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れんだいこのカンテラ時評848 れんだいこ 2010/11/05 21:19
【ウェブテレビ歓迎考】
2010.11.3日、民主党の小沢一郎元代表が、ニコニコ生放送の特別番組「小沢一郎ネット会見〜みなさんの質問にすべて答えます!」に出演した。これは、政治家が既成メディアに代わる新媒体を利用したと云うことに於いてとても重要な史実になると思う。後世、さすが小沢どんと評されることになろう。
れんだいこは遅まきながらニコニコ動画なるウェブテレビの存在を知った。その気になって検索してみると、ニコニコ動画のみならず政治ポータルサイト「リアル・ポリティクス・ジャパン」、「デジタル化でもうすぐ可能に!ひとりでも開設できるジャーナリスト放送局」等の動きが始まっていることが分かった。ユーチューブに続く新しい波のこの動きを歓迎したい。遂に待ちに待った既成マスコミメディアの解体、革命的再生の具体的対抗手段が現れたとみなす。この動きは止まらないのではなかろうか。もし止める者が有るとするならまさしく反動派のそれであり、それも空しい企てに終わるだろう。
ニコニコ動画は、2006.10月、戀塚昭彦氏が基本システムを開発し、同年12.12日、サービスを開始して以来、今日までバージョンアップし続けている。2008.5月、ロンドン大学の Goldsmiths Media Research Programme の研究グループが、ニコニコ動画を「情報社会における新しいメタデータのあり方」として研究する為に来日し、長期の調査を行ったとのことである。と云うことは、ニコニコ動画は世界のネットに先駆けて日本でウェブテレビ化に成功しつつあると云うことであろうか。すばらしいことではなかろうか。
阿修羅情報によると、「デジタル化でもうすぐ可能に!ひとりでも開設できるジャーナリスト放送局」の動きが伝えられている。これができれば、これまたすばらしい。れんだいこも「れんだいこ放送局」を持ちたい。朝夕深夜のニュース番組の時間帯に合わせて「れんだいこニュース」を届けて、多くの視聴者を引き寄せたいと思う。なぜか。それは、現下のようなネオシオニズム被れの御用聞きコメントばかりが一斉に流されている現実が耐えられないからである。それが証拠に、「検察による検察の為の検察逮捕」と云う前代未聞の珍事が起きているのにパタッと鳴りを潜め伝わらないではないか。所詮どうでも良いことをあの手この手で大袈裟に論ってばかりしているではないか。
これ以上、既成メディアの電波ジャックが続いたら、オヤジが現実の世間で格闘して生身の知恵を獲得しつつあると云うのに、妻子がテレビで捕りモノばかり見せられて、家庭内でますます話が合わなくなろう。喫茶店や居酒屋で、たまに政治論議に及んでもマスコミメディアの請け売りしかしない連中ばかりとなろう。「脳内を我々の陣営に獲得せよ!」。これはとても大事なことではなかろうか。長らく憂い煩ってきたが、今漸く新メディアが生まれつつあることを歓迎したい。
小沢どんが、なぜニコニコ動画を選んだのか? 次のように述べている。「ニコニコ動画は非常に多くの人にオープンで、(多くの人が)意見を言えるし、それに対して僕も反論できる。その意味では、多くの方に分かってもらえるからいいのではないかと思って、今回も出演の要請を快く受けた」。つまり、ニコニコ動画には生放送の直接性」と、直ちに視聴者のメールやコメントを受けてのやり取りができる双方向性に於いて画期性があり、小沢どんが逸早く政治的嗅覚で活用したと云うことになる。番組は休憩を挟まず1時間半にも及んだ。番組終了後、小沢どんは、ニコニコニュース編集部の再出演打診に対して、「(ニコニコ生放送は)自由に自分の意見を言えるし、見ている人、聞いている人の反応もすぐあるので、とてもやりやすい。またお招きいただければ行きたい」と意欲をみせた。
すばらしい。この動きが加速すれば、朝夕深夜のろくでもないコメンテーターによるニュース番組を見なくて済む。こういうことが本当に可能な時代に突入しつつある。れんだいこにはエンジニア的能力がないので、関係者諸君の奮闘を祈る。チョサクチョサクと煩い田吾作野郎によって既にイジメられているようであるが負けてはいけない。西欧では既にチョサク退治が始まっている。それを知ってか知らずでか日本では猛威を振るいつつある。せっかくの革命的進歩が日本で抑えられ、海外に「お株」を奪われるようなことがあっては絶対にイケナイ。過去何度かあったことであるが、それを危ぶむ。
2010.11.5日 れんだいこ拝
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れんだいこのカンテラ時評849 れんだいこ 2010/11/06 22:11
【マルティン・ニーメラーの警句考】
ここで、フリードリヒ・グスタフ・エミール・マルティン・ニーメラー (Friedrich Gustav Emil Martin Niemöller)(1892年1月14日 - 1984年3月6日)の警句を採り上げる。少々気になることがあるので、お知恵を貰いたい。
マルティン・ニーメラーの概要履歴は次の通りである。「ウィキペディアのマルティン・ニーメラー」を転載する。
ドイツの神学者、ルター派牧師。ナチスに反対し読み上げた詩「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき (First they came for the Communists)」で知られる。最初は保守派として知られ、アドルフ・ヒトラーの支持者だったが、告白教会の創立者の一人となりドイツプロテスタント教会のナチ化に強く反対するようになる。ナチの教会に対する国家管理への反対行動によって、1937年から1945年までの間ザクセンハウゼン強制収容所とダッハウ強制収容所に収容される。命からがらホロコーストをまぬがれ収容所から生還する。1950年代から平和主義者、反戦運動家として声をあげるようになる。ベトナム戦争中もホー・チ・ミンと面談し、反核運動でも活動。彼の言論には反ユダヤ的側面があったとする学者もいる。
