http://www.asyura2.com/10/senkyo99/msg/576.html
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■米国型自由原理(連帯分解・孤立型)を一気にコペルニクス的転回させ得るポーランド型自由原理(連帯持続・深化型)のユニークな意義
<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101115
[エピローグ動画] Lara Fabian - Il ne manquait que toi(Only I missed You)
[http://www.youtube.com/watch?v=WC-5L6GBBeM:movie]
[画像]松島、円通院の夜桜ライトアップ(1)…2010.11.10、撮影
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(エピローグ)
●当内容は、[点描ポーランドの風景/ワルシャワ編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)(第一部)(1/2)、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101103]、[同(第二部)(2/2)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101111]の
コメント&レスを転載したものである。
●偶然に、“ぴっちゃん”さま(おそらくポーランド在住の方)との対話(ディアローグ)型のコメント&レスとなり、新たな視点などの発見があったので、その内容を転載して独立記事にした。なお、当記事に出てくる「シュラフタ民主主義」、「1791年5月3日憲法」、「ポーリッシュ・ポジティヴィズム」など普段に余り馴染みがないと思われる用語については、御面倒でも上の二つのオリジナル記事をご参照願いたい。
●いろいろ興味深い点が見つかったが、特に重要なポイントは『自由原理が決して米国の専売特許(リバタリアニズム=連帯分解・孤立型)ではなく、特に日本では、今まで殆ど歴史的にも政治・経済学的にも無視同然であった<ポーランド型自由原理=連帯持続・深化型>があり、それが現代のポーランド政治の舞台で見事に生かされつつあるという認識が明瞭に確認されたことだ。とはいえ、未だに“地動説時代に天動説を聞かされる”かの如き感覚で受け止められるはずだが・・・。
●また、ここでは深く捉える余地がなかったが、これは周知のとおりの米国型リバタリアニズムの変種(というよりもリバタリアニズムの原種が欧州の土壌でヨーロッパの心臓とも呼ばれることがあるポーランド型自由原理の養分を吸い取りつつ、突然変異したとでも見なすべき公・財・労による分かち合い&相互監視型)である、オランダ型自由原理もある。
●いずれにせよ、これらヨーロッパ型の自由原理には、多様な人間関係、自然環境、地域活動、家庭生活など広義の外部経済を一切無視して経済・企業活動が成り立つという発想はない。ましてや、<公(政・官・学)・財・労>が癒着・談合して労働者並びに国民一般を騙しつつ成長のパイを密かに分けあうという<たかり経済>なる怪しからぬ発想はない。
●目下の「官民主党政権」が国民の期待はずれで“官からカ〜ン!”と揶揄される始末になってしまった(しかも、その帳尻合わせは国民自身の肩へドッサリと降りかかってくる)根本には、やはり、このような意味での社会・政治・経済についての原理原則的な部分を軽視してきたツケが回ったのだと見なすこともできそうだ。今や、超ネット社会化の影響かどうかは知らないが、日本の社会・政治・経済環境についてのミクロで短絡的な“分離・分裂・分解型のモグラ叩き現象”だけが益々過熱しつつあることに懸念を覚える今日この頃である。
[画像]松島、円通院の夜桜ライトアップ(2) …2010.11.10、撮影
