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小沢氏が提起した行政訴訟の妥当性は?〜行政法学者の見解を紹介
資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐる政治資金規正法事件において、東京第5検察審査会の起訴議決を受けた小沢一郎民主党元代表側は平成22年10月15日、「起訴議決は違法で無効」だとして国を相手取り、<1>強制起訴議決の取り消しを求める訴訟、これに基づく指定弁護士の指定の差し止め訴訟といった行政訴訟(抗告訴訟)を東京地裁に起こしました。強制起訴の手続きが始まるのを避けるため、<2>強制起訴議決の執行停止と指定弁護士指定の仮の差し止めも合わせて申し立てています。
1.まず、小沢氏弁護団公表の文書要旨と、解説記事を一つ。
(1) 共同通信(2010/10/15 13:16)
「小沢氏弁護団公表の文書要旨
民主党の小沢一郎元代表の弁護団が訴状に代わって公表した文書の要旨は次の通り。
強制起訴議決は検察審査会の権限を逸脱した違法なもので、全体が無効だ。議決の取り消しと、これに基づく指定弁護士の指定の差し止めを求める訴訟を提起するとともに、議決の執行停止と指定弁護士指定の仮差し止めを申し立てる。
今回の議決は(1)陸山会の土地購入をめぐる、いわゆる「期ずれ」についての虚偽記載の事実(2)陸山会が小沢氏から4億円を借り入れたことについての虚偽記載の事実とを犯罪事実としている。
しかし、4億円借り入れの事実は、小沢氏に対する告発、不起訴処分、検察審査会の1回目の審査とそれによる起訴相当議決、再度の不起訴処分のいずれでも容疑事実として取り上げられていない。強制起訴を行うには、検察官の2回の不起訴処分と検察審査会の2回の議決とを必要とした検察審査会法に正面から反する。
4億円借り入れの事実は、この事実を隠すために偽装工作として銀行借り入れまでなされ、収支報告書の虚偽記載の動機となったと認定されている。また、資金の出所自体に疑惑が潜んでいるかのように言及され、強制起訴議決の根拠とされている。土地購入をめぐる「期ずれ」の虚偽記載の事実のみが対象とされていれば、強制起訴するという結論自体が否定された可能性が極めて高い。
無効な強制起訴議決の効力を否定し、指定弁護士の指定や小沢氏に対する起訴がなされることを回避するためには、強制起訴議決の取り消し訴訟や指定弁護士の指定の差し止め訴訟といった行政訴訟(抗告訴訟)が可能だ。古くは検察審査会の議決の適否は行政訴訟の対象とならないとした判例もあるが、それは強制起訴制度が導入される前の判例で、今日では妥当ではない。
指定弁護士の指定は、裁判所がするものではあるが、公務員ではない弁護士に捜査や起訴といった公権力の行使を行う地位を与えるもので、行政訴訟の対象となる行為と考えられている。
万が一、強制起訴議決や指定弁護士の指定がそれ自体として行政訴訟の対象とならない場合には、小沢氏が自らを容疑者とする指定弁護士の指定をされない地位を有する確認を求める訴訟(当事者訴訟)が可能なはずである。
加えて、訴訟の結論が出るまでの間に小沢氏に生じる重大で取り返しのつかない損害を回避するために、強制起訴議決の執行停止と指定弁護士指定の仮の差し止めを求めることとした。
強制起訴議決以来、小沢氏には激烈な取材と報道が集中しており、精神的・肉体的負担は筆舌に尽くし難い。指定弁護士が指定され、指定弁護士による捜査が開始されれば、それに対する対応も必要であり、万が一の起訴にまで至れば、その応訴の負担は極めて大きなものとなる。現実化しつつある政治活動への制約が深刻なものであることは周知の通りで小沢氏本人のみならず、わが国の民主政治自体の損失でもある。
これらの損失は、いったん生じてしまえば取り返しのつかないもので、強制起訴議決の効力が訴訟によって最終的に否定されるまでの間、指定弁護士の指定をされないことはむしろ当然である。強制起訴議決が検察審査会の権限を逸脱してなされた違法なものであるにもかかわらず、それに基づいて指定された指定弁護士の捜査を甘んじて受け、自らに対する起訴を座して待たなければならないのであれば、そのこと自体が憲法違反と考えられるべきである。
以上のように、今回の強制起訴議決は、検察審査会の権限を逸脱してなされた違法なものであって、全体として違法であるから裁判所の判断を仰ぎ、その効力を否定することを求めるのは、小沢氏の当然の権利である。
2010/10/15 13:16 【共同通信】」
