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http://diamond.jp/articles/-/9797
10月18日の毎日新聞の『風知草』。山田孝男氏の筆が冴えている。
http://mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/news/20101018ddm002070109000c.html
「菅と高杉の違いを探り抜いてこそ、混迷する政局の本質が見えてくるのではないか」にはびっくりした。菅直人首相が、かねてから高杉晋作の大ファンであることは知られていた。内閣発足直後にも自ら“奇兵隊内閣”を名乗った。自分を“高杉晋作”と位置づけたのである。しかし、山田氏は、菅首相と高杉晋作には大きな違いあると思っているようだ。そのため、私の発言や著書(『梅の花咲く―決断の人・高杉晋作』)から多くを引用してくれている。
菅直人首相は「憧れの高杉晋作」ではなく、その対極にある「赤根武人」に似ている
私は、菅首相は、高杉晋作の対極にある人と思っている。要するに正反対の人間ということだ。だから高杉に大きな憧れがあるのだろうと思ってきた。菅首相はむしろ高杉と対決した赤根武人によく似ている。だから私は今も赤根武人にならないように願っているが、最近はますます赤根に近づいてきている。赤根は岩国の医者の子として生まれて赤根家の養子になった。高杉の英国公使館焼き討ちにも加わったし、奇兵隊の創設にも参加した。
しかし、土壇場になると巧妙に逃げるところを吉田松陰は見抜いていた。攘夷戦争のときも奇兵隊を逃げ出して故郷で情勢を観望していた。幕府寄りの俗論党長州藩政府を倒すために、高杉はたった1人で立ち上がったが、これに猛反対して立ちふさがったのが、当時奇兵隊総督をしていた赤根であった。
赤根は、藩政府を支配する俗論党と、それに対決する高杉ら正義党の中に入り、両派が和解する「正俗一和」を説き、奇兵隊総督であるにもかかわらず俗論党と通じたのである。結局高杉は、80人あまりの少数精鋭の“功山寺挙兵”で藩政府を倒し、明治維新への決定的な一歩を踏み出すのだが、挙兵前に赤根を一喝している。
「赤根、貴様は何をいっているか。敵(幕府)に向かう時に身内の議論が二分していれば敗けるに決まっている。異論を包み込めばそれだけ力が弱まるのだ」
山田氏は私の著書からこの部分を引用し、私が高杉に「言わせている」としているが、実は高杉関連文書(具体的な書名は覚えていない)にそう書かれていた。私が特に感動してきたのは、「異論を包み込めば弱くなる」という高杉の高度な政治感覚だ。民主党やその内閣と奇兵隊との決定的な違いはそこにある。民主党は異論を無制限に抱え込んで意思統一もできなかった。その弊害は、政権交代後の迷走につながっている。功山寺挙兵以来続いた、長州正俗両派の内戦で赤根はどうしたか。内戦当初は、決起隊を内部から切り崩して俗論党政府に恩を売ろうとしたが、結局、奇兵隊を捨てて逃亡し不幸な最期を迎えた。
総督の地位を狙った赤根と地位や名誉には目もくれなかった高杉
「私たちの内閣は、奇兵隊と同じように、一般庶民の代表から成っている」国会でのこの菅発言を山田氏は許さない。「民主主義的編成」そのものにはそれほどの意味はないと鋭く批判する。高杉と対決した俗論党政府の指導者も下級武士だったし、幕府の新撰組も一般庶民の代表のような構成だった。
菅首相は、定見も持たずに協議、協議と奔走した赤根とそっくりになってきた。赤根は何のために奇兵隊創設に加わったのか。彼は単に「改革派」を装うことによって総督になりたかっただけだ。もう1つ。高杉の比類のない人格的特徴は徹底した無欲さにあった。彼は歴史的な使命からは決して逃げなかったが、地位や名誉には目もくれなかった。菅首相のように参院選で不信任されても居座ることなど、高杉には決してあり得ない。首相は「高杉晋作の真髄」を全くわかっていない。
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