http://www.asyura2.com/10/senkyo97/msg/762.html
Tweet |
[表題]<国家権力は正義と無関係で勝てば官軍>が本気の逆上民主主義国ニッポン
[副題]点描ポーランドの風景/グダンスク編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)−(第一部)
<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101018
【第一部プロローグ画像&動画】
グダンスク港の風景(撮影、2010.7.18)…一枚目はhttp://poland-blog.info/gdansk/より、二枚目はヴェステルプラッテの岸壁
[f:id:toxandoria:20101018173154j:image]
[f:id:toxandoria:20101018173217j:image:right]
[f:id:toxandoria:20101018173231j:image]
[f:id:toxandoria:20101018173247j:image]
【画像】グダンスク、ヴェステルプラッテのロケーション
[f:id:toxandoria:20101018195748p:image]・・・http://oasis.halfmoon.jp/traveldia/eur06a/temp_photo.htmlより
[f:id:toxandoria:20101018195841j:image]・・・http://poland-blog.info/westerplatte/より
Battle of Westerplatte(グダンスク港の入口、ヴェステルプラッテへのドイツ戦艦シュレスヴィヒ・ホルスタインの攻撃は第二次大戦開始の端緒となった)
[http://www.youtube.com/watch?v=bfoRhrvTgmA:movie]
SMS Schleswig-Holstein 1. Sep. 1939span>(第二次世界大戦は、ドイツ戦艦シュレスヴィヒ・ホルスタインのヴェステルプラッテ・ポーランド守備隊への突然の攻撃から始まった)
[http://www.youtube.com/watch?v=NgENjoWBFf4:movie]
【画像】プロイセンへの追憶(東西プロイセン、ドイツ帝国)
プロイセン地方(プロイセン王国(1701-1918)&東プロイセン)、領域図
[f:id:toxandoria:20101018173938p:image] …画像はウイキメディアより、赤が東プロイセン/「藍色+赤色」の全体がプロイセン王国の範囲。ただし、1793年の第2次ポーランド分割が行われるまで、グダニスクを中心とする西プロイセン(この領域図で赤色の西側に接する区域、関連で下図『西プロイセン、領域図』を参照)は、ほぼポーランド領であった。
<注記>
1701年にブランデンブルク選帝侯・プロイセン公フリードリヒ3世はケーニヒスベルクで戴冠し初代プロイセン国王フリードリヒ1世となる。その結果、プロイセンの領域は、ほぼ現在のドイツ北部からポーランド西部、そして飛び地の東プロイセンにかけての広大なものとなった。それから1918年に第9代プロイセン国王兼第3代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位するまでプロイセン王国は続いた(1700年以前のプロイセン公領時代の領域等については、以下の『プロイセン公領&プロイセン公国、領域図』を参照乞う)。
西プロイセン、領域図
[f:id:toxandoria:20101018174106p:image] ・・・画像はウイキメディアより、赤が西プロイセン。既述のとおり1793年の第2次ポーランド分割が行われるまでグダニスクを中心とする西プロイセンは、ほぼポーランド領であった。
ドイツ帝国(1871-1918)、全領域図
[f:id:toxandoria:20101018174213g:image] …画像はhttp://kaiser-collection.com/map0.htmlより
プロイセン公領&プロイセン公国、領域図
[f:id:toxandoria:20101018174304p:image] ・・・画像はウイキメディアより。斜線部分がプロイセン公領(1660年からプロイセン公国となり首都はケーニヒスベルグ(現在のカリーニングラード))、西プロイセン(1793年の第2次ポーランド分割までポーランド王領・西プロイセン)は薄ピンクの部分。
<注記>
