全面的に依存すべきものではない。
重要なのは、あなたが最も心楽しく生きることである。国家も法律も会社も学校も、そのための道具にすぎない。道具はなるべく使い勝手がよいようにかえる努力をしたほうがよい。かえられないものは仕方がない。だからといって、道具に忠誠をちかうのはおろかであるし、下品である。
もちろん無理に反国な言動をとったり、反組織的な考えをいだく必要はない。ただ、いやいや組織にぶらさがっているくらいなら、思い切って組織をとびだしてしまったほうが、いっそすがすがしいということはあるのだ。少なくても、いざとなったら自分の所属している組織をとびだしてやると思えるか、思えないかで、その人の輝きはずいぶんちがったものとなるはずである。
〆・・・
>いざとなったら自分の所属している組織をとびだしてやると思えるか、思えないかで・・その人の輝きはずいぶんちがったものとなるはずである。
赤沢良太という見ず知らずの方が語るより・・官僚や政治家さんがツイーターしたら、この時代もだいぶ様変わりしているのでしょうん(勘)
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。