「マルティン・ニーメラーの警句」は一般に次のように流布されている。
「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、私は共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、私は社会民主主義者ではなかったから。彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、私は労働組合員ではなかったから。彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、私はユダヤ人などではなかったから。そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」。
この警句について、れんだいこは次のように考えている。この文句を疑うことなく、「市民一人一人が今立ち上がる時とする呼びかけ」として聞ける者はシアワセである。この文章は1ケ所臭いところがある。共産主義者、社会民主主義者、労働組合員の次にユダヤ人とある下りである。果たして、ここにユダヤ人が登場する必然性があるだろうか。他のフレーズ例えば法律違反者だとか街頭デモ者とか「何らかの結社員」だとかとあれば問題ない。と云うか話の流れが合う。なぜ、ここに突如「ユダヤ人」が登場するのだろうか。マルティン・ニーメラーには、それが自然であったのかも知れない。しかし、れんだいこは不自然さを感じる。
同時に次のことを教える。「マルティン・ニーメラー的自然さ」の方が自然であったのかも知れない。なぜなら、歴史的に見て、それほどユダヤ人と共産主義者、社会民主主義者、労働組合員達の運動が近いところにあったと云う史実があるからである。では、ユダヤ人はなぜ親しかったのだろうか。この解はここでは省く。問題は、ユダヤ人だけが共産主義者、社会民主主義者、労働組合員達の運動の良き理解者だったのだろうかと云うことにある。ここに不自然にユダヤ人だけを持ち出すことにより、ユダヤ人に天賦の好意を寄せるよう細工されているのではなかろうかと云う疑念が湧く。ネオシオニズムを研究すれば、こういう細工が多いので注意しておくに越したことはなかろうと思っている。
もとへ。マルティン・ニーメラーの警句は様々に訳されている。こうなると、原文に当たらざるを得ない。ところが、ネット検索で原文が出てこない。ウィキペディアでは1976年バージョンとして独語、英語が紹介されているが、原文は1976年ではなかろう。「ニーメラーの警句の原文について」なるサイトがあるが、紹介されているのは和訳文のみである。当然の如く「正しい原文」開示が催促されている。なも拘わらず原文開示がない。
わざわざ「ニーメラーの警句の原文について」とする以上は原文開示、次に英訳、次に和訳の労を取るべきではなかろうか。しかしながら、サイト管理人の答えがない裏には原文に行きあたらないと云う事情があるのではなかろうかと思われる。とてもオカシナことである。どなたかが、恐らく原文はドイツ語であろう、それを教えて下されば助かる。れんだいこは多少のドイツ語ならできる。原文に当たらないと気持ち悪い。
それはともかく、和訳文を確認しておく。
1例。はじめにやつらは共産主義者に襲いかかったが、私は共産主義者ではなかったから声をあげなかった。つぎにやつらは社会主義者と労働組合員に襲いかかったが、私はそのどちらでもなかったから声をあげなかった。つぎにやつらはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげなかった。そして、やつらが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった。
2例。ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。
3例。ナチが共産主義者を襲ったとき 自分はやや不安になった けれども結局自分は共産主義者ではなかったので 何もしなかった それからナチは社会主義者を攻撃した 自分の不安はやや増大した けれども依然として自分は社会主義者ではなかった そこでやはり何もしなかった それから学校が,新聞が,ユダヤ教徒が というふうにつぎつぎと攻撃の手が加わり そのたびに自分の不安は増したが なおも何事も行わなかった さてそれからナチは教会を攻撃した 私は教会の人間であった そこで自分は何事かをした しかし、そのときにはすでに手遅れであった
4例。ナチスがコミュニスト(共産主義者)を弾圧した時,私は不安に駆られたが,自分はコミュニストではなかったので,何の行動も起こさなかった。その次,ナチスはソーシャリスト(社会主義者,労働組合員)を弾圧した。私はさらに不安を感じたが,自分はソーシャリストではないので,何の抗議もしなかった。それからナチスは学生,新聞人,ユダヤ人と,順次弾圧の輪を広げていき,そのたびに私の不安は増大したが,それでも私は行動に出なかった。ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして私は牧師だった。だから行動に立ち上がったが,その時は,すべてがあまりに遅過ぎた。