(2) 日経新聞平成22年10月15日付夕刊19面
「「訴訟対象外」の判例 「法改正で前提崩れる」指摘も
検察審の議決を不服とした提訴については「行政訴訟の対象外」とした1966年の最高裁判例がある。小沢氏側は「法改正で検察審の議決が拘束力を持つことになり前提が変わったので、判例は適用されない」と主張しているが、法曹関係者からは「不服ならば、刑事裁判の中で争うべきだ」との声も出ている。
66年の判例は、深夜まで騒がしいすし店を軽犯罪法違反に当たるとして告訴した男性が、検察審の不起訴相当議決の無効確認を求めた訴訟。一、二審は「議決は検察官を拘束せず、個人の法的関係に直接影響を与えない」と指摘して訴えを却下し、最高裁も支持した。
当時は検察審の議決には拘束力はなかったが、昨年の法改正で、2回目の起訴議決により強制起訴される規定が新設された。ある裁判官は「66年判例の前提は崩れた」と指摘するが、一方で「間接的に起訴の当否を判断することになり、行政訴訟の対象となる行政処分には当たらない」として、現在でも提訴は不適法との見方も有力だ。
刑事裁判では、検察官は一定の範囲で起訴内容を変更する「訴因変更手続き」ができる。今回、起訴議決で追加されたのは同一年の政治資金収支報告書の記載に関する内容なので、訴因変更が認められる余地もある。
このため提訴について、法曹関係者の間では「公判が始まった後に公訴棄却を求め、起訴の効力を争うのが筋だ」との声が根強い。「いずれにしても現行制度下で例がなく、明文規定も未整備」(裁判所関係者)で、事態の先行きは不透明だ。」
「検察審査会の議決「無効」として、小沢氏が国を提訴〜審査会と吉田繁実弁護士が杜撰だったことが最大の原因」(2010/10/15 08:09)において触れたように、この問題は、2つの問題を分けて考える必要があります。
「この事件についての問題点は、大きく2点あります。
(1) 1つ目は、東京第五審査会が、<1>「告発事実」が審査対象のはずなのに、それを超えた容疑まで「犯罪事実」に加えたこと、さらに、<2>「起訴相当」とした1度目の議決に含まれない「4億円」を2度目で加えています。このように議決に瑕疵があることで、その審議会の議決は違法となるのかどうか、という点です。
(2) 2つ目は、違法な審査会の議決に対して、行政訴訟を提起することができるかどうか、です。」
要するに、起訴議決が、検察審査会法に照らして違法なのではないか、という実体法上の問題と、違法な起訴議決に対して、どのような訴訟手続によって救済するべきかという救済手続の問題に分けて考えなければなりません。
2.では、この2点について検討してみます。
(1)検察審査会は、世にある全ての事件についてその当否を判断し、誰に対しても起訴議決ができると言う制度ではありません。
検察審査会法では、検察審査会は告発内容に沿って検察官の不起訴処分の当否を判断するのであって(検察審査会法法2条2項、30条)、独自に事実認定をすることを予定していないのです。そして、検察官の2度の不起訴処分に対し、強制起訴には2度の議決が必要となるという制約があるのです(同法41条の2、41条の6第1項)。
とすれば、<1>告発に内容に含まれていない事実について、<2>2回の審査を経ずに議決をしたことは、検察審査会法に照らせば、違法という判断(実体法上の問題)に至ることは明らかでしょう。
(2)ちなみに、検察審査会法上、違法だとしても、刑事裁判においてその瑕疵を治癒できるのではないか、という見方もあるようです。すなわち、起訴の段階では、告発内容にない事実や2度の審査を経ていない事実を起訴しないでおいて、「訴因変更手続」によって、そうした事実を「訴因の追加」として(刑訴法312条1項)請求すれば、裁判所がその請求を認めることで適法となる、というわけです。
「刑事裁判では、検察官は一定の範囲で起訴内容を変更する「訴因変更手続き」ができる。今回、起訴議決で追加されたのは同一年の政治資金収支報告書の記載に関する内容なので、訴因変更が認められる余地もある。」(日経新聞)
しかし、(1)先行する実体法上の違法を、後行の手続である訴訟手続によって治癒させる(=適法)ことが可能なのか、それ自体が疑問です。起訴によって違法がそのまま承継される以上、治癒される理由がないのですから。また、(2)もし起訴の段階では、告発内容にない事実や2度の審査を経ていない事実を起訴しない場合には、検察審査会の議決と異なるのですから、ズレのある起訴はまた、それ自体で違法の問題が生じます。
(3)思うのですが、本当に適法な「訴因の追加」が可能なのでしょうか?