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(本 論)
・・・・・以下、コメント&レスの転載開始・・・・・
ぴっちゃん 2010/11/12 13:36
私は菅さんが新自由主義と相性がいいのは当然のことだと解釈しています。ポーランドや初期ホイッグ党の自由主義とは異なり、新自由主義は社会主義と根を同じくする設計主義であり、マクロ経済学的には新古典主義で説明できるからです。
詳しくはポーランドの生んだ新古典主義の大経済学者オスカル・ランゲの業績を参考になさってください。彼は共産主義の中央計画経済の基本的手法としての新古典主義を研究して、ついに理論的には経済学の最終原理に到達しました。
しかしこの「最終理論」はいっぽうで新古典派経済学そのものに付随する致命的な臨床上の欠陥を明らかにしたのです。新自由主義と訳される政治思想にはNew LiberalismとNeoliberalismの2つがあり、政策アイテムの段階で両者はかなり異なっているように見えますが、根本的な原理のところで新古典派経済学の同じ現実解釈に基づいているので、どちらも同じ種類の矛盾に突き当たって破たんします。
toxandoria 2010/11/15 19:42
“ぴっちゃん”さま、コメントありがとうございます。レスは「2010/11/12 13:23」の方へ書かせて頂きます。
・・・・・
ぴっちゃん 2010/11/12 13:23
「ポーランドの自由主義」の主流派は啓蒙時代にエドマンド・バークが率いていたイギリスの初期ホイッグ党と共通するものがあります。ホイッグ党に対応するのが、同時代のポーランドの国会における政治会派「ファミリア」と、それが中心となって運動した五月三日憲法の推進者たちではないでしょうか。
つまりルソーがポーランド改革期にかかわっていたものの、自由主義とはいってもポーランドの自由主義はルソーの社会設計的な自由思想とは根本的に異なるものであると思います。ルソーの設計思想はむしろ北ドイツやアメリカ合衆国の商人たちと相性が良いように思うのですが、実際のところヘーゲルを通じてドイツの歴史学派に受け継がれているように思います。
ドイツはこの流れなので、同国の大政党はSPDもCDU/CSUもこの思想を基盤にしていますし、特にSPDはそれに加えてジャコバン的な因業な思想が見られるように思います。現代アメリカでは民主・共和両党がどちらもこの手の設計主義の流れを受け継いでいるように見えます。
ドイツやアメリカの自由思想はポーランド人の自由思想とは似て非なるものですから、五月三日憲法の意義や重要性を無視したブキャナンの的外れのポーランド批判は、そういった、アメリカの政治思想には存在しない、したがってアメリカ人には非常に理解しにくい自由思想をアメリカ人が曲解した結果にすぎないのではないかとも思えます。
バークの自由思想は冷戦期にハイエクによる感化でマーガレット・サッチャーに受け継がれました。彼女は英米の主流派の政治批評家や政治思想家によってかなり大きく誤解されているように思います。彼女の自由思想はヘーゲル的な自由主義とはことなり、コンベンショナルなホイッグ自由主義です。
というのも、彼女は停滞期に経済対策として規制緩和や減税を行った一方、景気が過熱すると一転増税による財政再建も志向したからです。考えてみれば非常にオーソドックスなことを、当然の経済政策を着々とこなしていった。経済政策では必要であればハト派政策、必要であればタカ派政策と、柔軟に対応します。一方、ティーパーティーに代表される設計主義的なラジカルな自由主義では、経済政策はマネタリズム的で、すべてマネーの単位で需給を考えるので財政政策も金融政策もハト派一辺倒です。
これはティーパーティーが単に特にあからさまだというだけのことであって、アメリカの大半の政治勢力にはおしなべてこの傾向があるので、あれは決して特殊な人々の集まりではないと思います。ティーパーティー運動を資金面で支援しているのはおそらくアメリカの商人や銀行家でしょう。規制緩和やハト派経済政策は彼らのビジネスを利するからです―国家経済すなわち準備通貨である米ドルの将来を犠牲にして。
