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2010年10月19日(TUE)
今だけ見てもわからない
日本の現状を見ると、まあ、ひどいものだが、こうなることはもう以前からある程度はわかっていたと思う。この数年の流れだけでも、日本がアメリカに支配されている隷属国家であることよくを示してくれた。さらに日本を支配するかのように見えるアメリカも、もう限界を迎えていて、アメリカを利用し、そこに巣くっていた勢力はアメリカを捨て、解体する方向に入ろうとしている。新興勢力の中国は、今は鼻息が荒く見えるものの、一皮むけば不安定この上ない状況で、何かのスイッチひとつ押せば解体も含む混乱も予想される。なので、新興勢力としての中国に覇権が移り、新たな世界構造が構築されるというほど簡単な話しではない。中国の弱点はウイークポイントを押しさえすればすぐにスイッチが入ってしまうので、脅しやすい面がある。日本に強く出たり、一方で修復を焦る姿を見せるのも、そうしたところに起因している。本当はその点日本は強い立場にあるものの、これまでの政策がアメリカ一辺倒のポチ政権だったので自分の強さを生かしていない。一度、日本はひそかにアメリカにさからい、独立する方針を立てたが、アメリカにつながる勢力との争いに負けてその歴史は封じられたのだと思う。ただ言えることは、日本はこの世を動かしている銀行家に代表される勢力に対して、それに搾取されつつも受け入れ、飲み込まれながらもその存在は消されることなく、意外とうまく立ち回ってきたということもできる。アメリカを牛耳る勢力にうまく取り入れられることで、延命をはかり、勢力拡大を意図し、ひるむことなくやってきた面がある。探査衛星イトカワなどの成功はこうした軋轢の中から生まれてくる快挙でもあり、本当の意味での日本的なものだった。ここにこれからの日本の生き方のヒントもあるだろう。ただ、うまく立ち回ると言っても、今回の民主党の変節はあまりに露骨で、すでに旧自民党以上の飲み込まれようである。私も一時は管直人などを最低の人間だと思ったが、国会中継などを聞いていくと、彼の弱さをなぜだか許してあげたいような気にもなる。管の変節は、政治家によくある変節とは言いながらも、あの人ほどひどいものは見たことがない、、、といわれるようなすごさだったらしいが、それもひとつのお役だったとは言えるのだろう。良いことを行っていけば本当に良い時代が来るというほど単純なものでもない。良いもの、悪いものが、実は協力してやっていく中でしか本当の物事の発展はない。その意味で、日本がこれまでやってきた、悪いものを中に取り入れ、食われつくされるようなところまで行きながら、それを排除せずに受け入れてやっていく中で、実は本当の可能性が出てくる。アメリカとつるんで日本を売り飛ばしてきたような政治家は数多いが、意外にもそうした者の中にも、さらに深い考えを持っての人もきっといたと思う。たとえば、天皇の戦争責任についていえば、天皇に責任があることは、昭和様ご本人が言っていることで、やはりあったことは確かである。私は昭和天皇に対する個人的崇敬の念が厚い方だが、それでもそれは確かなことだ。しかし多くの国民がそうではなく、天皇には責任がないと考えた。戦争の際もそうだったと思う。国民が、兵隊が、みな天皇のために死を決意して忠節をつくそうとしているときに、戦争はいけません、、、とは言えなかっただろう。国民の気持ちを思えば。天皇はだから空そのものであり、国民の命とともにある存在だということを知らない限り、こうした問題はわからない。天皇の歴史の中に天皇の自由などなかった。私は披講をやっている手前、なぜか一条帝の御代に関心がある。その頃、宮中では清少納言、紫式部、和泉式部などが活躍する文学、和歌全盛の時代だった。政権は道長が握っていた。一条天皇と道長の間には、深い確執があったことは容易に想像できる。