検察審査会は告発内容に沿って検察官の不起訴処分の当否を判断するべきですから、それ以外の事実を加えて審理することは、結局は検察審査会法に違反した違法なものです。そうした違法な訴因を「追加」することは、違法な審理をもたらすのですから、違法な「訴因追加」手続であって、本来的に許されません。
さらにいえば、類似する手続に関する判例が参考になるように思います。つまり、職権濫用罪などに関して不起訴処分になった場合、告発によって裁判所が事件を審判に付する旨を決定する手続(付審判請求手続)があります(刑訴法262〜269条)。この付審判手続において、職権濫用罪で審判に付された場合、裁判所は暴行罪の事実を認定できるかが問題となったことがあります。
最高裁判例(最高裁昭和49年4月1日刑集28巻3号17頁)は、「審判に付された事件と公訴事実の同一性が認められるかぎり、この事実を認定し処断することが許されないわけではない」として、暴行と言う縮小認定できる事実の場合には、暴行罪の認定できるとしたのです(暴行の事実さえも認定できず公訴棄却すべきとする反対意見もある)。裁判所という専門家が起訴を決定し、しかも縮小認定できる事実でのみ認定することは許されるとしたのですから、検察審査会による強制起訴の場合は、公判において、有罪の見込みなくいい加減な起訴をした市民の決定であり、事実を追加するようなことは、許されないというべきです。
このように考えれば、適法に「訴因の追加」をすることは難しいように思えるのです。
3.違法な審査会の議決に対して、行政訴訟を提起することができるかどうか、という救済手続の問題は、刑事手続と行政法の所管配分の問題ですから、行政法の知識が必要となります。そこで、行政法学者はどのような判断を示しているでしょうか? 報道されているのは2人だけですが、その見解を紹介しておきます。
(1) MSN産経ニュース(2010.10.15 22:40)
「小沢氏の提訴、識者はどう見る
2010.10.15 22:40
阿部泰隆中央大教授(行政法)の話 「これまでの常識では、起訴は刑事手続きだから刑事裁判で争うべきで、行政訴訟で争うのは許されない。ただ、市民にとって刑事裁判で被告となるのは苦痛だ。今回は、検察審査会が2回目の議決で本来の審査対象を超えた部分を犯罪事実に含めたのは違法ではないかということが論点。通常の起訴の議論とは異なり、この点は行政訴訟で判断すべきではないか。起訴という国家権力を行使するという点で検察審査会も検察官と同じで、合理的証拠がなく起訴したとすれば、国家賠償責任が認められる可能性もある」
(2) 日刊ゲンダイ平成22年10月16日付(15日発行)3面
「検察審議決は憲法違反濃厚の重大事
「検察審議決に対する行政訴訟は可能です」――。こう言うのは学習院大法学部教授の桜井敬子氏(行政法)だ。
桜井氏によると、検察審の任務は検察官と同様、事件を裁判所に持ち込むという「行政作用」であり、行政作用による「処分」であれば取り消し(訴訟)が可能 ――という。今回の議決の場合、<1>起訴議決の取り消し訴訟と執行停止の申し立て<2>「検察官役」になる指定弁護士の指定処分の差し止め訴訟と仮差し止め――などの手段が考えられるといい、小沢弁護団も東京地裁が進めている指定弁護士の手続き中止を求める方針だ。
さらに桜井氏は、今回の議決は「憲法違反に当たるのではないか」とも言う。
