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明日(あす)からできる、司法改革〜♪ 〈後〉
2010年 11月 16日 10:43
三上英次
前回記事 ⇒ http://www.janjanblog.com/archives/23416
前回記事では、「裁判所の現状」や「裁判の当事者として」どんなことを心がければよいのか、大高さんの言葉を紹介したが、〈後編〉では、当事者としてではなく、「裁判を傍聴する立場として」どのような“司法改革”が可能なのか、再び大高さんの主張に耳を傾けてみよう。
◇◆◇裁判所を見守る主権者として◇◆◇
(6) 裁判官の言うことを記録しよう
――裁判所の中で、テープレコーダーを回そうとすると「やめて下さい」と言われます。理由を尋ねると「きまりで決まっていることだから」という返事が返って来ます。でもね、みなさん、この「きまり」とは、「庁舎管理規則」というもので法律ではないのです。
――法律ではない「庁舎管理規則」が、私たちの〈知る権利〉を犯しているとすれば、そういう「きまり」は、どうなのでしょうか。改めたり、その規制が本当に必要なものか考えたりする必要はありませんか?
大高さんの主張は、簡単だ。合理的な制限はわかるが、「きまりだから」「規則で決まっていることだから」と有無を言わさずに、特に我々の〈知る権利〉を制限するようなことはおかしいという主張だ。
裁判所だけに限らない。図書館でも公営プールでも「利用規則」のたぐいはある。学校には「校則」という名のルール(ある種の利用規則)がある。それらは法律ではないが、図書館、プールを利用する人が快く利用できるように、そして一定のルールが無いことで生じる不利益を避けるためのものである。
ルール(規則)は同時に、利用者への制限であるから合理的に説明できることが必要である。プールで潜水をしていたら、溺れて沈んでいる人と見分けがつかない。本に書きこみをすればあとの人が迷惑…という具合だ。学校の校則で「髪の毛の色」あるいは「靴下の色」まで指定するのには、合理的理由(教育上の必要性)があるからだ。だから、そういう必要性の無いところでは、「茶髪不可」とか「白い靴下以外不可」といった規則は、その場にはなじまない。たとえば、裁判所が傍聴者に対して「髪の毛」や「靴下」の色を規則で指定し、違反する人は裁判所内に入れないとしたら、それは滑稽である。どうして黒い靴下ではいけないのか、その理由を問い詰める人に「裁判所の規則で決まっているからです」と職員が答えたとしても、尋ねた側はとうてい納得しないだろう。
それでは、裁判所での写真撮影や録音はどうだろうか。裁判所でも、当然、(1)被撮影者が未成年の場合(2)同じく犯罪被害者の場合(3)その他被撮影者が望まない等合理的理由のある場合は、当然撮影の制限は必要だ。ところが、実際の裁判所の対応を見ていると、世の中の常識から見て、はなはだおかしいものもある。たとえば、歩道上から、裁判所を撮るのはOKだそうだが、敷地内から外の歩道を歩く人を撮るのは「裁判所内でシャッターを押すことになるから」禁止だそうである。しかし、これは、ほとんど撮影禁止の意味が無い。〔注1〕
裁判所は、学校のように教育活動をするところではなく、真実の究明とそれに基づく法的判断や救済が目的だ。もし、写真撮影や録音によって、真実の究明がしにくくなるというのであれば、それらへの限定的制限には理由がある。また、刃物の持ち込みは、裁判所での刃傷沙汰(にんじょうざた)が過去にあるから合理的と言えるだろう。
大高さんは訴える。
――事実を最も簡明に、かつ確実に記録するのがカメラ、テープレコーダーの類いです。それらによって、私たちの〈知る権利〉がより確かなものになるとすれば、それらの使用制限は、きわめて謙抑(けんよく)的でなくてはならないはずです。カメラの場合は、シャッター音がしたり、フラッシュを焚かれれば集中力がそがれたりするというのはわかりますが、メモをとるのにほとんど音はしないのと同様に、テープだって機械が回っているかどうかは、ほとんどわかりません。
――それなのに、どうして裁判所は、法廷での録音をさせないかと言えば、自分たちの言動がおもてに出ることがこわいのです。もし、本当に公正に、憲法の精神に則って裁判を進行させているのであれば、カメラでも録音機でもこわくないはずなのです。本音として、自分たちの仕事ぶりが表に出るのがいやだ、でも、それは言えないから「裁判当事者のプライバシー」とか「裁判の円滑な進行のため」なんて抽象的なことを言います。録音できない事例をいくつか厳格に定めて、それで本当に守るべきプライバシーは守ればいいのではないでしょうか?