プロイセン公領はドイツ騎士団領の東プロイセン地方に1525年に成立したホーエンツォレルン家(ルター派プロテスタント)の世俗公領(首都ケーニヒスベルク/現在カリーニングラード)であった。ホーエンツォレルン家が2代で絶えた後、1618年よりブランデンブルク選帝侯のホーエンツォレルン家宗家の同君連合下に入る。ポーランド・スウェーデン戦争の講和条約「オリヴァ協定(1660)」でポーランド・リトアニア共和国から正式に独立しプロイセン公国(1660-1700)となった。
<参考>現代ドイツ、領域図
[f:id:toxandoria:20101018174416j:image] ・・・画像はhttp://www.linkclub.or.jp/~uno/A112g-0int.htmより。ドイツ(第二)帝国時代のドイツの領土は、今のドイツ領土の1.5倍ほどであり、バルト沿岸、ポーランド西側、東プロイセン辺りのドイツ人は厳密に言えばバルト・ドイツ人(ドイツ人と西スラブ人の歴史的ハイブリッド(混血))であった。
現代ポーランド、領域図
[f:id:toxandoria:20101018174502g:image] ・・・画像はhttp://hiki.trpg.net/BlueRose/?RepOfPoland+UFmapsより
(西プロイセン及び東プロイセンを巡るドイツ・ポーランド史/ドイツ騎士団国家からプロイセン公国・プロイセン王国へ、そしてドイツ(第二)帝国の誕生)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100912より部分的に修正・加筆して転載
1510年にドイツ騎士団(ポーランド・西プロイセンのマルボルク城を拠点とする)の第37代総長に選ばれたホーエンツォレルン家のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(Albrecht von Brandenburg)は、マルティン・ルターと面会(1523年)し感銘を受けたため、配下の団員とともに騎士団を離れルター派に改宗した。
更に、アルブレヒトは対立するカトリックの騎士団員をプロイセンから追放し、ドイツ騎士団国家に代えて、1525年にホーエンツォレルン家が世襲する世俗の(血統が続く)領邦国家・プロイセン公国(東プロイセン/首都、ケーニヒスベルグ)をポーランド王の宗主権下に創設し自らが初代プロイセン公(アルブレヒト/在位1525-1568)となった。なお、ホーエンツォレルン家のドイツ支配はドイツ革命(1918-19)で最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位しワイマール共和国が成立するまで間、約390年も続いた。
この時、ドイツ騎士団国家によるプロイセン(バルト沿岸部、東西プロイセン辺り)支配は歴史的な役割を担う場面から完全に消え去った。しかし、プロイセン公国では、やがてアルブレヒトの血統が絶えたため、同族のブランデンブルク選帝侯(北ドイツ)が公位を相続し、プロイセン(西プロイセン=ポーランド支配下、東プロイセン=プロイセン公国)が神聖ローマ帝国の域外であったことから、後に王号の使用が認められプロイセン王国(1701 -1918/首都はケー二ヒスベルクからベルリンへ遷都/ケー二ヒスベルクを中心とする東プロイセンは飛び地)となる。
ともかくも、このような経緯でベルリンを首都とし、今のドイツ北部〜ポーランド西部(及び飛び地の東プロイセン)にかけて領土とするドイツの名門貴族ホーエンツォレルン家(ブランデンブルク選帝侯)支配下の強国、プロイセン王国(Königreich Preussen/1701-1918)が誕生することになる。
1640年にフリードリヒ・ヴィルヘルムがブランデンブルク選帝候国の君主(プロイセン公/1640‐1688)となり、「三十年戦争」後のウェストファリア条約(1648)で、ポメラニア(ポモージェ/北はスウェーデン勢力下のバルト海、東西をオーデル川とヴィスワ川に挟まれた地域)の継承に全力を注ぎプロイセン公国をポーランドの圧力から解放したが、スウェーデンに西ポモージェを奪われてしまった。そのためフリードリヒの課題は軍事力強化となる(画像はhttp://homepage3.nifty.com/time-trek/else-net/topics-05-8-24.htmlより)。
<注記>ポメラニア>(英語 Pomerania/ポーランド語Pomorze、ドイツ語 Pommern)
[f:id:toxandoria:20101018174733p:image]