「憲法31条は『刑事罰を科すには適正手続きによる』と規定し、検察官が起訴する場合もきちんとした理由を示している。ところが、検察審には判断基準がなく、多数決で起訴を決めるという『完全自由裁量』のようです。今回のような(犯罪事実が勝手に加わった)理由なき起訴が許されれば憲法違反と言わざるを得ません」」
イ:「検察審の任務は検察官と同様、事件を裁判所に持ち込むという『行政作用』であり、行政作用による『処分』であ」る点は、否定することは不可能です。また、検察官の起訴不起訴に関しては、付審判請求手続、検察審査会、公訴権濫用論というチェックがあるのですが、検察審査会の判断については、何らチェック機能がありません。そうである以上、濫用的な起訴を抑制するため、裁判所がチェック機能を行う必要があります。
とすれば、刑事裁判での裁判所が「チェック機能」をも併せ行うのではなく、検察官の起訴不起訴に関しては、付審判請求手続、検察審査会という別組織があるのと同様に、別の裁判所が行う(行政訴訟)によるのが妥当であるというべきです。
問題なのは、検察審査会の判断には適正手続(憲法31条)違反の面もある点です。これは、立法の不備というべき点です。
「「憲法31条は『刑事罰を科すには適正手続きによる』と規定し、検察官が起訴する場合もきちんとした理由を示している。ところが、検察審には判断基準がなく、多数決で起訴を決めるという『完全自由裁量』のようです。今回のような(犯罪事実が勝手に加わった)理由なき起訴が許されれば憲法違反と言わざるを得ません」」(「日刊ゲンダイ」における櫻井教授の見解)
ある特定の被告人に関する特定の犯罪事実の有無や有罪かどうかを判断するのが刑事裁判です。これに対して、検察審査会という行政機関の行った適正手続違反は、事件と関わりなく検察審査会自体が抱える、立法上の欠陥の問題なのですから、その問題のみを判断する方が、すなわち、行政訴訟で判断することが適切であるように思われます。
ロ:阿部泰隆・中大教授は、行政法の大家の一人であるだけでなく、現在、多数の行政関係事件に関与するなど、精力的に実務的な活動をしている学者の一人です(「阿部泰隆のホームページ」参照)。
また、櫻井敬子・学習院大法学部教授は、その著書が法学部・法科大学院の最も多くの学生に読まれていることから分かるように、分かり易く「行政法の真髄」を伝える方であり、行政法学者からも高く評価されている行政法学者の一人です。
一昔と異なり、司法制度改革の一環として「行政事件訴訟法の一部を改正する法律」(平成16年6月9日法律第84号)が制定され、行政訴訟による救済範囲が拡大されました(原告適格の拡大、義務付け訴訟・差止訴訟の法定化)。こうした経緯からすると、行政訴訟による救済を否定する考えは、国民一般の権利救済を拡大する行政事件訴訟法改正の趣旨に反するのです。
違法な行政活動に対して、国民一般の権利救済を拡大する方向の改正という、こうした行事件訴訟法の改正の経緯を背景にすれば、行政法学者として高く評価されている2人が、検察審査会法違反の事実は、行政訴訟の対象となるというのは、ごく自然な判断というべきです。これに対して、名前を出して公然と否定できるだけの説得的な論理を展開できる実務家はほとんどいないでしょう。
4.小沢氏側による行政訴訟に対して、読売新聞の解説(平成22年10月15日付夕刊)は否定的な見方を示しています。しかし、違法な行政活動に対して、国民一般の権利救済を拡大する方向の改正という、こうした行事件訴訟法の改正の経緯に反するような考えは、妥当なのでしょうか?