貴殿の「ポーリッシュ・ポジティヴィズム」の言及に感銘をうけました。現在のポーランドではこの流れがしっかりとした政治的主流派を形成しており、国政の場でも与党となっています。それが「市民プラットフォーム」党です。
この政党の人々、すなわちトゥスク首相兼党首、コモロフスキ大統領、ブゼク欧州議会議長、ビェレツキ元首相など、そしてこの政党のシンパであるマゾヴィエツキ元首相、ワレサ元大統領などといった面々はしっかりと「ポーランドの自由主義」「シュラフタ民主主義」の本流である伝統的なモデラティズムやポジティヴィズムを受け継いでいるように見えます。
一方、バール連合的な勢力やポーリッシュ・ジャコバン的な勢力も存在します。前者はカチンスキ元首相が率いる「法と正義」党、後者は政党には発展していませんがレシェック・バルツェロヴィチをはじめとする経済タカ派を「支持する」人々(バルツェロヴィチ本人をはじめとした経済タカ派勢力の当人たちは現政権の政策批判や支持を是々非々で行い、政党などといった具体的な政治運動からは距離を置いているのが興味深く、一時的に中道政党の民主党に所属したりしたものの選挙で議席を得ようとする野心に乏しく、基本的にはノンポリのテクノクラートといえるかと思います。実際のところ彼らの多くは旧ワルシャワ中央統計学校/現ワルシャワ経済大学の出身者で、SGHそのものが一種のマクロ経済学派を形成しているようにさえ見えます。
これにロンドン・スクール・オブ・エコノミクス卒業者であるロストフスキ財務相も合わせてオーストリア学派から発展した「ポーランド学派」を形成しているといえるかもしれません。マクロ経済政策の具体的な実現手法でバルツェロヴィチとロストフスキは激しく対立していますが、肝心の経済政策そのものの内容は同じものだというのが面白いところです)。
「市民プラットフォーム」党のシコルスキ外相だけは私の見るところ少し異質で、彼はバール連合的な「法と正義」党から市民プラットフォームに鞍替えした人物ですが、彼はどうもロマン主義的な発想が強く、外交においても自らそういった欠点を露呈しています。いまのところ決定的な失敗はしていませんが、リトアニア、ベラルーシ、ロシア、ドイツなどを相手にした外交問題でそれぞれ少し危なっかしい言動があります。
こういったポーランドの自由主義を一度理解してしまうと、まるで鱗が落ちたように日本やアメリカなどの政治がその思想から今後の行動予想まですべてエレガントに整理して理解できてしまうのが、とても面白い気がします。
ポーランド経済について見れば、今後も順調に安定的に発展していけるかどうかは、ひとえに市民プラットフォーム党に代表されるポーランドの穏健主義・自由主義が、同国の人々によって高い支持を受け続けられるかにかかわってくると思います。彼らによって今後のポーランドは財政再建に向けてさらなる民営化と増税の時代に入ることは確実ですが、彼らの同志のサッチャーが過去に失敗したこの増税政策をポーランドの主流派がどう成功させられるか、というところに非常に興味を持って観察しています。
成功すれば、それはアメリカ式ケインズ主義やマネタリズムといった設計主義がはびこる現在の世界の経済学の臨床分野における画期的な大業績、あるいは政治経済学におけるコペルニクス転回的なパラダイムシフトとなるといえるかもしれません。アメリカや日本もこれに感化されて、政策の方向性が大変化することでしょう。私自身は無力なので、せいぜい陰ながらポーランドを応援するぐらいしかできませんが…。
それでは。
[画像]松島、円通院の夜桜ライトアップ(3)…2010.11.10、撮影
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toxandoria 2010/11/15 20:19