道長に毒殺された可能性も捨てきれないわけで、まあ、本当にお気の毒であり、大変な忍耐を強いられた名君が一条帝だった。藤原は天皇を補佐するお役目でもあったろうが、天皇をないがしろにして自分らの権勢を見せつける勢力でもあった。天皇の歴史は藤原なくしては語れないと同時に、藤原憎しの歴史だったと言ってもそれほど間違いでもないと思う。一条帝の勅願によって建てられた唯一の神社が東京三田にある元神明宮だが、そこの一千年祭において私たちは奉納の披講をしたことがある。その前まで晴れていた空が、歌会が始まる直前に真上に雷が落ち、それから歌会が終わるまでの約20分間、私がこれまでに体験したことのないような激しい雷が鳴り響いた。その音はそこに居た者には、早く、、とか、もっと、、、という声のように聞こえた。帝は歌がうたわれることを、長年待ち望んでおられたように感じられた。天皇の歴史とは、対抗できない反対勢力に飲み込まれるところにその本質の一つがあるのだ。あえて飲み込まれる。それによって、生き続ける。どんなに飲み込まれても本質の命につながっている以上は決して消えない。そのうち、仕組みや外観は変わってくる。仕組みや外観で生きている勢力はいずれ本質の命あるものに感化され、変容していく。これがまさに私が考える、感じる天皇制であり、日本の特色だと思う。では日本の現代における命につながる本質は何かだが、それは日本語にある。もちろん、それを体現する天皇にもあると個人的には思っている。そうした観点から見ていくと、終戦も、アメリカのポチとなった日本も、今の管の頼りなさも、ずるさも、意外に日本的なやり方の流れの中にあるのかもしれない。
悪と善が対立したなら、争ったら大体は悪が勝つ。その場合でも悪は目的の変更を迫られる。悪が善を敗北させ、解体し、吸収した際に、悪自身がこれまでと違って変化する。金儲けのために経済を作り、紙幣を作り、独占したやり方は、見事だったし、その勝敗は完全に彼らの勝ちにおわったが、そこに到来した社会と今後の可能性は彼らが考えていたものとは異なり、彼ら自身がそうした予測できえぬ未来の成果を受け取る運命を持つ。ということは、目先の目的には必ず悪が勝が、勝ったのちの状態は予測と異なる未来という運命が悪にはつきまとう。議定書は確かに小さな意味での未来を告げはするものの、それは方法論の成功しか意味せず、訪れる未来がどのようなものになるかは、彼らの力は及ばない、そうしう運命的構造をもっている。なので、悪は未来に介入することはできるが、未来を作れる存在ではないということになる。これは間違いのない方程式である。未来は変化しない善によって維持される。ただし、形の上では、常に善は悪に飲み込まれていく宿命を持つ。となると、まあ、これでもいいではないか、、、という歴史感にもつながる。日本人は確かにそれでやってきた。だから、まだこれからも飲み込まれる。さらに飲み込まれるに違いないので、用心しなくてはいけないが、大きな意味では安心していていい。どんどん飲み込ませると、どんどん時代がすすんでいく。悪の親分ががめつく、最後の最後の本当のところを飲み込むつもりになったら、悪は未来が作れないので、そこで大逆転が起こらざるを得なくなる。本当にこの世はよくできている。何も焦る必要も消沈する必要も何かを悪く言う必要もないということになる。御苦労さまです。この一言には、どうぞ悪はおやりなさい。そしてこちらはどこまで飲み込まれようとも死ぬこともなく、新しい時代の肥やしになって命をつないでいく、、、それもだめになったら、大神がお怒りになるので何も怖くない。というあたりだろう。また、飲み込まれていくうちに、どうしても命ある方が強い存在感だろうから、悪の気持ちが変わっていく面もあり、偶然に生まれた縄文一万年の歴史などを作る面もある。しかし神様はそれをよしとせず、変化の時代へと、縄文人や原住民を放り投げ、悪を寄せ付けなかった楽園へ、蛇を投げ込んだのである。
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