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2010年11月02日
まずは、筆者が文句タラタラの 朝日新聞様の社説 を読んでいただく。
≪ 検察不祥事―裁判所と弁護士にも責任
大阪地検特捜部の証拠改ざん事件で検察への信頼は地に落ちた。
影響はひとり検察にとどまらない。国民の不信や疑念がこの先、司法の領域全般に広がっていく恐れがある。この仕事に携わる人々は、危機感を共有し、足元を固め直す必要がある。
何より考えるべきは裁判所だ。
今回のような暴走を許したのは、検察の捜査と公判活動をチェックすべき裁判所が、その機能を発揮せずにきたことにも原因があるのではないか。そんな指摘が方々から出ている。
法廷で被告や証人の言うことが、捜査段階で検察官が作った調書と食い違う。そんな場合、調書の内容に軍配をあげる。特捜事件に限らず、よく見聞きする話だ。裁判官は他の証拠も検討して判断した結果だと言うだろうし、実際、法廷での供述がうそという例も多いと思われる。
だが一方で、裁判所の中からも「検察官の主張に沿う方向できれいに整えられた調書と、それに寄りかかった詳細な事実認定には違和感をもつ」という疑問や批判が聞こえてくる。
同じ公務員である検察官への過度な信頼。証拠隠滅の疑いを理由に認められる長期の身柄拘束……。検察側の事情をくんだ運用が続いてきたのは否定できないのではないか。
折しも裁判員制度が始まり、調書ではなく、法廷で直接見聞きした証拠に基づいて判断しようという機運が強まっている。裁判の原則への回帰といえるだろう。最高検による事件の検証も踏まえ、裁判所は従来の仕事のあり方や発想を見直す好機とするべきだ。
弁護士はどうだろう。 優れた弁護士、頭の下がる取り組みをしている弁護士は多い。しかし、全体を見渡したとき、本来求められる水準の弁護活動を実践してきたかとなると少なからぬ疑問がある。
十分準備をしないまま公判に臨む。おざなりの反証にとどまり、見かねた検察官や裁判官の助けを借りて、ようやく格好を整える。そんな「甘え」が検察優位の構造を生み、刑事司法をゆがめた面はなかったか。
将来に目を転じれば、弁護士の数が増えて競争が激しくなるなか、今回問われた法律家の倫理をどう保つかという課題も横たわる。
司法が信頼を失い基盤が損なわれると、真に困るのは法律家ではなく、司法に救済や解決を求める国民である。民事事件も刑事事件も同じだ。
少数者の人権を擁護し、社会的公正を実現する。多数決や経済合理性だけではこぼれ落ちてしまう大切な価値を守るのが、民主主義社会の司法の使命であり誇りであるはずだ。
この問題意識を胸に、司法の担い手はそれぞれの立場で目の前の難局に向き合ってもらいたい。 ≫(朝日新聞:11月1日社説)
こういう社説を、汚らしい口を拭いながら平気で書けるのが、我が国の「言論の自由」「報道の自由」と云うものなのだろう。このような好き勝手というか、犯罪教唆犯 自ら、国民にあらためて教唆誘導世論を形成し、己を「絶対的善」に置き換え、アリバイ社説をモノに出来るのであれば、政治権力の言論統制と変わらない、否、それ以下なのではないだろうか。
「魔女疑惑」で「魔女裁判」を 「魔女的報道」で、幻の審査員に影響を1年半にわたり与え続け、強制起訴議決に導いたのは、検察でも裁判所でも弁護士でもない。朝日を核としたマスメディアじゃないか! 盗人に説教されるとは、不快なり。
政治権力には、国民が選挙で選択する道が未だ残っている。言論統制政権であれば、選挙がある以上、国民に選択権がある。しかし、「絶対的善」で国民を教唆し、世論誘導を行いうる日本の大手メディアを退場させる道は、選挙のような明確な方法は存在しない。
「政権交代」を通し、我々が眼にしている民主党政権の体たらくは、鳩山・小沢ライン、菅・仙谷ラインと形こそ異なるが、日本と云う国体の病巣を如実につまびらかにしている。筆者は、これだけでも「政権交代」の意味は充分にあったと評価している。我が国のすべての権力構造に、如何にも間接的に関与しながら、実は統合的に観察すると、何故か彼等マスメディアの意図した通りに世の中が動いてしまう。
