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広がる栄養失調 (更新日:2011年07月13日)
東京電力のオール電化PR車。二酸化炭素削減効果がある電気式床暖房などを搭載している。イベント会場で料理づくりを見せるとIHクッキングヒーターの使い方をのみ込んでくれる人が多いという=東京都内、平出写す
コメは皆無、トウモロコシやダイコンの葉しか見えない雑炊とは名ばかりの代物。終戦時、京都大学医学部の学生だった元厚生省技官の苫米地孝之助さんはその粗末などんぶり1杯で空腹をしのぐために、配られた食券を手に食堂前の長い列に並んだ。
20代の日本人男性は現在、1日に2千強〜3千キロカロリーの食物を食べているとみられている。苫米地さんのその食事は、1日3食で千キロカロリー を下回っていた。友人の中には、免疫力や体力が落ち、結核を患い、卒業を待たずに亡くなった者もいた。「自分も命が20代で尽きる」と感じていた。
戦時中の食料不足に加え、昭和20年は低温と日照不足に見舞われ、コメの配給は1割減の1人1日約2合となった。
15〜22年、呼吸困難や無力などの栄養失調症で病院を訪れた患者は全国で約8500人にのぼったが、潜在的にはもっと多かったとみられている。22年には、配給だけの生活を続けた東京地裁の山口良忠判事が死亡。「極度の栄養失調」と診断される衝撃的な出来事も起きた。
この非常事態に国は、連合国軍総司令部(GHQ)に食料援助を要請した。元東京都職員の大関政康さんによると、援助には科学的な裏付けが求められ、 20年12月に初の栄養調査が実施された。都民3万人に栄養士らが何をどのくらい食べたかや健康状態を聞き取った。1日の食事は当時、平均1900キロカ ロリー。現在1日に平均約10グラムとられている油は当時2グラム。「もう一さじの油」の摂取が推奨された。
21年にやっと、米国から援助物資が届き…… 次のページへ
東京五輪のころ、やっと現代並み
太平洋戦争による栄養失調は昭和16(1941)年ごろから増え、同21年ごろが最も多かったとみられている。20年、東京都民が1日に食べ物から とっているエネルギーのうち、配給品は55%、ヤミ市や農家からの購入品は40%、庭や空き地での自家生産品は1%などと配給品の割合が大きい。20年代 後半から1日の食べ物のエネルギーは2千キロカロリーを超える。
栄養失調はエネルギーが少ないだけでなく、穀物(炭水化物)が中心でたんぱく質、脂質といった体に必要な栄養素が欠乏したことも原因だった。国民健 康・栄養調査によると、たんぱく質や脂質などが今日並みになるのは高度経済成長期の39年におこなわれた東京五輪のころからだ。
21年にやっと、米国からトウモロコシなどの援助物資が届く。小麦粉などで学校給食が再開し栄養改善に役だったほか、市町村を巡って料理の講習をしたキッチンカー(栄養指導車)も効果をあげた。
大阪府は26年、バスを改造して調理台や石油コンロ、鍋などを備えたキッチンカーを走らせ、油を使った料理講習会を街頭で開いた。1カ所で100人近い主婦らに教えることもあった。
日本食生活協会も31年に8台のキッチンカーからスタート。2年後には12台に増やし、納豆チャーハンやそうめんでつくったジャージャーめんなど小 麦粉と大豆を使った料理の講習会を全国で開いた。この資金も、余剰農産物を輸出した米国がPR費として還元したものだった。協会の事業は都道府県にもキッ チンカーが配備されるようになった36年に終わったが、それまでに200万人が受講。小麦粉や油を使った料理も全国に普及していった。
同協会長の松谷満子さんは「米国には日本人に小麦粉の食文化を根付かせたいという遠大な計画があったのかもしれない。日本もコメと塩分の多い食生活を、たんぱく質と脂肪を増やす食生活に切り替える必要があったのです」。
国民健康・栄養調査は今も続けられ、往時とは逆に、肥満者を減らすことが目標となっている。好きな物を好きなだけ食べられる現代。「脂肪の多い食生活が問題になることに隔世の感がある。健康で豊かな食生活とは?と見つめ直す必要があります」。そう大関さんは語った。
(平出義明)
厚生省職員として国民健康・栄養調査を担当した(日本栄養士会名誉会長)藤沢良知さん
◆飢餓との闘い、戦後も続く
昭和28年に厚生省の技官になり21年間、国民の栄養改善などの行政に携わりました。終戦前後にも栄養行政に携わった亡き上司は、戦争が終わっても 「日本人は飢餓との闘いを続けなければならなかった」と語っています。ヤミ市では進駐軍から払い下げられた残飯を大鍋で煮て、どんぶりで食べていました。 「運が良ければコンビーフや肉の切れっ端が混じり、運が悪いとたばこの空き箱が出てくる」という食べ物でした。
昭和21年になると、復員者や引き揚げ者らで食料事情はさらに悪化しました。配給が遅れたり欠配したりで、朝日新聞は「国民の体重は、平時の1割方減った。健康な者が水だけ飲んで10日間寝ていたのと同じ」と報じました。
骨と皮ばかりになり、おなかだけが膨れている人は典型的な栄養失調の患者です。体に何らかの異常が表れて大学病院などにかかっていれば、把握されたケースもありますが、餓死者が何人だったのかははっきりしません。
ビタミンなどの不足で、貧血や唇の両端が炎症をおこすなど病気は多かったようですが、医者にかかれる人は多くなかったのでしょう。
今は飽食の時代。豊かさと便利さは本来、食べることの味方のはずですが、敵になっている。高カロリー食を避けるなど、栄養の知識はかつてより重要になっています。
2010年7月17日朝日新聞夕刊紙面より
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