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株式日記と経済展望
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部内で処理すべき大相撲の八百長や、大学入試のカンニングが連日
ニュースのトップになり、警察沙汰にするのは警察権力が肥大化するだけ。
2011年3月6日 日曜日
◆恐怖に支配されてはならない - 携帯電話カンニング事件で思う事 3月5日 井上秀純
http://agora-web.jp/archives/1269048.html
自身のブログKeynotesで、どうして日本の政治はめちゃくちゃになってしまったのかという考察をした。この中で感覚的によく分からない事があった。
東北の予備校生のカンニング事件はそんなときに起きた。情報がシステムの隙間から漏れ出してして、システム全体が動揺する。最近の流行のようだ。この事件が新聞の一面を飾ったのはこのパターンにはまったからなのだろう。この事件を見て、どうして政治がダメになってしまったのかという理由の一端が分かったような気がした。私たちが持ってた「集団を維持する本能」や「集団に対する信認」が失われている感じがしたからだ。
日本の大学はかつて「安易な警察の介入を許さない」という気風を持っていた。京都大学は特にそうだったように思う。でも、今回は真っ先に警察に頼ってしまった。
新聞によると、予備校生は股に携帯電話をはさんで試験問題を入力したのだという。もしこれが本当だったとすると、試験監督はあまり熱心に監督していなかったことになる。これがYahoo!知恵袋を通じて表沙汰になる。試験監督たちの責任が問われかねない。問題を解決したいが、Yahoo!は協力してくれるだろうか。新聞が面白おかしく取り上げないだろうか。こんな時に「じゃあ、警察に頼ってしまえ」と思ってしまったのかもしれない。これは自己保身だ。何かエクスキューズが必要ですねということになる。こうして受験生が「偽計業務妨害」(ハカリゴトをもって業務を妨害した)首謀者になった。我々は何らかの恐れを潜在的に抱えている。世間は「私たち」を責め立てるかもしれない。であれば、先に受験生をモンスターに仕立ててしまおうというわけだ。でも大学の何が挑戦を受けたのだろうか。
さて、かつて大学は警察が安易にキャンパスに踏み込んでほしくないと考えて権力と距離を置いた。アカデミズムとしては健全な距離だったように思えるし、自信もあったのだろう。どうやら現代の大学にからはこうした距離感は失われているようだ。コミュニティをどう自治してゆくかいうことを社会全体が考えなくなって来ているのかもしれない、とも思う。
社会との間合いの取り方はコミュニティが本来持っている本能に近いレベルの感覚だ。これが失われているということに、我々は少し恐怖したほうがいいのではないか。そして、大学の先生たちは、その瞬間に抱いた「世間から暴力的にバッシングされるかもしれない」とか「自分たちの制度が揺るがされてしまうかもしれない」いう恐怖心を言葉にして説明したほうがいい。
ネット上の好ましくない投稿をすべて偽計業務妨害で処理するのは言論にとっては自殺行為なのではないかと思う。アカデミズムがそれに加担しつつあるということは重要な意味がある。この件で誰かを批判したいとは思わない。勇気を持って反省を口にし、考察すべきだろう。恐怖に支配されてはならない。
(私のコメント)
最近はテレビをつければ大相撲の八百長の問題や、京都大学のカンニングがニュースのトップになり大騒ぎですが、本来ならば相撲協会や大学内部で始末すべき問題であり、警察沙汰にすべき問題ではないだろう。もちろん八百長が賭博に関係していれば犯罪ですが、相撲自体が八百長だからといって警察沙汰にする問題なのだろうか? たまたま賭博がらみでメールを調べたら八百長を伺わせるメールが出てきた。しかし八百長自体は犯罪ではない。
京都大学の入試で、カンニングでネットが使われたということで大騒ぎになっていますが、これ自体も警察沙汰にする問題ではなく学内で処理すべき問題だろう。それともこれからはカンニングすれば偽計業務妨害で全部逮捕するつもりなのだろうか? たまたまメールやネットが絡んでいたから、マスコミが面白おかしく報道していますが、八百長もカンニングもモラルの問題であり、モラルの問題を警察が出てきて取り締まるようになってしまったら世の中おしまいだ。
株式日記では、八百長の問題もカンニングの問題も書いたように、八百長を犯罪のように取り扱うことも反対だし、カンニングもルール違反の問題であり、大学はこれを犯罪として警察に訴えた。カンニングが犯罪ならば、これからは入試の試験会場には警察官を配置して監督させると言うのだろうか? カンニングがばれたら現行犯逮捕というわけだ。これは大学にとって自殺行為でありやりすぎであると思う。
それよりかは、カンニングがしたくても出来ないような方法を取るべきだったし、試験問題も記憶力がよければ何とかなるような試験問題を変えるべきだろう。いまや大学は学生の確保が困難な時代となり、受験生は大切なお客様になってしまっている。難しい問題を出せば誰も合格できないと言うことになってしまうから、やさしい○×テストばかりになって、アルバイトばかりしていても大学が卒業が出来る。
もはやカンニングがどうこうと言った問題ではなく、大学生の学力そのものが崩壊の危機に瀕している。早稲田や慶応大学でもAO入試が多くなり、大学側が学生確保のためにAO入試や一芸入試や自己推薦などを乱発している。だから入学試験自体が空洞化しているのであり、入試自体がセレモニーにすぎない大学も多くなっている。これでは就職でも企業側は大学の新卒者を厳選せざるを得なくなる。
だから入試のカンニング自体がこれほど厳しく取り締まりの対象になること自体が不可解だ。京都大学にしても、かつての名門大学の面影はなくなり、携帯電話で簡単にカンニングが出来る程度の問題を出しているから問題なのだろう。これからの日本社会においても記憶力が良いだけの受験エリートよりも、今までなかったようなものを作り出せる人材を求めている。
芸大を出ても、優れた芸術家になれるわけではないだろう。東大の理工学部出てもアップルのアイパッドを作れるわけではない。本当に優秀な人材は大学を中退している。マイクロソフトのビル・ゲーツもフェイスブックのマイケル・ザッカーバーグもアップルのスティーブ・ジョブスもみんな中退している。今の大学は社会が本当に必要としているものを教えていない。
新しいものを創造するには、考える力を養成すべきなのですが、京都大学の試験を見ると和文の英訳や、数学の基本的な問題ばかりで、これでは考える力を見るのは不適当だろう。創造力を鍛えるには古典を学ぶべきであり、哲学を学ばなければなりませんが、日本の大学生はこれが出来ていない。古典も哲学も現代社会では役に立たないように思われていますが、私の社会経験ではこれが一番役に立ったと思います。
実社会に出れば分からないことだらけですが、正解のない難問にぶち当たった時に役に立つのが古典であり哲学だった。だから京都大学の入学試験でも古典や哲学を試験に出すべきであり、マイケル・サンデルの「正義とは何か」といった問題を出せばカンニングなどしようがない。正解がないからだ。私が財務省のエリート官僚を馬鹿にするのは、彼らは古典の素養がなく哲学も持っていないからだ。彼らの顔を見れば分かる。
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