“ぴっちゃん”さま、懇切なコメントありがとうございます。
1 全般的な感想
特に、ポーランド政治の現況については、日本における情報の少なさもあり、大変に興味深く読ませて頂きました。「市民プラットフォーム」のこれからの仕事が、世界の政治経済学のフィールドでマンデルブロのフラクタル理論を実証する如き成果(コペルニクス転回的なパラダイムシフト)を齎し、日本へも大いに良き影響を与える可能性を期待しつつ、今後もポーランドの動向を注視して行きたいと思っています。
ご指摘のとおり新自由主義が社会主義(共産主義)と同じ胎盤から生まれた兄弟のようなものであることは薄々ながら感じていました。資本主義も社会主義(共産主義)も何か共通の“根源的怖れ”(人間的触れあいやコミュニケーションなども含めた意味での外部経済性に対する?)のような強迫観念(観念同時的トラウマ)を抱えており、それに突き動かされつつ暴走しているような感じです。
米ソ対立の冷戦構造が崩壊し社会主義(共産主義)が否定されたとはいえ、未だに共産党一党独裁政権の中国が米国顔負けのネオリベラリズムを採りつつ、世界の超市場原理型資本主義(超市場原理主義)を先導しつつあるという現実は、考えてみれば現代版リバイアサンの蠢きを見るようで異様さを感じます。
だからこそ、フランス大革命の影を引きずる意味での“左右のドグマ”を乗り超えた地点に立つポーランド・シュラフタ民主主義の(再)発見が重要ではないかと思っています。なお、余談ながら、このように“異様に見える中国”が、医療保険制度に限っては、日本型の「国民皆保険」の理念に倣って、全国民をカバーする完全な医療保険制度確立(目標2020年)を目指して「新医療制度改革」に取組中である(⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20091226)ことは驚きです。
ティーパーティー旋風で、せっかく生まれたばかりの「国民皆保険」に近い「オバマ医療保険改革」の先行きに暗雲が垂れこめつつあることと余りにも対照的です。それにしても、日本政府と日本国民自身が日本型の「国民皆保険」理念を蔑にしつつあるように見えるのが不可思議です。ポーランド出身の経済学者オスカル・ランゲの功績が“現在の資本主義”の限界(欠陥)を明らかにしたというご指摘も興味深いことです。
翻って、設計主義(型資本主義)の血を引くネオリベラリズムの権化のようなミルトン・フリードマンが、産軍複合体と米国政府機関の癒着という意味での米型クローニーキャピタリズム(ナオミ・クラインが言う、戦争・災害をビジネスチャンスと見なす災害資本主義の橋頭保たる米型縁故資本主義)を先導しており、その最先端に米国の仕掛型中東戦略(イラク・アフガニスタン・イラン等)が未だに大きく位置づけられていることも異様です。
実は、20世紀初頭のNew Liberalismと現在のネオリベラリズム(Neoliberalism)の違いと共通する部分(の可能性)については気づいており、一度、記事で書いたことがあります(⇒『北欧型福祉社会と米国型市場原理の共通起源、「制度経済学派&リアリズム法学」についての試論(日本は何処へ向かうべきか?)』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20091219)。
この時は、殆どが課題の抽出と羅列に止まりましたが、副次的にa「北欧型福祉原理」とb「米国型市場原理」が同根であること、「制度経済学(設計主義による公正資本主義の追求)」と「リアリズム法学(現代法理論の基盤となる考え方)」が両者を孵化させたこと、および「リアリズム法学(現代法解釈の基盤)」の北欧型・米国型への分岐(前者はJ.J.ルソーの普遍的人権へ進み、後者がリバタリアニズムの軍門に下る)」が両者(a、b)への大きな変容を齎したことなどが見えてきました。