5例。ナチが共産主義者を襲ったとき,自分はやや不安になった.けれども結局自分は共産主義者ではなかったので何もしなかった.それからナチは社会主義者を攻撃した.自分の不安はやや増大した.けれども依然として自分は社会主義者ではなかった.そこでやはり何もしなかった.それから学校が,新聞が,ユダヤ教徒が,というふうにつぎつぎと攻撃の手が加わり,そのたびに自分の不安は増したが,なおも何事も行わなかった.さてそれからナチは教会を攻撃した.私は教会の人間であった.そこで自分は何事かをした.しかし,そのときにはすでに手遅れであった.
6例。彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった)。私は共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、私は社会民主主義ではなかったから。彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、私は労働組合員ではなかったから。彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、私はユダヤ人などではなかったから。そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。
ドイツ語文(1976年)は次の通りである。
Als die Nazis die Kommunisten holten,habe ich geschwiegen; ich war ja kein Kommunist.
Als sie die Sozialdemokraten einsperrten,habe ich geschwiegen; ich war ja kein Sozialdemokrat.
Als sie die Gewerkschafter holten,habe ich nicht protestiert; ich war ja kein Gewerkschafter.
Als sie die Juden holten,habe ich geschwiegen; ich war ja kein Jude.
Als sie mich holten,gab es keinen mehr, der protestieren konnte.
英語訳文(1976年)は次の通りである。
First they came for the communists, and I did not speak out,(When the Nazis came for the communists, and I did not speak out,)
because I was not a communist;
Then they locked up the social democrats, and I did not speak out,because I was not a social democrat;
Then they came for the trade unionists, and I did not speak out,because I was not a trade unionist;
Then they came for the Jews, and I did not speak out,because I was not a Jew;
When they came for me,and there was no one left to speak out for me.
1976年版の独語、英語に従うと、れんだいこ訳は次のようになる。
最初に、彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった(ナチスが共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった)。なぜなら、私は共産主義者ではなかったから。次に、彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。なぜなら、私は社会民主主義ではなかったから。次に、彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は抗議しなかった。なぜなら、私は労働組合員ではなかったから。次に、彼らがユダヤ人たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。なぜなら、私はユダヤ人ではなかったから。彼らが、私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。
しかしながら、原文開示のなきままの1976年版訳をしても何になるだろうか。とにかく不自然である。簡略文が流布されるにしても、まず原文が開示され、それからのことであろうに。著作権に煩い割には、こういうところが杜撰であるのは解せない。どなたか応援を頼む。
補足しておけば、マルティン・ニーメラーの履歴に「1937年から1945年までの間ザクセンハウゼン強制収容所とダッハウ強制収容所に収容される。命からがらホロコーストをまぬがれ収容所から生還する」とある。これは、マルティン・ニーメラーはユダヤ人と云う意味だろうか。ユダヤ人でなかったがザクセンハウゼン強制収容所とダッハウ強制収容所に収容されたのだろうか。どうも解せない。ユダヤ人であったとしたら、警句にわざわざユダヤ人を挟んだ下りが素直に読めないことになる。
結論として、「マルティン・ニーメラーの警句」には自然な名文と云うより加工されたプロパガンダ性名文の臭いがつきまとう。こう感じるれんだいこの方がオカシイのだろうか。この辺りもご批判頼みたい。
2010.11.6日 れんだいこ
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