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投稿者:渡邉良明 投稿日:2010年11月15日(月)15時42分59秒
勇気ある人々
この世には、たとえ自らの命や名誉が奪われても、雄々しく権力に立ち向かう人々がいます。このような「勇気ある人々」が、一人でも増えれば、この閉塞感に満ちた日本も、もっと風通しのよい、明るい国になるのではないでしょうか。
私事ですが、32年間の在京中、私が、「警察権力」に対して、抜き難い不信感を抱きましたのは、先述しました「坂本堤弁護士一家殺害事件」の他に、実は、二つ有ります。
少し古い出来事ですが、それらは、哲学者三木清の獄中死と、作家小林多喜二の拷問死に由るものです。
この両悲劇は、その事実を知った20歳前後の多感な私の心に、非常に消し難い刻印を刻み付けました。古い話ですが、ご参考までに、どうか、よろしくご高覧ください。
三木清という哲学者の名前を耳にされた方も多いと思います。戦前・戦中における一流の碩学で、「自由主義者」だった彼は、その、まばゆいほどの知的輝きゆえに、軍部や保守主義者たちから憎まれ、かつ警戒されていました。
その彼が、あの治安維持法下、作家で、共産主義の信奉者でした高倉テル氏(釈放後、45年に、日本共産党に入党)を、一晩、匿(かくま)った咎(とが)で拘留されました。
拘留期間は、6ヶ月間でした。しかし、その間、彼には、何と接見も差し入れも許されなかったのです。
高倉氏は、今で言えば冤罪のような事件で、当時、仮釈放の身でした。しかし、彼女は、なぜか逃亡して、思わず、旧知の三木氏を頼りました。
普通の人間なら、申し出を、体よく断わるところです。しかし、三木氏は、そうはしませんでした。情において、忍びなかったのでしょう。
そこに、私は、彼の情愛の深さと、持ち前の「勇気」を感じます。
なぜなら、あの厳しい時代、それも終戦の年(昭和20年)は、日本の敗色が日増しに濃厚になり、それだけに、国内の権力者たちは、内心焦りを感じていたでしょうし、益々ヒステリックになっていたと思うからです。
そんな厳しい状況下で、当時、手配中の女性を匿うことは、それこそ、非常に危険で、それを行うには、たいへん「勇気」を要したと感じます。
しかし、三木氏は、繊細であると同時に、実に豪胆な人でもありました。
折悪しく、その後、高倉氏は捕えられ、彼女の自白の過程で、三木氏に匿われた事が発覚しました。
それで、警視庁は、この些事を針小棒大に拡大解釈して、花形の「自由主義者」三木清を捕縛するに至ったのです。
彼が拘留された西多摩刑務所は、非衛生で、実に劣悪な環境でした。そこで、彼は、重い疥癬(かいせん)病をうつされ、それが影響して腎臓病が悪化し、栄養失調状態で死亡しました。正直、警視庁の首脳たちは、三木氏を殺す気だったと思います。
彼の遺体が発見されたのが、敗戦の年の9月26日(!)でした。享年48歳でした。
高倉氏は、釈放後、三木氏の愛娘である洋子氏に対して、「自責の苦しみは、おそらく私の死ぬまで、消えますまい」と述べています。
高倉氏は、彼女の94年の生涯において、三木氏に対する“申し訳けなさ”を、決して忘れることはなかったでしょう。
もし、三木氏が生きて釈放されていたら、戦後日本の哲学界や思想界は、大いに活気づいたと思われます。それは、まさに“巨星、墜つ”の観がありました。
ちなみに、岩波文庫本の末尾に、「読書子に寄すー岩波文庫発刊に際してー」という一文があります。その冒頭に、こう記されています。
「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。
かつて民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級より奪い返すことは、つねに進取的なる民衆の切実なる要求である。
岩波文庫は、この要求に応じそれに励まされて生まれた」と。