ご指摘の「ハイエクとマーガレット・サッチャーについての誤解=両者が元祖ネオリベラリズムであるという解釈」については、覚醒の思いを感じました。たしかオーストラリア国立大学のテッサ・モリス=スズキ女史らも同じ“誤解”を説いていた筈です。オーストリア学派のハイエクが渡米後にリバタリアニズムと見なされるようになったとしても、古典的自由主義者でフランス的理性主義を批判するハイエクが元祖リバタリアニズム(従ってサッチャーも同じ)」だとする解釈は、たしかに狭量すぎると思います。そもそもリバタリアニズムそのものの範囲が極めて漠然としています。
ご指摘のとおり、エドモント・バークの自由思想(正統保守の立場≠米国保守思想)は重要だと思っています。初めはフランス革命を熱烈に支持し、アメリカ独立革命へ強い動機を与えたとされるトマス・ペインも、晩年には、コモンズと国民基金への関心からバーク的な意味での漸進的な保守思想へ接近した筈です。(エドモント・バークも、特に我が国では大いに誤解されているような気がします)
因みに、米国保守思想や日本のネトウヨの類は全く“異次元の世界”なので論外ですが、日本に真っ当な保守思想が根付かぬことも日本を大いにおかしくしていると思います。例えば、かつて自称・保守本流(?)のプリンスこと”安倍晋三・元首相が中東派遣の航空自衛隊員に向かって“坂の上の雲”ならぬ「諸君は、青嵐の天空を貫く美しい国のために・・・」なる意気盛んな檄を飛ばし、心ある人々から顰蹙を買いました。
この寸劇からは、あの石原慎太郎の“マッチョな一物の屹立が障子を突き破った”とかいう未熟で野蛮なエピソード(おそらく青春時代の)が連想され、彼ら自称・日本の世襲保守の偏向した愛国心の奥に「潜む野卑な獣性」(Phallus、Eros、Patriot観念の潜在意識下での幼児的癒着)が窺われ背筋が寒くなります。おそらく目下のところネトウヨらの信仰対象とされる“田母神閣下”現象も同類で、彼らを真っ当な日本型保守思想の代表者と見なすことは到底できません。
我が国の国会議員の約6割は世襲議員ですが、同じ世襲でも、「地盤、金庫、安倍晋三らの如き見当違いの歴史観」を世襲する日本の事情と異なり、ポーリッシュ・ポジティヴィズムの伝統を引き継ぐ「市民プラットフォーム」の議員らが<戦略的に個人の名誉と誇りを守るポーランド型自由原理>を現代政治に生かそうとする姿は真に羨ましい限りです。それこそが、仰るとおりで、シュラフタ精神を生かすべくポーランド国民のために全力を傾注する現代ポーランド型の伝統保守の姿ではないかと思います。
一方、我が国における「実効権力」(現行政権の中枢を占める労組・市民活動系左派および野党・自民党らも含む政・官(司法)・学・財・マスメディアの癒着・談合連合体)は、高度経済成長期いらい<自ら実効権力側が行ってきた悪業(=日本経済発展の代償に政・労・使・マスメディアの癒着・談合戦術を採り、無辜の社員・市民・国民層の『連帯』を崩壊させたこと)>の罪を偽装するため、一見では理想主義風の米型ネオリベラリズム(新自由主義思想)を日本再生のイデオロギーとして掲げたあげくに、日本社会を根底から疲弊させ、『連帯』の絆を解体しつつあると理解することができます。
そして、その寒々とした日本の地平を彷徨うのが、途方に暮れ孤立した有期労働者らの群れと悪徳貧困ビジネスの跋扈です。まさに、この悲惨な日本社会の現状は、共産党一党独裁体制を崩壊させたワレサの『連帯』意識が、伝統のシュラフタ民主主義精神を介して、EU議長国を約1年後に控えた今だからこそ益々立派に生かされようとするポーランド社会の健全な姿に比べれば、その余りの倒錯ぶり(ポーランド=一層の『連帯』強化へ、日本=『連帯』が、まっしぐらに解体へ進行中!)に驚かされるばかりです。それは、「日本のシュラフタ」ならぬ「実効権力層」の歴史的モラルハザードの賜物たる『日本残酷物語』です。
2 コメントに触発された連想(シュラフタ民主主義の現代的意義、小沢の政治とカネの真相、リバタリアンの“たかり経済”について、ほか)
