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http://diamond.jp/articles/-/9768
検察審査会が、小沢一郎元民主党代表の資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡る政治資金規正法違反を不起訴処分とした検察の判断を「追及不足」として、「起訴相当」と議決した。今回は、これを約100年間に渡る「政党政治vs検察」の戦いの流れの中に位置づけてみたい。
「政治的検察」が動いた典型的事例としての小沢問題
約100年前、平沼赳夫衆院議員の祖父で検察官僚の平沼騏一郎が、汚職事件に関連する政治家を罪に問うかを交渉材料として、政治に対して影響力を行使しようとしたことから「政治的検察」が誕生した。その後、検察は歴史的に権力の座にある(座を狙う)政治家をターゲットにした駆け引きを繰り返して政治的影響力を高めてきた。中には、まったくのでっち上げや形式犯でしかないものを起訴することで、多くの政治家の政治生命を奪ったこともあった(第21回を参照のことhttp://diamond.jp/articles/-/3717)。
「政治的検察」は、日本の刑事司法が裁判所での審理中心でなく、検察の捜査中心で判断が完結するシステムである上に、「起訴=ほぼ有罪」が日本社会の共通認識であることで成り立ってきた。政治家が一旦起訴されると、仮に裁判で無罪になっても計り知れないダメージを受けた。それ以前に、検察はたとえ起訴できない事件でも、その理由を詳細に公開する必要がない。だから検察は「有罪」の確証がなくても簡単に捜査に着手することができ、政治家に社会的制裁を加えることができた。
小沢氏の問題は、この「政治的検察」が動いた典型的な事例といえる。小沢氏の3人の元秘書の「政治資金規正法違反」は、「小沢氏からの借入金4億円を収支報告書に記載しなかった事実」のみであり、水谷建設から渡ったとされる5000万円の裏献金の事実は起訴事実に含まれなかった。これには法曹関係者などから、政治資金収支報告書の訂正ですまされるもので起訴に値しないとの指摘があった。また、秘書からは小沢氏の積極的な指示・関与を裏付ける証拠を得られず、小沢氏は不起訴となった。
この事件で検察は、小沢氏の政治生命にダメージを与えられると考えて、元秘書3人を無理やり逮捕したと考えられる。実際、小沢氏は元秘書が逮捕される度に、一度は検察に徹底抗戦の姿勢を見せても、最終的には支持率低下に抗せず要職を辞任した。2010年9月の党代表選で、小沢氏は菅直人首相に挑戦したが、一般国民の感覚に近いとされる「党員・サポーター票」で大差をつけられて惨敗した(第58回を参照のことhttp://diamond.jp/articles/-/9441)。
たとえ小沢氏が不起訴になろうと、国民が小沢氏に持つ心証は真っ黒となっており、「政治的検察」は十分に目的を達成したように見えた。しかし、ここで検察に思わぬ誤算が生じた。検察審査会が、検察の判断を覆して小沢氏を強制起訴したことだ。
「政党政治vs検察」の戦いを終焉させる小沢裁判の意義
検察審査会による議決は、「政治的検察」にとって皮肉なものであった。検察が小沢氏の心証を真っ黒にしたことが、民間人から選ばれた検察審査会の「起訴相当」の判断をもたらしたといえるからだ。検察審査会の議決は「(検察審の制度は)公正な刑事裁判の法廷で白黒つけようとする制度である」と訴えた。裁判が真相究明の場と明確に位置付けられることは、起訴=ほぼ有罪の「推定有罪」を前提に政治的影響力を高めてきた「政治的検察」の存在の根幹にかかわる問題となる。
本来、検察審査会の権限強化は「政治的検察」が扱う特捜事件を対象として導入されたものではない。そもそも犯罪被害者団体が圧力団体化して、市民による検察審査会で被害者たちが起訴を望む事件を救済することを求めたものだ。また、法廷で白黒つける「公判中心主義」も裁判員裁判の導入によるもので、特捜事件とは本来関係がない。
しかし、一連の司法改革によって司法に持ち込まれた「市民感覚」は、小沢氏の不起訴を許さなくなった。皮肉にも、「政治的検察」が最大の敵・小沢のネガティブイメージを作りすぎたために、特捜事件への「公判中心主義」導入という、「政治的検索」の基盤を揺るがす事態をもたらしてしまったのだ。
小沢氏の裁判は、有罪立証へのハードルが高いとされる。小沢氏本人の直接的な関与を示す客観的な証拠がない。立証の柱は秘書らの供述だが、彼らは無罪を主張している。大阪地検特捜部の捜査資料改ざん・隠ぺい事件で調書の信頼性自体が揺らいでいる。そもそも、検察審査会の審査過程の不透明さへの批判もある。しかし、それでも尚、小沢氏の裁判の意義は小さくない。「起訴」の目的を真相究明として公判が行われれば、「起訴=ほぼ有罪」を前提とした「政治的検察」の政治への影響力は消える。約100年続いた「政党政治VS検察」の攻防は、検察の敗北に終わるのだ。
「政治的検察」を潰すために、小沢氏の政治的・道義的責任を問うべきではない
小沢氏の側からすれば、この裁判は自らの身を犠牲にして「政治的検察」を潰すことができる絶好の機会だ。小沢氏は検察審査会の議決の無効性を訴える「行政訴訟」を起こすべきではない。「行政訴訟」は「政治的検察」に手を差し伸べることになるからだ。小沢氏が自らの無罪を確信するならば、あえてガチンコの法廷闘争を挑むべきだ。公判中心主義への移行を確実に実現することこそ、「政治的検察」の完全抹殺につながる。国会での小沢氏の証人喚問・政治倫理審査会出席も不要だと考える。「公判至上主義」の定着には、「推定無罪」という考え方を徹底させる必要があるからだ。
裁判が結審するまでは、政治家に嫌疑がかけられても、その「政治的・道義的責任」を問うべきではない。そこに「政治的検察」が政治と駆け引きする余地があったのだ。「政党政治vs検察」100年戦争を終わらせるためには、政治は短期的な支持率の低下を恐れず、小沢氏を「推定無罪」として「公判中心主義」定着に徹すべきである。更に言えば、「推定無罪」を徹底しないと、「政治的検察」が影響力を失っても、今度は「市民」が政治家のあることないことをでっち上げて、「起訴」してしまうリスクがある。これも我々が忘れてはいけないことである。
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