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百術を弄する。
これは才人?仙谷だけの行いではない。
米国も日本操作の為に百術を弄している。
大車輪で動いている。
そのうちにオーバーヒートするだろう。
それに対し、
小沢一郎は泰然としている。山の如くどっしりしている。
亀井は相変わらず動きが鈍い。戦術的な切れがない。
これらの様子は多くの有権者をやきもきさせているが、
しかし、
百術を弄する弾圧に対し、権力を掌握していない側が弄せる術は百二は到底及ばない。
ここは自信があれば泰然として小ざしい動きをしないことが却って有効であると考える。
小沢や亀井が意図してそれをしている訳ではなかろう。
関が原の石田勢と徳川勢の睨みあいに似たものすら感ずる。
決着が着くまでに小沢と亀井の政治生命が続くかどうかは判らない。
また、ナカソネとナベツネが生き延びているかも判らない。
戦前日共の福本イズムで有名な福本和夫の息子が高齢で死んだらしい。
この人物はどうやら日本の政界では裏の大物だったらしい。
戦前から戦後まで左翼と右翼の思想と運動と組織において共通して重なるところがあって今までに至っている事を多くの国民は注意を払っては来ていないであろう。
外国勢力の日本コントロールの手が入る前段階において、戦前ファシズムの起動イデオロギーとしての近代主義があり、そこではマルクス主義も資本主義高度化生産性高度化論も軍備近代化論も近代化論を共通項とする事により日本官僚主導ファシズムの船に共に乗り組んで国民の上に政治と産業の支配を行ったのである。
天皇制イデオロギーとか復古思想は看板の役割を担わされ、下部構造は近代主義が担ったのが戦前ファシズムであった。
左右の近代主義によってそれは担われた。
戦後の支配体制にはその組織構成が占領軍により改編されて残された。
それにより、ナカソネ・ナベツネに象徴されるように、
右翼もどき(贋右翼)と左翼もどき(転向?左翼)によって日本の政治産業が支配されてきたと言えるだろう。
思想右翼も思想左翼も宗教団体が目指すと同じく、政界と財界に潜り込む事を当然ながら目指してきたと考えてよいだろう。
その実態は公然化してはいない筈だ。
目指す目的が権力獲得であれば、それはお題目としてのイデオロギーは方便であり、実は支配者を目指すものである可能性が高い。
目的が同一であれば、左右の違いは方便でしかないのであるから、手をつなぐ話は速く纏まるだろう。
かくして旧ソ連と現在までの日本の支配機構はよく似ていて官僚機構の優秀性ではソ連を遥かに凌いできたであろう。
北朝鮮も及ばない。
何しろ幕藩体制300年の伝統すら踏まえている。
であるから、日本の支配機構はソ連のようには倒れないだろう。
明治維新体制から戦後米国追随体制に継続する権力機構のあり方はやはり鎌倉から室町から徳川にいたる幕府政治と看做して良いだろう。
武士が官僚に替わって道徳的に低劣化しただけの事である。百姓町民は頭を下げてそれに従ってきた。天皇は権威として持ち上げられてきただけである。
であれば、今後の官僚幕府の行き詰まりによる崩壊も鎌倉・室町・徳川の幕府の崩壊と同じ道筋を辿ると考えて良いだろう。
私は武士もどきの官僚の崩壊によって時間は掛かるが幕府政治は終わり平安の時代を遡り、謀略横行の奈良時代を遡って共同体の政治の復活に至ると考えている。
左もどき右もどきの潜む官僚支配の自動崩壊に対しては、小沢や亀井の愚直泰然が計る事なく行方を示して有効であると考える。
小沢も亀井も「将軍」にはならないだろう。
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A6%8F%E6%9C%AC%E5%92%8C%E5%A4%AB/
福本和夫(ふくもとかずお) [ 日本大百科全書(小学館) ] (1894―1983)
マルクス主義理論家。島根県生まれ。第一高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科に入学。1920年(大正9)卒業。22年文部省在外研究員としてドイツ、フランスに留学、マルクス主義研究に専念した。24年に帰国、雑誌『マルクス主義』にその成果を次々と発表して注目を集め、26年には山川均(ひとし)の唱える共産主義運動の指導理論を批判した。福本は、労働者の自然発生的な階級意識の成長を重視する山川イズムを組合主義・折衷主義と批判し、革命的分子の階級意識を外部から注入しなければならないとした。とくに「結合の前の分離」という組織論にたって理論闘争の必要を訴えた福本イズムは、解党状況の下で前衛党の建設と明確な理論を求めた知識人や学生を魅了し、一世を風靡(ふうび)した。しかし、この理論は組合運動を軽視しただけでなく、組合運動の分裂を激化させ、二七年テーゼで批判されて失墜した。福本は28年(昭和3)三・一五事件で検挙され42年まで14年間入獄した。獄中で「日本ルネッサンス史論」を着想し、出獄後は江戸文化など文化史の研究と農業問題の研究に専念した。また晩年はフクロウの研究で知られた。
[ 執筆者:北河賢三 ]
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