(1) 起訴されて被告人となることは、本人や家族にとって精神的・経済的に非常に大きな負担となります。例えば、家族も犯罪者の家族とみられて苦しみます。また、普通の会社員なら起訴されるとほとんどが解雇され、生活が行き詰ることになります。後に無罪判決が出たとしても、公務員なら復職できますが、普通の会社員なら復職も難しいのが現実です(朝日新聞平成22年10月9日付朝刊(佐藤喜博・弁護士の話))。
このような人権侵害を招く起訴であるのに、今回の検察審査会は、有罪の見込みがないのに「国民には裁判で白黒つける権利がある」などと実に無責任・身勝手な判断に基づいて、起訴議決を行ったのです。こうした無責任・身勝手な強制起訴は、有罪の見込みをまるで考えない以上、今後は誰であっても、しかも今よりも大勢の人たちが強制起訴の被害を受けるのです。
検察審査会による無責任・身勝手な強制起訴に対しては、阿部泰隆・中大教授も指摘するように、国家賠償を請求できるのです(「有罪の見込みがない起訴を認めてよいのか?〜検察審査会の強制起訴を巡って」(2010/09/07 [Tue] 20:43:09)も参照)。しかし、後で、国家賠償を請求できたとしても、多大な被害を生じた事実は消えないのです。
小沢一郎氏だからこうした「被害」を受けても耐えられるのかもしれませんが、他の政治家はもちろん、一般市民が同様の被害を受けたら、誰も耐えることができず、議員や職を辞する結果を招くは当然として、一家心中してしまう可能性さえもあるでしょう。
冤罪の危険が増大をまるで無視したかのような検察審査会の横暴に対して、小沢氏だけの問題として無関心でいることで本当によいのでしょうか? マスコミは、憲法31条で保障された無罪推定の原則をまるで無視したまま、延々と小沢バッシングを繰り広げていますが、こうした被害を他人事としていて、本当によいのでしょうか?
(2) ルドルフ・フォン・イェーリング(Rudolf von Jhering)は、『権利のための闘争』(1872年出版)において、次のような趣旨のことを述べています。
「いかなる権利も、それは個人の尊厳の一部である、したがってささいな権利の侵害であっても、それを自己の尊厳の否定ととらえて全面的に闘争すべきである。しかしその闘争は、実は「国家共同体」の法(権利の体系)を支えることでもある。なぜなら、法=権利の全体は、具体的な場面で個々の権利が保障されることによってのみ生命を与えられるのだから。自分にとって無関係であるからと、他者への権利侵害を見逃すものは、権利の体系全体の毀損に道を開くものであり、いずれは自らの権利を守ることもできなくなるだろう……。」(「こぼればなし」『図書』2010年9月・第739号)
他者の権利であろうと自分のそれであろうと、およそ権利が侵されたとき激しい痛みを感じ、回復の闘争に打って出る力を、イェーリングは「権利感覚」と呼んで、その涵養を「国家共同体」にとって最重要の要素と考えています。
小沢氏に生じた問題について、「自分にとって無関係であるからと、他者への権利侵害を見逃すものは、権利の体系全体の毀損に道を開くものであり、いずれは自らの権利を守ることもできなくなる」のです。そして、マスコミの誘導のまま小沢氏を非難し続け、小沢氏側による行政訴訟といった権利救済を行ったことに対して非難することは、「権利感覚」を無くしたものというしかありません。
マスコミ報道による、常軌を逸した「小沢バッシング」を無批判に受け入れ、行政訴訟といった権利救済手段を否定することは、検察審査会による被害による救済手段を自ら捨て去るという、国民が自らの首を絞めることであって、「いずれは自らの権利を守ることもできなくなる」ことになるのです。市民感情のままに、証拠に基づくことなく、気ままに起訴を決める「検察審査会という怪物」を止めるのは、我々市民の責務であるというべきです。
2.では、この2点について検討してみます。
(1)検察審査会は、世にある全ての事件についてその当否を判断し、誰に対しても起訴議決ができると言う制度ではありません。
検察審査会法では、検察審査会は告発内容に沿って検察官の不起訴処分の当否を判断するのであって(検察審査会法法2条2項、30条)、独自に事実認定をすることを予定していないのです。そして、検察官の2度の不起訴処分に対し、強制起訴には2度の議決が必要となるという制約があるのです(同法41条の2、41条の6第1項)。