裁判所は、当然、裁判を円滑かつ公正に進める責務を負っている。また、個々人のプライバシーも守られる必要はある、しかし、現行の規則は、国民(利用者)に対して、大きく網(あみ)をかける形で、録音機器などの使用を制限し、それは国民の〈知る権利〉を害しているというのが大高さんの主張だ。
これに関しては、法廷内での「メモ」の是非を問うてアメリカの弁護士ローレンス・レペタ氏の起こした「法廷メモ訴訟」が思い出される。その裁判で、1989(平成元)年3月に最高裁判決が出て以降、実質的に法廷でのメモは“黙認”となっている。今後は、手が不自由でうまく筆記がしにくい人が、メモ帳代わりにノートパソコンでメモ書きをしたり、ボイスレコーダーで録音したりすることが許されるようになるのだろうか――。
あるいは「そもそも、裁判の進行にほとんど影響を与えない個人の情報収集(例 メモ書き)の手段を裁判所が〈許す/許さない〉という発想そのものが“上から目線”だ」という議論も出てきそうである。
いずれにせよ、かつては一般人による法廷でのメモ書きすら認められていなかったと点からも、裁判所の硬直した体質が見て取れる。傍聴人一人ひとりが、国の〈主権者〉であり、〈知る権利〉を有しているという視点からは、単に「規則でそうなっているから…」という理由だけで、何かを禁止するというような状況は変えて行く必要があるだろう〔注2〕。
また、最近は「取り調べの可視化」の必要性が議論されているが、自分に関心のある情報の可視化、つまり「自分が傍聴した法廷での情報を保存していつでも再現できるようにすること」)――このことも私たちの〈知る権利〉と直結して今後議論されてもよい〔注3〕。
(7)傍聴席からの、裁判官に対する「起立・礼」をやめよう
――「おじぎ」というのは、もともと目下の者が目上の者に頭を下げ、それに目上の者が返礼、礼を返すというものです。それだけではなく、法廷での作り・位置関係は、無意識的に、ある種の“上下関係”を作り出しています。市議会のように上から議場を見おろすのではなく、裁判官が法廷を高い位置から見おろしているのが日本の法廷です。
法廷の物理的な作りだけではなく、もっと根本的な「国民」と「裁判官」との関係も思い起こすべきだと大高さんは呼びかける。それが、前回記事の冒頭で紹介した大高さんの訴えだ。
――裁判官は、国民の税金による雇われ人(公僕)です。ですから法廷では開廷にあたって、「これから、憲法や法令に則(のっと)って、公正な裁判を心がけます。どうか、主権者である国民のみなさん、この法廷が真実究明の場になっているかどうか、見守っていて下さい」という心持ちで、裁判官こそが、傍聴席に向かって頭を下げるべきなのです。
たしかに、裁判という公務を、見ている人の前で裁判官が行うのだから、「これから職務を執り行います」という清新な気持ちで裁判官が、裁判を見に来た人たちに頭を下げるのではあればわかる。けれども、傍聴人らが全員座ったところに、裁判官が正面の高い扉から登場し、その裁判官に向かって傍聴人らが立ち上がって頭をさげるというのは、〈国民主権〉の視点からも奇異なところもある。
――そんなこと、どうでもいいじゃないか、と言う人もいます。市役所に行った時も、私も窓口の人にマナーとしておじきはしますから、たしかに細かいことかもしれません。しかし、ふるまいというのはコワイもので、何気なくおこなっている動作が、私たちの意識を規定するということも往々にしてあるのです。よく見てみて下さい。傍聴人の人たちが頭を深々と下げているのに、ふんぞりかえって礼をしない裁判官も見かけます。傍聴人らに頭を下げられれば、裁判官だって、何かえらくなったような気持ちになるのです。
裁判所にやって来た男性からの質問に答える。「裁判所がまともになるためには、国民全員が裁判所の実態について知り、それを自分たちで変えて行こうという意識が絶対必要です。誰かがやってくれる、政府に任せておけ…では日本の裁判はよくなりません」
――しかし、裁判官席にいるからといって、えらくも何ともないのです。「えらい」のは、法の精神に基づいて、弱い立場の人たちに法的救済を可能とするような判決文を書いた時です。そういう時には、傍聴人席の人たちも、その裁判官に敬意をこめて、立ち上がって礼はしてもよいと思います。