[f:id:toxandoria:20101018174811g:image] ・・・一枚目の画像(地図)はウイキメディアより、二枚目はhttp://hiki.trpg.net/BlueRose/?KaliningradOblast+UFmaps#l0より
ポメラニア(ポモージェ)は、ポーランド北西部からドイツ北東部にかけて広がるバルト沿岸地域の呼称。地勢学的には北はバルト海に接し、東西をオーデル川とヴィスワ川にはさまれた地域。ポメラニアの東端部のヴィスワ川を挟んで東プロイセンに接する地方はポメレリア(英語Pomerelia、ドイツ語 Pommerellen)と呼ばれる(中心都市はグダニスク)で、西プロイセンの一部となる。
やがて、フリードリヒ・ヴィルヘルムはケーニヒスベルクで起こった暴動も鎮圧して住民に忠誠を誓わせ最終的なプロイセンの支配権を獲得し、この時点でプロイセン地方はポーランドとスウェーデンの圧力から脱し、プロイセン公国は17世紀末に自立した。選帝侯としては神聖ローマ皇帝の臣下であったが、既にブランデンブルク=プロイセン(1701年からプロイセン王国)は北東ヨーロッパにおける地位を築いていた。
1862年にオットー・フォン・ビスマルクがプロイセン王国の首相になると、プロイセン王国はオーストリア帝国と同盟し、デンマークとシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(シュレースヴィヒ、ホルシュタイン両公国を巡るデンマークとの対立)を戦って勝利し、デンマーク統治下にあったシュレスーヴィヒとホルシュタインの両公国をオーストリアとの共同管理下に置くことになる。
1866年の普墺戦争ではオーストリアを破り北ドイツ連邦を結成し(小ドイツ主義を採り)、オーストリアをゲルマン(ドイツ)人国家の枠組みから追放した。1870年には普仏戦争でナポレオン3世率いるフランスを破ってパリへ入り、1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿でドイツ諸侯に推戴される形でプロイセン国王ヴィルヘルム1世(Wilhelm I)がドイツ皇帝となり、ここに「ドイツ帝国」(Deutsches Kaiserreich/ドイツ第二帝国/ドイツ統一連邦国家/1871-1918)が成立した。
(東プロイセン、西プロイセンの概要)
グダンスク&カリーニングラード(ケー二ヒスベルク)、位置図
[f:id:toxandoria:20101018174949p:image]
西プロイセン(現在のポーランド・ポモージェ地方)の中心都市グダンスクと東プロイセン(現在はロシアの飛び地、カリーニングラード州)の首都カリーニングラード(プロイセン王国(北ドイツの一部、ホーエンツォレルン・ブランデンブルク領)時代はケー二ヒスベルク)の距離は200km足らずであるが、この二都市の間及びその周辺にはドイツとポーランド及び諸民族の歴史が折り重なるように、あるいは相互浸透する如く重層的な歴史地層を形成している。
これを端的に括れば、まず西プロイセンはポーランドとドイツの歴史的な鬩ぎ合いの場所であった。12世紀頃からドイツ農民の東方への進出が始まっており、この地域に三圃式農業がもたらされたが、それはポーランド人の穀草式農業(先ずクロ―バ―を植え、次いで家畜を飼い、肥えたその土地に穀物を植える農法)にとり、農業生産性向上の観点から農業革命的な意味があった。
このようにしてポーランド農民の隣人と化したドイツ農民らの一部はポーランド人の社会に溶け込んだ部分もあり、彼らはバルト・ドイツ人(ドイツ人とポーランド人の歴史的ハイブリッド)のルーツの一つとなった。また、13世紀以降になり、トルン、マルボルクなどドイツ騎士団の居城周辺に形成された集落が都市化するにつれ、そこでは貿易・商業・手工業などに携わるバルト・ドイツ人がポーランド人の隣人となった。
このように多様な形の「ドイツ人の東方進出」(Ostsiedlung)は、それがドイツ騎士団の軍事力に支えられた側面があるとはいえ、単純な武力による領土侵入とは異なっており、ある意味で自然発生的、あるいは相互依存的開拓の意味もあったと考えられる。例えば、先進的ドイツ農法へのポーランド側からの二―ズとドイツ農民の過剰人口が吸収可能なポーランドの大地の間に生じたギブ・アンド・テイクの関係は、その典型であろう。