とすれば、<1>告発に内容に含まれていない事実について、<2>2回の審査を経ずに議決をしたことは、検察審査会法に照らせば、違法という判断(実体法上の問題)に至ることは明らかでしょう。
(2)ちなみに、検察審査会法上、違法だとしても、刑事裁判においてその瑕疵を治癒できるのではないか、という見方もあるようです。すなわち、起訴の段階では、告発内容にない事実や2度の審査を経ていない事実を起訴しないでおいて、「訴因変更手続」によって、そうした事実を「訴因の追加」として(刑訴法312条1項)請求すれば、裁判所がその請求を認めることで適法となる、というわけです。
「刑事裁判では、検察官は一定の範囲で起訴内容を変更する「訴因変更手続き」ができる。今回、起訴議決で追加されたのは同一年の政治資金収支報告書の記載に関する内容なので、訴因変更が認められる余地もある。」(日経新聞)
しかし、(1)先行する実体法上の違法を、後行の手続である訴訟手続によって治癒させる(=適法)ことが可能なのか、それ自体が疑問です。起訴によって違法がそのまま承継される以上、治癒される理由がないのですから。また、(2)もし起訴の段階では、告発内容にない事実や2度の審査を経ていない事実を起訴しない場合には、検察審査会の議決と異なるのですから、ズレのある起訴はまた、それ自体で違法の問題が生じます。
(3)思うのですが、本当に適法な「訴因の追加」が可能なのでしょうか?
検察審査会は告発内容に沿って検察官の不起訴処分の当否を判断するべきですから、それ以外の事実を加えて審理することは、結局は検察審査会法に違反した違法なものです。そうした違法な訴因を「追加」することは、違法な審理をもたらすのですから、違法な「訴因追加」手続であって、本来的に許されません。
さらにいえば、類似する手続に関する判例が参考になるように思います。つまり、職権濫用罪などに関して不起訴処分になった場合、告発によって裁判所が事件を審判に付する旨を決定する手続(付審判請求手続)があります(刑訴法262〜269条)。この付審判手続において、職権濫用罪で審判に付された場合、裁判所は暴行罪の事実を認定できるかが問題となったことがあります。
最高裁判例(最高裁昭和49年4月1日刑集28巻3号17頁)は、「審判に付された事件と公訴事実の同一性が認められるかぎり、この事実を認定し処断することが許されないわけではない」として、暴行と言う縮小認定できる事実の場合には、暴行罪の認定できるとしたのです(暴行の事実さえも認定できず公訴棄却すべきとする反対意見もある)。裁判所という専門家が起訴を決定し、しかも縮小認定できる事実でのみ認定することは許されるとしたのですから、検察審査会による強制起訴の場合は、公判において、有罪の見込みなくいい加減な起訴をした市民の決定であり、事実を追加するようなことは、許されないというべきです。
このように考えれば、適法に「訴因の追加」をすることは難しいように思えるのです。
3.違法な審査会の議決に対して、行政訴訟を提起することができるかどうか、という救済手続の問題は、刑事手続と行政法の所管配分の問題ですから、行政法の知識が必要となります。そこで、行政法学者はどのような判断を示しているでしょうか? 報道されているのは2人だけですが、その見解を紹介しておきます。
(1) MSN産経ニュース(2010.10.15 22:40)
「小沢氏の提訴、識者はどう見る
2010.10.15 22:40
阿部泰隆中央大教授(行政法)の話 「これまでの常識では、起訴は刑事手続きだから刑事裁判で争うべきで、行政訴訟で争うのは許されない。ただ、市民にとって刑事裁判で被告となるのは苦痛だ。今回は、検察審査会が2回目の議決で本来の審査対象を超えた部分を犯罪事実に含めたのは違法ではないかということが論点。通常の起訴の議論とは異なり、この点は行政訴訟で判断すべきではないか。起訴という国家権力を行使するという点で検察審査会も検察官と同じで、合理的証拠がなく起訴したとすれば、国家賠償責任が認められる可能性もある」
(2) 日刊ゲンダイ平成22年10月16日付(15日発行)3面