岩波文庫の愛読者や、本書を一度なりと手に取られた方なら、この文章を、きっと目にされたことでしょう。私も、かつて読んで、心から感動した一人です。
本文には、創業者岩波茂雄氏の名前が記されています。でも、正直、私には、岩波氏に、これ程の文才があったとは思えません。(無論、彼の実業家としての手腕や業績は認めますが。)
実は、この名文の書き手(今で言うゴーストライター)こそ、三木清氏なのです。それなら、きっと、皆様も、ご納得がゆかれるかと思うのです。
また、『蟹工船』の著者小林多喜二は、治安維持法下、非合法の共産党員として、昭和8年(1933年)2月、赤坂で逮捕され、築地署で特高の苛酷な拷問を受けて殺害されました。享年29歳でした(Wikipedia 参照)。
実は、1928年(昭和3年)2月、第一回目の普通選挙が実施されました。
しかし、当時の田中義一内閣は、社会主義的な政党(いわゆる無産政党)の活動に危機感を抱き、同年の3月15日、治安維持法違反容疑により、全国で一斉検挙を行ないました。そこで、日本共産党や労働農民党などの関係者1600名が、検挙されました。(*ただ、当時の正式な共産党員は、全国で400名。)
その他、検束された労組員や一般労働者数は、全国で、優に1万人は越したと思われます。それは、まさに昭和初期の大弾圧でした。
小林多喜二氏は、この「三・一五事件」を題材にして、『一九二八年三月十五日』を発表しました。
本著での、特別高等警察(いわゆる、特高)による拷問の描写が、彼らの憤激を買ったと言われます。また、一説には、この記述が、33年の彼の拷問死事件につながったとも言われています。
それで、実際、どんな内容かと思い、『蟹工船 一九二八・三・一五』(岩波文庫)を購入して、読んでみました。読んで、その筆力と文章内容の濃密さに、私は圧倒されました。
1928年(昭和3年)に上梓した『一九二八・三・一五』も、その翌年に物した『蟹工船』も、小林氏は、まさに彼の命を賭して書いたと感じます。何よりも、彼は、両著を”書かずにはいられなかった”のではないでしょうか。
事実、文芸評論家の蔵原惟人(これひと)氏の解説によれば、小林氏自身、次のように書き遺しています。
「・・・・しかも、警察の中でそれら同志に加えられている半植民地的な拷問が、いかに残忍きわまるものであるか、その事細かな一つ一つを私は煮えくりかえる憎悪をもって知ることが出来た。私はその時何かの顕示(*啓示の意か)をうけたように、一つの義務を感じた。この事こそ書かなければならない。書いて、彼奴等の前にたたきつけ、あらゆる大衆を憤激にかり立てなければならないと思った」と。
本文中の、”この事(=拷問の実態)こそ書かなければならない”という確信こそが、勇気さえも超越した、彼の使命感だったと思います。
まさに、小林氏は、この使命感に殉じたのだと思うのです。しかし、同時に、この使命感さえ、私は、人間の「勇気」無しには芽生えないと感じます。その意味で、まさに、「勇気」こそが、私たちの最後の人間性なのではないでしょうか。
三木氏や小林氏の生きざま(あるいは、死にざま)を見た時、私は、そこに、“勇気ある人々”の理想型を感じずにはいられないのです。 【了】
(追記:バード様 お元気ですか? いつも、秀抜なるご論考を、心より共感しつつ拝読しています。
当方こそ、先日、過分なお言葉を頂戴し、誠に身に余る光栄です。
本掲示板は、gigi様の日頃のご献身・ご尽力の賜物により、国内有数の情報発信の場であり、かつ理想的な「相互学習」の場でもありますね。
とりわけ、バード様のような、素晴らしい同志(それも「同期の桜」)を得たことで、私の心は、益々若やぐ思いです。
あなたやマッドマンさんも、上記の「勇気ある人々」だと感じます。
当方こそ、どうか、色々と教えて下さいませ。 渡邉良明 拝 )
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