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「我がこと」としての<小沢一郎抹殺キャンペーン劇>世川行介放浪日記
2010年11月02日 12時12分50秒
この1年半、
小沢一郎の抹殺を企図する勢力による<小沢抹殺キャンペーン劇>を見つめ、
小沢一郎擁護の立場の人たちの、
擁護のポイントを掴(つか)みきれていない自分自身への、
<もどかしさ>や<無念>、
といったものが、よく理解でき、
彼や彼女たちの小沢一郎擁護の一助になれば、
と、一冊のつたない書を著した。
が、
本の売れ行きから判断すると、
それほどの役には立たなかったみたいだ。
そうした立場の僕の眼に、
小沢擁護の人たちの擁護運動は、
彼や彼女たちの理不尽に対する憤慨の強度とは裏腹に、
平成大衆からの理解を得られないままでいる、
ように見え、
それはどうしてなんだろうか?
と、考え続けた。
結局、僕がたどり着いたのは、以下のようなことだった。
小沢一郎攻撃陣営は、
検察、
官僚機構、
政治家、
新聞、
テレビ、
雑誌、
と、
それぞれのセクションで、その道のプロを結集して、策を練り、
「これなら、平成大衆は、自分たちの言を信用して、
小沢一郎攻撃に向かうだろう」
という、セクションごとの攻撃を加え、それに成功しているのに対して、
言ってみれば、
小沢擁護陣営は、多勢に無勢の超少数派だから、
ネット世界での小沢一郎擁護文章を覗く限りでは、
「小沢支持者は、一枚岩になって頑張ろう!」
みたいな、「大同団結」に向かい始めた。
小沢一郎擁護派が大同団結に向かうとすると、
その時、団結の主軸に置かれるスローガンが、
「検察を弾劾せよ」
という軸になるのは、
必然の成り行きだった。
が、
その軸は、
事の核心の一つを突いた軸ではあるものの、
論理や説得性や戦術が不十分であり、
大勢の大衆は、「自己正当化」の匂いを感じ、
少し、眉をひそめた。
そして、それは、いまだ改修されておらず、
つまり、
この擁護手法では、大勢の大衆の賛同を得ることは困難になりつつある。
追い詰められる側の焦りから、
小沢一郎擁護者たちは、
「大同団結」に向かっているが、
人は、一つの立場だけでこの社会に生存しているわけではない。
会社員である人間もいれば、
公務員である人間もいて、
また、
自営業、
肉体労働者、
飲食店従業員、
そして、
僕のような、社会の最下層に位置する放浪者もいる。
このように様々な職種の人間を糾合しようと考える人間が、
「小沢一郎擁護」を主張し、
その軸として、「検察糾弾」を叫んだ時、
彼や彼女にとって、
今回の<小沢一郎抹殺劇>は、
「小沢一郎のために闘う」
「社会正義のために闘う」
といった、
「他人事としての闘い」、になっている。
だが、
その事実に、提唱者たちは、誰も気づいていない。
人は、
他人のために「闘い続ける」ことは出来ない存在だ。
この国の歴史上、いかなる長い闘いも、
すべて、「自らのための闘い」ばかりだったはずだ。
僕たちは、
今回の<小沢一郎抹殺キャンペーン劇>を、
「我がこと」として捉え直す視線を持たねばならないのではないか。
と、
僕は思ってきた。
つまり、
「<小沢一郎>とは、もう一人の自分である。
<小沢一郎抹殺劇>とは、自分自身にかかわる重大事件である」
という認識を持たねば、
闘いは持続出来ないのではないのか、
そのままでは、いずれ息切れして、負け戦さに 終わるのではないのか、
という風に思ってきた。
たとえば、
小沢派と呼ばれる政治家たちは、
その理念を共有する小沢一郎が斃(たお)れることは、
自分自身が斃れることと同義だ。
だから、彼らは、「我がこと」として、<小沢事件>に向かい合う。
たとえば、
中小企業経営者たちは、
長引く不況の中で、自らの生存が危ぶまれるから、
実力派政治家小沢一郎に、政策の大胆な改革を求め、
「我がこと」として、<小沢事件>に向かい合っている。
また、
最下層に放浪者として生きている僕はと言えば、
僕の生存条件である<自由>が、次第に圧迫され、
このまま官僚社会主義が推し進められたなら、
自分の生活圏から<自由>が奪われる、と、
「我がこと」として、<小沢事件>に向き合ってきた。
つまり、
本来は、
様々な角度から、
「我がこと」としてとらまえねばならないはずの<小沢一郎抹殺キャンペーン劇>を、
社会正義のような貌をした「検察糾弾!」の「建前」で一括りにしようとするから、
運動にほころびが出るのだ、
と、僕には思える。
小沢一郎擁護には、いろいろな角度があっていい。
それを、強引に、一点に集中させる必要なんか、どこにもない。
「大同団結」などという手法は、
僕の大嫌いな、
そして、
小沢一郎本人が一番大嫌いな、
<群れの論理>にすぎない。
「大政翼賛会」の平成的変形にすぎない。
<無言の知>の人々は、
安易に、そんな<群れの論理>に乗っかかってはいけない。
というよりも、
そんな安易な論理に乗っかかるはずがない。
と、僕は思っている。
それぞれの「我がこととしての小沢一郎」の角度を持った人たちが、
別の擁護者たちの角度を十分に認め、
或る時は共闘し、
或る時は個別で闘う、
といった「自立した闘い」の姿勢を持たなければ、
せっかくの小沢一郎擁護運動もまた、
泡(あぶく)のように消滅してしまうだろう。
くだらない「社会正義」を振り回すのは、
菅なにがしとかいう自称「市民派政治家」だけでウンザリだ。
僕は、僕のそんな主張に賛同してくれた人たちと、
この数週間、
それぞれの<角度>を尊重した上での小さな運動を始め、
週末には、この日記に公表する予定だが、
<小沢一郎事件>を、
それぞれが、それぞれに、「我がこと」として受け止め、
実名を名乗り、
住所、
電話番号、
年齢
まで提出してくれ、公表も拒まない、
と言ってくれる「自己責任を背負った人たち」が、
たった1週間ほどで、全国から200人以上も集まった事実を、
とても貴重に思っている。
僕たちの現在の団体名は、
「日本ラブラブ教」という、とっても素敵な名称で、
僕は、
68歳の小沢一郎とは、ラブラブなんぞ、死んでもしたくないが、
<自由>とだけは、いついつまでもラブラブし続けていきたい、
と思っていて、
そのためなら、少し闘ってみたい、と思っている。
人間、
一生に一回くらいは、
本気で闘ったって、いいのだ。
http://blog.goo.ne.jp/segawakousuke/d/20101102
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