「検察審議決は憲法違反濃厚の重大事
「検察審議決に対する行政訴訟は可能です」――。こう言うのは学習院大法学部教授の桜井敬子氏(行政法)だ。
桜井氏によると、検察審の任務は検察官と同様、事件を裁判所に持ち込むという「行政作用」であり、行政作用による「処分」であれば取り消し(訴訟)が可能 ――という。今回の議決の場合、<1>起訴議決の取り消し訴訟と執行停止の申し立て<2>「検察官役」になる指定弁護士の指定処分の差し止め訴訟と仮差し止め――などの手段が考えられるといい、小沢弁護団も東京地裁が進めている指定弁護士の手続き中止を求める方針だ。
さらに桜井氏は、今回の議決は「憲法違反に当たるのではないか」とも言う。
「憲法31条は『刑事罰を科すには適正手続きによる』と規定し、検察官が起訴する場合もきちんとした理由を示している。ところが、検察審には判断基準がなく、多数決で起訴を決めるという『完全自由裁量』のようです。今回のような(犯罪事実が勝手に加わった)理由なき起訴が許されれば憲法違反と言わざるを得ません」」
イ:「検察審の任務は検察官と同様、事件を裁判所に持ち込むという『行政作用』であり、行政作用による『処分』であ」る点は、否定することは不可能です。また、検察官の起訴不起訴に関しては、付審判請求手続、検察審査会、公訴権濫用論というチェックがあるのですが、検察審査会の判断については、何らチェック機能がありません。そうである以上、濫用的な起訴を抑制するため、裁判所がチェック機能を行う必要があります。
とすれば、刑事裁判での裁判所が「チェック機能」をも併せ行うのではなく、検察官の起訴不起訴に関しては、付審判請求手続、検察審査会という別組織があるのと同様に、別の裁判所が行う(行政訴訟)によるのが妥当であるというべきです。
問題なのは、検察審査会の判断には適正手続(憲法31条)違反の面もある点です。これは、立法の不備というべき点です。
「「憲法31条は『刑事罰を科すには適正手続きによる』と規定し、検察官が起訴する場合もきちんとした理由を示している。ところが、検察審には判断基準がなく、多数決で起訴を決めるという『完全自由裁量』のようです。今回のような(犯罪事実が勝手に加わった)理由なき起訴が許されれば憲法違反と言わざるを得ません」」(「日刊ゲンダイ」における櫻井教授の見解)
ある特定の被告人に関する特定の犯罪事実の有無や有罪かどうかを判断するのが刑事裁判です。これに対して、検察審査会という行政機関の行った適正手続違反は、事件と関わりなく検察審査会自体が抱える、立法上の欠陥の問題なのですから、その問題のみを判断する方が、すなわち、行政訴訟で判断することが適切であるように思われます。
ロ:阿部泰隆・中大教授は、行政法の大家の一人であるだけでなく、現在、多数の行政関係事件に関与するなど、精力的に実務的な活動をしている学者の一人です(「阿部泰隆のホームページ」参照)。
また、櫻井敬子・学習院大法学部教授は、その著書が法学部・法科大学院の最も多くの学生に読まれていることから分かるように、分かり易く「行政法の真髄」を伝える方であり、行政法学者からも高く評価されている行政法学者の一人です。
一昔と異なり、司法制度改革の一環として「行政事件訴訟法の一部を改正する法律」(平成16年6月9日法律第84号)が制定され、行政訴訟による救済範囲が拡大されました(原告適格の拡大、義務付け訴訟・差止訴訟の法定化)。こうした経緯からすると、行政訴訟による救済を否定する考えは、国民一般の権利救済を拡大する行政事件訴訟法改正の趣旨に反するのです。
違法な行政活動に対して、国民一般の権利救済を拡大する方向の改正という、こうした行事件訴訟法の改正の経緯を背景にすれば、行政法学者として高く評価されている2人が、検察審査会法違反の事実は、行政訴訟の対象となるというのは、ごく自然な判断というべきです。これに対して、名前を出して公然と否定できるだけの説得的な論理を展開できる実務家はほとんどいないでしょう。
4.小沢氏側による行政訴訟に対して、読売新聞の解説(平成22年10月15日付夕刊)は否定的な見方を示しています。しかし、違法な行政活動に対して、国民一般の権利救済を拡大する方向の改正という、こうした行事件訴訟法の改正の経緯に反するような考えは、妥当なのでしょうか?