つまり、現代世界がグローバリズム経済に人類生存の将来を賭けざるを得ないのと同じく、言い換えれば、現代世界で諸国家のビジネス抗争が一定の自由貿易地域(FTZ)的な、あるいは一定の地域経済統合的な空間を求めざるを得ないと同様に、中世前期のドイツとポーランドは歴史的ロングスパンの「ドイツ人の東方進出」という特殊な空間過程を自然発生的に拡大する必要があったのかも知れぬ。ともかくも、そのようなFTZ的な性格こそが、グダンスクを中心都市とする西プロイセン地方の特徴であった。
他方、中世期〜プロイセン王国〜ドイツ帝国という長期にわたりドイツの「飛び地(Exklaren)」であり続けた東プロイセン(現在もロシア領の飛び地!)は、そのような西プロイセンとは全く異質な歴史的特徴を帯びてきた。つまり、東プロイセン(中心都市=ケー二ヒスベルク)はホーエンツォレルン・ブランデンブルク家との併合によって完全にドイツ化した地域であった。
因みに、18世紀のケーニヒスベルクは、ケーニヒスベルク大学などを擁する北ドイツの教育・研究の中心地であり、イマヌエル・カントら多くの学者を輩出している。が、やがて19世紀にプロイセン王国を中心にドイツ帝国が形成されると、その一部となった。1848年には、ヨーロッパ市民革命のプロイセン地方における活動の中心地となり、王侯貴族の支配に対して商工業者を中心とする市民らが立ち上がり大規模な抵抗運動が行われた。
無論、この東プロイセンでも、純粋の土着プロイセン人は歴史の中で17世紀頃には消滅しており、一般住民層の主流はバルト・ドイツ人、ポーランド人、リトアニア人、ベラルーシ人らの西スラブ人及びユダヤ人らの異民族であったが、政治・軍事・経済的な支配層は純然たるドイツ人であった。それ故、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は神聖ローマ帝国の外にあたるケーニヒスベルクで王に即位してフリードリヒ1世となり、プロイセン王国がこの街で誕生している(それ以降、同王国の首都はベルリンへ移る)。
(マルボルク城に象徴されるドイツ・ポーランド両国の作用空間としての西プロイセン)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100912より部分的に修正・加筆して転載
【画像】マルボルク城の遠景
[f:id:toxandoria:20101018175218j:image]・・・画像はウイキメディアより
マルボルク(Malbork、独Marienburg in Westpreussen)は、ポーランド北部・ポモージェ県にある(トルンから北へ約70km)人口約3.8万人の都市である。市内には中世ヨーロッパで最大級のゴシック城郭とされるマルボルク城(13世紀、ドイツ騎士団が本拠地として建設)が残っている。
マルボルクの市街は、ドイツ騎士団が1274年に建てたノガト川(ヴィスワ川支流)東岸の要塞(マルボルク城)の周囲に形成され、城郭と街の名は騎士団の守護者である聖母マリアに因んでマリーエンブルク(ポーランド語Malborg)と名付けられた
1466年の「第二次トルンの和約」後に、マルボルクはポーランド王領プロシア(西プロイセンの一部)となるが、1772年の「第一次ポーランド分割」ではプロイセン王国(北ドイツ)へ併合され、次いでマルボルクは1871年にドイツ帝国(1871-1918/プロイセン国王をドイツ皇帝に戴くドイツ連邦国家)領マリーエンブルクとなった。
第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約では、住民たちがドイツに残留するか新しいポーランド共和国に加わるかを1920年7月11日の国民投票で問われることとなり、その結果マリーエンブルクは東プロイセン・マリーエンヴェルダー州(ヴィスワ川が東西プロイセンの境界)に入った。
更に、第二次世界大戦の連合国側勝利とポツダム宣言(1945)によって、マリーエンブルクはポーランドへ復帰しマルボルクとなり、全てのドイツ系住民はポーランドの外へ追放された(この後のドイツ=ポーランド間の問題の経緯については、コチラを参照乞う⇒『ポーランドにおける少数派ドイツ人問題のその後=ドイツ・ポーランド間の歴史教科書対話に関するメモ』、http://www.polinfojp.com/kansai/pdrcznk.htm)。
(グダンスクの概要)
グダンスク(又はグダニスク:Gdansk/ドイツ語ダンツィヒ:Danzig)は、ポーランド・ポモージェ地方(県)の都市でバルト海のグダンスク湾を擁するポーランド最大の港湾都市である。中世以降、塩・石炭などの運搬に大きな役割を果たしてきたヴィスワ川を数百キロも下り、クラクフ・ワルシャワ・トルンなどの諸都市を巡ると、それはこのグダンスク湾に注ぐことになる。
