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http://diamond.jp/articles/-/13336 「引きこもり」するオトナたち【第74回】11年7月28日池上正樹 [ジャーナリスト]
貧困、いじめが過激な思想を生むきっかけに…引きこもりを追い詰める過去のトラウマの重さ
最近、ますます引きこもりがひどくなったと明かすのは、神奈川県に住む山崎和郎さん(仮名=38歳)。
ここ1ヵ月ほど、家から出られない状態が続いている。受話器の向こうの声もかすれていて、どこか話をするのがつらそうだ。
ひどくなったきっかけは、「支援団体で無理をしたことかな」という。
山崎さんはこれまで、支援団体に頼まれ、家族や本人たちの相談相手を務めてきた。相談先の窓口に「当事者」がいることは、同じ目線で相談に乗ってもらえるのではないかという意味で、相談者の支援団体への敷居を低くする。
ところが、である。
「相談者より自分の家庭の方がひどい…」うごめき始めた過去のトラウマ
――相談に乗っていて、疲れちゃった感じですか?
「まあ、そんな感じですね」 「他にも、知らなくてもいいことまで、知っちゃった、みたいな…」
――差し障りのない範囲でいいですけど、知らなくていいことって、どんなこと?
「例えば、自分の家庭が、いちばんひどいんじゃないか、みたいな…」
――相談者の家庭のほうが、マシなように思えたってことですか?
「そうそう、そうですね」
――そのことがショックだったんですか?
「それも、ありますね…」
相談に乗っているうちに、気づいていなかったトラウマがうずいてしまって引き出されることは、珍しいことではない。相手の話を聞いていて、自分の危うさを刺激されることは、往々にしてあることだ。
自分のことだけでなく、家族などの周囲の状態を思い出して、あいまいだった記憶が結びついてしまうような、きっかけにつながることもある。当事者が支援団体の窓口で相談に乗ることは、そうしたリスクも伴うものである。
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部屋は2間だけの貧しいアパート暮らし自分の部屋がなかったことで深い傷を負う
山崎さんが生まれたのは、1973年のこと。第4次中東戦争が勃発し、第1次オイルショックによって、トイレットペーパー騒動にまで波及した。
山崎さんが最初に体調を崩したのは、中学3年のとき。この頃から、強迫症の症状を自覚するようになった。
元号は、昭和から平成に変わった。高校時代に、東欧革命が勃発し、国内ではバブル経済は最盛期を迎える。
山崎さんは大学までは頑張って通い続けて、卒業する。しかし、バブル経済はすでに破たん。就職試験を受けることができなかった。以来、15年以上にわたって、仕事に就くことができずにいる。
中学のときに体調を崩したきっかけは、はっきりと覚えていない。ただ、当時の山崎さんの家は、2間だけのアパート暮らし。生活は、貧しかった。
「自分の部屋が欲しかったんです。プライベートな場所が全くありませんでしたから…」
山崎さんは、そのとき受けた深い傷を、いまだに引きずっている部分があるという。
「子どもに個室を与えるから引きこもりになる。親の甘やかしだ」という指摘が、まったくの的外れであることは、山崎さんのケースを見ても明らかだ。
小学生のころ受けたひどい「いじめ」頭の中で仕返しするうち、過激な軍事思想に
小学校のときにいじめられ、暴力を振るわれた。それも「普通ではなかった」という。
「僕は泣くことができませんでした。自分の感情が出せなかったから、相手もエスカレートする。僕は、仕返しをするタイプでもない。いつも、やられっぱなし。でも、僕の頭の中では、いつも相手に仕返ししていました」
それが原因なのかどうかはわからない。そのうち、軍隊が好きになって、「今の社会を上から抑えつけたい」と思うようになった。
印象に残っているのは、宮崎駿監督のアニメ映画『天空の城ラピュタ』。山崎さんは、そのアニメのヒロインに恋をした。現実の女子が相手にしてくれなかったからだという。
大学に入学した1991年、ソ連邦が崩壊。山崎さんは、大きなショックを受けた。
「冷戦の大義がなくなって、防衛力増強の大義が消えてしまうからです。仮想敵国がいないと、やはり困ります」
次のページ>>「ゴルバチョフ元大統領は好きではない」