たしかに、ほかの公務員、例えば学校の授業参観の時も、わざわざ生徒と保護者がそろっている中を教師が登場し、それに合わせて参観者も立ち上がって頭をさげるということは見かけない。市役所の窓口でも、社会的なマナーとしておじぎ程度はするが、あくまでも個人の判断だ。ある種のセレモニーとして、傍聴人らが着席する中、裁判官が現れて、全員が礼をすることで、大高さんの言うように、知らず知らずのうちに私たちがマインド・コントロールされている可能性も否定できない。
◇
以上、東京地裁前でマイクを片手に道行く人に訴えている大高さんの主張を紹介したが、自分が裁判当事者になった時に、「陳述書を読み上げさせてくれ」というのはかなりの勇気が要る。そういうことを言えば、場合によっては裁判の進行が遅くなり、それこそ〈赤字〉〈黒字〉を気にするような裁判官の場合、発言を求める行為そのものが、裁判官の印象を悪くする、簡単に言えば裁判官のご機嫌を損ねて判決そのものに悪い影響を及ぼすことがあるからだ。
だから、(1)〜(7)まであるうちの、どれから実行できるかは、人によって違う。とりあえず、すぐに実行できそうなものは、(6)や(7)の「立たない/礼をしない」だろうか。これならば、万一、「どうして(私に)礼をしないのですか」「どうして立たないのですか」と問われても、自分で考えることを言えばいいし、ただの傍聴人という立場でいれば、訴訟当事者に迷惑がかかることもない。せいぜい「あくの強い傍聴人だ」と裁判官が内心腹立たしく思うぐらいが関の山だ。
傍聴席の一人が立たなければ、裁判官は居丈高(いたけだか)に起立や礼を促すこともできるが、もし、その場の傍聴人全員が、冒頭の大高さんの言う(7)を実践したらどうだろうか。そして、ある法廷だけではなく、そういうことが何十回、何百回と多くの法廷で続いて行けば、自然と「起立/礼」がなくなるだろうし、人々の意識も、そして裁判官らの意識も変わっていくだろう。
それでも、みんなが「起立・礼」をする中で、自分だけ座ったままというのは肩身が狭いという人のために、とっておきの方法を紹介する。まわりに合わせてどうしても「起立・礼」をしてしまうという人でも、次のようなことなら簡単にできるはずだ、――つまり、まわりに合わせて立ちながら、静かに心の中で次のようなことを自問してみればよいのである。
例 「どうして傍聴人が公僕である裁判官におじきをしなくてはいけないのだろう?」
例 「よい仕事をした裁判官に、傍聴人たちが立ち上がって〈GoodJob!〉と言って頭を下げるのならわかるが、根拠もなく、立ちあがって礼をするというのは、どうも儀礼的だなぁ」
例 「わざわざ交通費をかけて裁判所に足を運んだ国民が、どうして裁判官に敬意を表して礼をしないといけないのだろう?裁判官こそ『よく裁判所までお越し下さいました』と思って傍聴席に目礼ぐらいしてくれてもいいのではないだろうか、何もお茶ぐらい出せよ…とは言わないが」
さらにもうひとつ――。法廷では、何となく緊張してしまって、そこまで心の中でつぶやく余裕が無いという人にも、よい方法がある。それは友だちとお茶を飲むとき、赤ちょうちんで少し態度が大きくなった時に、親しい人と「ねぇねぇちょっと聞いてくれる?」「法廷でのことなんだけど…」と切り出してみよう。そうやって、身近なところで、誰かと裁判や法廷でのありかたについて意見交換し、自分なりの考えを持つこと(そして、時機が来たら、その考えに基づいて行動してみること)――これこそが本当の意味での司法改革かもしれない。
(了)
〔注1〕最高裁の場合はもっと顕著である。そもそも裁判所の敷地内に一歩でも入ろうとすると、警備員が駆け寄って来るし、歩道にいる人を撮ろうとしていちばん外の鎖をちょっとまたいだだけでも、警備員が注意しに来る。
〔注2〕法廷での写真撮影を禁止することについての合憲性は、昭和33年2月に、いわゆる「北海タイムズ事件」の最高裁判決で「合憲」とされている。
〔注3〕今年9月に出された、いわゆる「クジラ肉」裁判(青森地裁・小川賢司裁判長)では、10月9日現在、判決文が被告人側に届いていなかった。こういうことも〈情報(例 判決文)の開示〉〈知る権利〉の問題として考える必要がある。
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