グダンスクを中心都市とする現在のポーランド・ポモージェ地方(西プロイセン)の大きな特徴は、結局のところグダンスクを統治する主体権力は誰かということが、その歴史の流れを左右してきたということだ。そして、その複雑で重層的なグダンスクの歴史の綾の奥底には、例えば“数奇な運命”の如き平凡で通り一遍な修飾語を拒絶する壮絶さのようなものが織り込まれている。
このようなグダンスク史の複雑な綾の奥底で鳴り響く通奏低音こそが、実はポーランド全体の歴史の特徴でもあるのだ。そして、その通奏低音の正体とは、ホッブス流の『万人の万人に対する戦い』が表す“政治権力に潜む暴力性”(ファスケス)ということである。特に、それが顕著に見られるのが18世紀以降のプロイセン王国時代と20世初めから20紀半ばまでのナチス・ドイツの占領下の時代である。
・・・
<注記>ファスケス(fasces)
共和制ローマの統一シンボルで「束ねた杖」(fasces/執政官の権威の象徴)の中心にあるのが鋭い刃を持つ「むき出しの斧」(武器/暴力的権力の象徴)。古代ローマ人たちは「共和制」の時代から既に<政治権力の本質が暴力的なものであること=ほんの紙一重で市民への抑圧・弾圧と戦争への暴走に走る能力を帯びている政治権力のリアリズム>を理解していた。民主政治と雖も例外ではなく、このファスケスを制御できるのは<民主憲法の授権規範性>だけである。
・・・
14世紀初頭、グダンスクは人口1万人程の貿易港都市となっていたが、1308年にドイツ騎士団に占領され、このため宗主国ポーランド王国とドイツ騎士団が戦争状態になった。やがて、1343年の「カリシュの和約」でドイツ騎士団がポーランド王国に賃料を支払うことでポーランド王からポメレリアがチュートン騎士団に貸与されることとなった。
この経緯から、ポメレリアの中心都市グダンスクはドイツ騎士団の支配下で成長し、ドイツからの移民が増加し、1361年にはハンザ同盟の正式な加盟都市となった。やがて、グダンスク市民は徴税権や裁判権を濫用するドイツ騎士団の支配を嫌うようになる。このため、1409年にポーランド・リトアニア連合王国とドイツ騎士団の間で起こった大戦争では、グダンスク市民(バルト・ドイツ人ら)はポーランド側についた。
この戦争は、1410年の「グルンヴァルトの戦い」におけるポーランド・リトアニア連合王国の勝利で終った。グダンスクは以前からドイツ騎士団の支配を廃しポーランド・リトアニア連合王国へ帰属することを望んでおり、ついにその望みが叶った。しかし、翌年に締結した「第一次トルンの和約」では行政上の理由でポーランド・リトアニア連合王国は再びチュートン騎士団にグダンスクを賃貸しすることにしたため、グダンスクはドイツ騎士団の支配下に戻った。
1440年、グダンスクはドイツ騎士団に対抗しポーランド・リトアニア連合王国の庇護を求めるバルト諸都市連合である「プロイセン連合」の設立に参加してドイツ騎士団の利権排除を目指した。そして、遂にはポーランド・リトアニア連合王国と同盟して「十三年戦争」(1454 - 1466)を起こした。その「十三年戦争」は1457年にポーランド側の勝利で終わり、ポーランド王カジミェシュ4世によってグダンスクはポーランド・リトアニア連合王国の自治都市の特権を与えられた。
その後のグダンスクは、ハンザ同盟諸都市との貿易に加えポーランド国内市場への参加も認められて以後、大いに繁栄し「グダンスクの黄金時代」を迎える。1466年にポーランド・リトアニア連合王国とドイツ騎士団の間で成約した「第二次トルンの和約」と「ポーランド王領プロイセン(ドイツ語プロイセン、ポーランド語プルーシ、英語プロシア)」(既出の『プロイセン公領&プロイセン公国、領域図』を参照/グダンスクを含む薄ピンクの領域で、ほぼ西プロイセンに重なる)の確立でポーランド・リトアニア連合王国とドイツ騎士団との戦争は完全に終結した。
これでグダンスクはドイツ騎士団の利権を完全に排除し、大幅な自治権を実質的に確立した。やがて、ポーランド・リトアニア連合王国(1569年以降は同連合共和国)の直接庇護を受けたグダンスクは16世紀〜17世紀には、その貿易・文化の「黄金時代」を謳歌した。市民はドイツ人(バルト・ドイツ人)が比較的多かったが、ポーランド人、ユダヤ人、オランダ人、スコットランド人も多数居住していた。