(1) 起訴されて被告人となることは、本人や家族にとって精神的・経済的に非常に大きな負担となります。例えば、家族も犯罪者の家族とみられて苦しみます。また、普通の会社員なら起訴されるとほとんどが解雇され、生活が行き詰ることになります。後に無罪判決が出たとしても、公務員なら復職できますが、普通の会社員なら復職も難しいのが現実です(朝日新聞平成22年10月9日付朝刊(佐藤喜博・弁護士の話))。
このような人権侵害を招く起訴であるのに、今回の検察審査会は、有罪の見込みがないのに「国民には裁判で白黒つける権利がある」などと実に無責任・身勝手な判断に基づいて、起訴議決を行ったのです。こうした無責任・身勝手な強制起訴は、有罪の見込みをまるで考えない以上、今後は誰であっても、しかも今よりも大勢の人たちが強制起訴の被害を受けるのです。
検察審査会による無責任・身勝手な強制起訴に対しては、阿部泰隆・中大教授も指摘するように、国家賠償を請求できるのです(「有罪の見込みがない起訴を認めてよいのか?〜検察審査会の強制起訴を巡って」(2010/09/07 [Tue] 20:43:09)も参照)。しかし、後で、国家賠償を請求できたとしても、多大な被害を生じた事実は消えないのです。
小沢一郎氏だからこうした「被害」を受けても耐えられるのかもしれませんが、他の政治家はもちろん、一般市民が同様の被害を受けたら、誰も耐えることができず、議員や職を辞する結果を招くは当然として、一家心中してしまう可能性さえもあるでしょう。
冤罪の危険が増大をまるで無視したかのような検察審査会の横暴に対して、小沢氏だけの問題として無関心でいることで本当によいのでしょうか? マスコミは、憲法31条で保障された無罪推定の原則をまるで無視したまま、延々と小沢バッシングを繰り広げていますが、こうした被害を他人事としていて、本当によいのでしょうか?
(2) ルドルフ・フォン・イェーリング(Rudolf von Jhering)は、『権利のための闘争』(1872年出版)において、次のような趣旨のことを述べています。
「いかなる権利も、それは個人の尊厳の一部である、したがってささいな権利の侵害であっても、それを自己の尊厳の否定ととらえて全面的に闘争すべきである。しかしその闘争は、実は「国家共同体」の法(権利の体系)を支えることでもある。なぜなら、法=権利の全体は、具体的な場面で個々の権利が保障されることによってのみ生命を与えられるのだから。自分にとって無関係であるからと、他者への権利侵害を見逃すものは、権利の体系全体の毀損に道を開くものであり、いずれは自らの権利を守ることもできなくなるだろう……。」(「こぼればなし」『図書』2010年9月・第739号)
他者の権利であろうと自分のそれであろうと、およそ権利が侵されたとき激しい痛みを感じ、回復の闘争に打って出る力を、イェーリングは「権利感覚」と呼んで、その涵養を「国家共同体」にとって最重要の要素と考えています。
小沢氏に生じた問題について、「自分にとって無関係であるからと、他者への権利侵害を見逃すものは、権利の体系全体の毀損に道を開くものであり、いずれは自らの権利を守ることもできなくなる」のです。そして、マスコミの誘導のまま小沢氏を非難し続け、小沢氏側による行政訴訟といった権利救済を行ったことに対して非難することは、「権利感覚」を無くしたものというしかありません。
マスコミ報道による、常軌を逸した「小沢バッシング」を無批判に受け入れ、行政訴訟といった権利救済手段を否定することは、検察審査会による被害による救済手段を自ら捨て去るという、国民が自らの首を絞めることであって、「いずれは自らの権利を守ることもできなくなる」ことになるのです。市民感情のままに、証拠に基づくことなく、気ままに起訴を決める「検察審査会という怪物」を止めるのは、我々市民の責務であるというべきです。
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