あのアレクシス・ド・トクヴィル(1805-1859/仏の政治思想家)が冷静に観察し、その危機的未来を予見したとおり、米国は徹底した自由原理主義の国であり、特に、ここ約10年来の「第一次小泉政権」以降の(厳密に言えば、昭和57年(1982)の「第一次中曽根政権」以降の)日本が、大きく米国型の自由原理主義(リバタリアニズム型の市場原理主義)へ舵を切ってきたことは周知のとおりです。
そして、米国は本質的にリベラリズムであるというよりも「自然的リバタリアニズム」(個人主義的無政府主義に過激なほど近い『小さな政府』志向)へ現実的に近づきつつあるようです。つまり、2009年1月に就任したオバマ大統領の“チェンジ”(リベラリズム)が今回の中間選挙で“ティーパーティー”に敗北したということは、この意味でのアメリカの本質である「自然的リバタリアニズム」へ重心が傾いたことを意味すると思われます。
また、この先のアメリカが更にどの方向へ向かうのか、それがどれだけの振幅と度重なる揺り戻しで蛇行し続けるかは未知数ですが、少なくともいえるのは、金融市場原理主義に関わる革命的(相当にドラスティック)なショック等(例えば、ポーランド型自由原理の有効性に気づき自然的リバタリアニズムのマインドコントロールが解けるとか、あるいは再び超リーマン型金融パニックが襲うとか・・・)で、漸く、大きな方向転換を決定することになるだろう、ということです。
また、一つ考えられるのはリバタリアニズムのなかから、「仕掛型戦争の拡大、没落中間層と貧富差と弱者層の更なる拡大」など非常に多大な人的犠牲と大いなる人的能力の無駄(人的・人材的資源の浪費)という大迂回路を経由した挙げくにして、漸く「必要悪」としての政府の最低限の介入を認める「最小国家主義」(右派リバタリアニズムの一種)か、あるいは「ポーランド型自由原理」の有効性を(再)発見することになるのではないか、ということです。真にバカげた遠回りとしか言いようがありませんが・・・。
因みに、自然的リバタリアニズムの基底には<自我・権力・資本の三原理が渾然一体化して暴走する一種のカルト的酩酊感の如き病理>が潜在すると思われますが、それは、本質的な意味で常にアメリカが主戦・好戦国家であり続けることの証左でもあります。そして、このことは今回の米中間選挙でオバマに一撃を喰らわせたティーパーティー旋風の過熱ぶりが見事に象徴しています。
未完のプロセス(過程)に過ぎぬ資本主義が中間層なる公正実現の幻想をバラマキつつ再生産の過程を持続させるための暴力構造の内包を指摘したのはナオミ・クラインの「大惨事(災害)資本主義」です、ポーランドのシュラフタ民主主義は、これへのアンチテーゼと見なすことができます。具体的に言えば、それは欧州で最も先進的な民主憲法であった「1791年5月3日憲法」による政治権力(この場合は王権)への授権規範性の役割です。
つまり、肝要なのは、<リバタリアニズムが唱える政府の大小の是非>ではなく、<権力機構(政府および実効権力)が未完のプロセスに過ぎぬ資本主義の奴隷(下僕)と化していないか>を絶えず「民主憲法」下で監視できるかどうかということです。シュラフタ民主主義の現代的意義は、特にこの一点にこそ関わると思います。
例えば、シュラフタ民主主義的な視点(発想・観念・概念)が全く日本で欠落していたため生じた無批判を是とする親方日の丸の空気が実効権力側を増長させる結果となり、それと癒着してきた主要メディアがプロパガンダを仕掛けたため「小沢の政治とカネ」が見事に成功してしまったとも言える訳です。
その挙句の果てが「菅からカ〜ン内閣」による現在の日本の大混迷です。しかし、そもそも、この異常な潮流が生まれた原因は何だったのか?その発端は、1993年の「平岩レポート」にあると考えられます。
同レポートは、米国流の先進的な新自由主義(ネオリベラリズムという新しいイデオロギー)思想に則り、規制緩和・自己責任・市場原理で<新ビジネスと労働市場を創出すること>こそが、日本のこれからの未来を決めることになる、そして、その障害となる敵こそ<既得権益集団=政財界の癒着構造>だと自己批判を込めつつ高々と掲げるパフォーマンスを見せたという訳です。