そんな報道に乗せられる国民が大多数だから、マスメディアが図に乗り、内政も外交も、彼等の独善性を助長するのだと云う言い方も出来る。つまり、メディアの論調を鵜呑みにする、おバカな国民が悪いわけで、報道が悪いわけではない。それも、真実の一部ではあるが、すべてではない。
多くの国民は、公器である報道機関の、情報の正確さを信じるものであり、それを愚かだから自己責任じゃないか、と言うのは暴論だろう。
「公正公平な報道」が前提で「言論の自由」「報道の自由」が保証されるわけで、「公正公平」を抜きにして、その権利を錦の御旗にして公道を歩くことは許されない。
今回の朝日新聞の社説に書かれていることは事実だ。しかし、日本の司法全体を俯瞰していない。日本司法の隠れた実力者であるマスメディアの力は、ネットメディアがどれ程善戦しても、勝つには遠く及ばない。
日本の司法と言われる組織は、警察・検察・検察審査会・法務省・裁判所・弁護士で一見構成されているが、実は「司法記者クラブ」延いてはマスメディアが明らかに加担して、日本の司法システムを構築している。
警察を除く組織には「司法試験」「司法研修」と云う共通の経歴を有する人間達の共通のエリート意識が存在する。「判検交流」などさっさと止めるべきだ。だからと云う訳ではないだろうが、司法試験組は警察組織を自分達の下部に位置する存在と常識的に思っている。
マスメディアと云う存在は、扱い方一つで、味方にも敵にもなる存在な訳で、極力味方として動くよう日常的圧力を「記者クラブ」を通じて行っている。 しかし、このマスメディアを司法関係者は必ずしも支配組織とはみていない。敵に回すと、法律の条文以上に厄介な存在であることを知っている。つまり、単純に飼いならしておける存在でもないのだ。
時には、捜査以前に報道が先行することもある。報道に煽られ、「メディア世論」が強く捜査機関を揺さぶる事もあるわけだ。また、時には途中から法的捜査の範疇を越えた報道がなされる事で、否応なく「世論に迎合する立件」に動く場合もある。ここまで行きつくと「メディア司法」と云う臭いさえしてくる。 これが実態だ。
田中角栄、江副浩正、鈴木宗男、小沢一郎などの報道例は、その典型的パターンであり、我が国の欠陥だらけの司法制度を、更に歪める触媒 時には補助エンジン的効果を持つのが、日本のマスメディアだ。
その中で、最も検察や裁判所に強いのが「朝日新聞」だ。その謂わば日本の司法機構の欠陥を補うどころか、助長しつづける朝日新聞に「検察不祥事―裁判所と弁護士にも責任」なる社説を書かれたのでは、司法関係者も「鳩に豆鉄砲」な気分であろう。(笑)
警察、検察、裁判所の動きに常に連動し、持ちつ持たれつの癒着をしているのが朝日新聞だ。自分一人を蚊帳の外に置いて、司法を批判する権利は、少なくとも朝日新聞にはない!
考えるべきは、日本のメディア、朝日新聞自身である。このような社説の事をアリバイ社説と云う。朝日はよく使う手だが、柳の下にいつまでもドジョウは居ない。朝日の今までの態度は「似非」で充満している。似非リベラル、似非人権、似非民意、似非市民目線……。その似非欺瞞を一定の文章力と美辞麗句で巧妙に国民を誘導操作、時に煽りと興奮の坩堝に引きこみ、戦前戦中戦後とず〜っと国民を騙し続けているのだ。
検察や司法を糺す早道は、マスメディア、否、朝日新聞を徹底的に糾弾することが早道かもしれない。日本のマスメディアの頂点に位置すると、自他共に認める存在の正体を暴き、糾弾し、真の公正公平な報道機関に導く事が、我々国民の権利であり、義務ではないのか。
11月5日の提灯デモに参加しよう!18時30分、明治公園だ!
「マスコミの偏向報道を許さないデモ」(主催者のHPだが、整理整頓はされていない。読み手が忖度しながら理解しよう) http://kennryoku-teikou-kok.cocolog-nifty.com/blog/
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