民主化を進めたゴルバチョフ元大統領は好きではない。スターリンやブレジネフのような独裁者タイプが好きだったという。
「フセインも個人的に応援していたんですけどね。もう少し生き延びて欲しかった。もったいない人材を失ったと思います」
国連平和協力法案が廃案になったことにも、衝撃を受けた。当時の湾岸戦争に、自衛隊を出す法案だったからだ。
MLRSというロケットが12発同時に発射される戦争の映像を見て、興奮していた。
「僕も、前線で戦いたい。人を殺したいという気持ちがすごくありましたね。僕の中では、なるべく多くの人を爆撃で無差別に…という気持ちがあったんです」
秋葉原の殺傷事件のような無差別事件が起きると、加害者の気持ちがよくわかるという。
「ちょっと違っていたら、自分もやっていたかなって。それが、ちょっと怖いんです」
自らの死に対しては、怖さを感じていない。山崎さんは「肉弾三勇士」のように、前線で肉弾が砕け散るような壮絶な戦死を遂げることに憧れるのだそうだ。
「僕の中のイメージとしては、死後、レーニンのように、国葬の霊廟みたいな所に入れられたいですね」
そういう国のほうが、生きやすかったということらしい。日本なら、昭和初期くらいが最も夢があったという。
「満州とか渡って、軍部で北進論を唱え、日ソ開戦を仕掛けますね。仮に負けたとしても、帝国海軍はそのまま残っていたかもしれない」
「イラクへ行けば“神”になれる」空想が膨らんだ先にたどり着いた思考
空想がどんどん膨らんでいく。とはいえ、山崎さんが生きているのは、「今」という時代である。
そう話すと、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件は衝撃的だったという話を切り出した。
「僕はそれまで右翼だったと思うんですよね。世論が右に動いてくれた。ついに自分の時代が来たという感覚になった。追い風が僕に吹いていると思いましたね」
2004年には、日本人の20代男性が、イラクへ行って人質になり、処刑される事件が起きた。しかし、山崎さんには、彼の姿がカッコ良く映った。
次のページ>>トラウマに振り回されながら生きる当事者たちの閉塞感
「僕もイラクへ行きたいと思っていました。彼も、変われるような気がしたんだと思います」
当時、若い世代の間で、イラクから凱旋すれば、「神になれる」かのような空気が漂っていた。
「イラクへ行けば、自信が付きそうで、自分がすごく成長できそうな感じがしたんです。ただ僕は、度胸がないので、バグダッドで1泊して、急いで帰って来きますけどね」
確かに、僕らが若かった頃も、皆、世界に憧れた。五木寛之の著書『青年は荒野を目指す』はバイブルのような存在だった。
しかし、イラク戦争の頃から、「自己責任」論が叫ばれ、人質になった若者はなぜかバッシングされた。本来、自由に伸び伸びとできるはずの世代にも、「自己責任」という言葉が重くのしかかり、自粛ムードが広がった。
トラウマに振り回されながら生きる当事者たちの閉塞感
山崎さんは「貧困の問題で“自己責任だ”と言われると、抵抗を感じる」という。
お互いに、弱い人がいれば、寄り掛かったり、甘えたり、支え合ったりする。そんな当たり前のことさえも、今では忘れ去られたかのようだ。皆、迷惑をかけないように、一生懸命気遣いながら、閉塞感の中で生きている。
余裕がなければ動けないし、情報も収集できない。でも、実際には、親の年金だけでカツカツの生活をしている家族も少なくない。
「人間的スキルができてから、社会的スキルを磨いたほうがいい。僕の場合、順番が逆だったので、その間、恋愛もできなかった、人間的スキルが未熟なまま、30代になってしまったんです」
ボーダーラインの人と接すると、自分の中の問題が連動して覚醒されて出てきてしまう。その辺をうまくコントロールできるかどうかが、当事者性の違いなのだろう。
「未解決のトラウマがあると、どうしても触発されてしまう。カチンとくるのを抑えていて、どんどん苦しくなっちゃう。酒とかカラオケとかバッティングセンターとか、発散すればいいってよく言われるけど、発散することなんて、できないんですよ」
トラウマが出ないようなバランスをどのようにとればいいのか。その難しいコントロールを維持できるかどうかが、当事者たちに求められている。
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