しかし、実はこのレポートが大きく掲げられた背景には、それまで<政財界&労使の癒着構造>に只管頼ってきたことが、結果的に酷い不景気を招くに至ったという国民サイドから財界への厳しい批判の芽が伸びる前に摘み取るための財界側の深謀遠慮が存在したと思われるのです。
そして、この頃から、日本の既得権益(実効権力)の主犯格たる族議員・官僚・談合汚職等に連なる腹黒い黒幕が「小沢に違いないという共通観念」が半ば捏造的に創られ、それが主要記者クラブメディアによって、多くの国民層へ、コトあるごとに、その当時から既に巧みに刷り込まれ続けてきたという訳です。
そして、この「平岩レポートに始まる対立図式」のモデルを狡猾に、かつ悪辣に再び援用したのが「小泉劇場」の「聖域なき構造改革vs抵抗勢力(既得権益守旧派=敵)」という、一般国民層にとっては真に分り易い明瞭な対立の構図でした。
片や、真の実効権力と交尾(つる)んでいた朝日新聞ら主要記者クラブメディアは、率先して小泉・竹中がB層ターゲットへ吹きまくった「このアンチョコないかにも絵になる対立構図」を持て囃し、首尾一貫してそれを必要以上に激しく煽りたて<主要記者クラブメディア自身を含む真の実効・既得権益層の実像>がバレぬように巧妙に立ち回ってきたという訳です。
ともかくも、「小沢の政治とカネ」に繋がる伏線のプロパガンダは、このような流れの中で、既に、遅くとも1993年の小沢の自民党離党頃から、かなりのロングスパンで仕込まれてきた節があるのです。
もう一つ付け加えれば、もともと菅・千石ら現内閣中枢を占める市民運動or左派系労組人脈の「資本主義についての理解」がハイエクを曲解した設計主義だということがあります。それに彼らの政治基盤が労使癒着であったということもあります。これらの意味で「菅カラ内閣≒小泉劇場」であり、両者の観念の深層はティーパーティーのリバタリアンと通底しており、その本質は“たかり経済学”ということです。
いささか品の悪いコトバである“たかり経済学”はtoxandoriaの造語ですが、例えば労組と経営側が癒着しつつ働きバチ化した善良なその他の社員層(つまり、国民一般に繋がる人々)を誑かしてきた<日本型経営の醜悪さ>の類のことを意味します(ただ、toxandoriaは日本型経営の全てが悪とは思っておりません)。
この“たかり経済学”が意味するのは、「小泉劇場」と「菅カラ内閣」の両権力が、共に<未完の過程に過ぎない現状の資本主義>を自らの責任において少しでも進化させ、かつ改良しようとせず、ひたすら、その甘い果実の巧妙な山分けだけに関心が向いてるということです。また、それは、彼らが地域社会の存在意義、農林業の自然・文化的価値、プレカリアート、専業主婦等の家庭内労働価値など、いわゆる広義の外部経済の問題に無関心であることも意味します。
なお、ポーランド・シュラフタ民主主義と北欧型福祉経済は根本的に異質で、後者はむしろ米国型自由原理(リバタリアニズム)と共通の基盤から生えた異形の果実と見なすことが可能です(この論の詳細はhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20091219を参照乞う)。
そして、これは“ぴっちゃん”さまのご指摘のとおりですが、その観点からすれば、「小泉=労使癒着経営の使用者側」、「菅=同癒着経営の労組側」になります。そして、彼らが共有する信仰は他でもない米国型自由原理(リバタリアニズム)なので、彼らがポーランド・シュラフタ民主主義(ポーランド型自由原理)を理解できないのは当然だと思われます。
【エピローグ動画】Celine Dion - Just Walk Away
[http://www.youtube.com/watch?v=QB-kr0EbQew
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