これら多民族の混住でグダンスクの街は繁栄を極めた。16世紀の宗教改革時代には多くの市民がルーテル派(主にドイツ系やポーランド系の中産階級)、カルヴァン派(主にオランダ系やスコットランド系の中産階級やポーランド人貴族)を受け入れたが、ここでカトリック教徒との深刻な対立はみられなかった。この傾向はポーランド全体と同じであり、これはポーランドが一貫して民族・人種・宗派・宗教の違いを受け入れる寛容な風土であったからだと言えよう。
ところで、「ロシア・ポーランド戦争」(1654-1667)以降は、徐々にロシアによるポーランドへの圧力が高まっていた。例えば、1697年にウェッティン家(Wettin /ドイツ・ザクセン・テューリンゲン地方を支配した有力家系)のアウグスト2世(強力王)がポーランド国王に選ばれたのは、ロシアの支持があればこそであった。議場を取り囲むロシア軍の銃口がポーランド政治を左右することもあった。
こうして17世紀の後半以降になると、ロシアはポーランドを自らの一方的な影響力下に置くことになる。このため、グダンスクも1734年にはロシアに占領され、1793年には第2次ポーランド分割が行われ、グダンスクはポーランド王国から奪われて今度はプロイセン王国に併合され公式な名称を「ダンツィヒ」に変更された。
1807〜1815年にかけての「ナポレオン戦争」期間のグダンスクは、ナポレオンの政策で自治都市としての地位を取り戻した。しかし、「ナポレオン戦争」が終結すると、ダンツィヒ(グダンスク)は、再びプロイセン王国の支配下におかれ西プロイセン(ポメレリア地方)の行政中心地とされた。そして、この時代のダンツィヒ(グダンスク)では住民のドイツ文化への同化政策が徹底的に行われ、住民の多くはドイツ人(バルト・ドイツ人が中心)となっていた。
(第一部/エピローグ)
■国家権力は正義に関係なく<勝てば官軍>なので、特に民主国家では多数派を左右する第四権力たるメディアの責任が重い
<注記>これは、下の記事◆のレス部分の転載である。
◆虚構モンスター化した「日本司法」軌道修正の要は「取調の可視化・推定無罪」の国民啓蒙(人間への気遣いを失った司法の革新)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101011
・・・・・・・・・
国家(公)は宿命的に<“多数派国民が悪でも善でも”常に善である=勝てば官軍だ!>は、意外かも知れませんが、実は民主主義の国家体制を支える<多数決の論理>でもあります。
それは又、日本の主要メディアが頼りにする<支持率調査なる錦の御旗>の要です。つまり、メディアは、自ら<このような民主主義についての割りきった定義>で思考停止すれば、とても気楽に生きられることになる訳です。
他方、<戦争責任に対する真摯な反省>を放置してきたツケが<日本大混迷>(現在の『検察不祥事』と『小沢の政治とカネ』(メディアと実効権力の合作である虚構)が絡み合った不幸で複雑怪奇な事件が象徴する)の元凶ではないかと思います。
例えば、相も変わらず、毎日のように高検リーク記事がメディアを飾りたてる現況では、FD改竄で懲戒解雇された前田被告(元主任検事)の何らかの闇(裏)取引による虚偽供述の可能性が全く排除できない筈です。そこまで日本という国家と、日本司法の基盤崩壊は底なしです。
ところで、その<真摯な第二次世界大戦への反省のモデル=現実的な正義の実行>はドイツ・ポーランドの和解の形にあります。
そのような正義に基づく反省モデルへの逆説が<国家(公)権力は正義に関係なく勝てば官軍なので多数派を左右する第四権力たるメディアの責任が重い=メディア次第なので悪も正義になり得る>というプロローグ標題が意味することです。その意味で日本は<逆上民主主義国ニッポン>とでも呼ぶべきです。
ドイツとポーランドでは、メディアのみならず社会的な指導者層、知識人らのエリート層がこのような意味での和解の形を推進する役割を担ってきました。特にポーランドでは<シュラフタ層(歴史的社会指導層の存在)の伝統>ということがあります(機会があれば、シュラフタについては別途に記事で書きます)。
シュラフタの伝統は、第三次ポーランド分割(1795)で国家フレームを完全に失って以降の約130年間を遥かに飛び越えて現代のポーランドで生きています。
別に言えば、日本人は「太平洋戦争」で多大な加害と犠牲を経験したにも関わらず、「国家」と「民主主義政治」という二つの抽象観念フレームの折り合いの付け方に失敗した儘だということです。
戦勝・宗主国アメリカ、日本の実効支配権力、そして第四権力たるメディアまでもが、それ(この意味での戦後日本の汚点=不正義の放置=不正義を正義と見なす詭弁的な権力構造)を、狡猾に、自己利益だけのために利用し続けています。
第二次大戦開始の場で国際連盟監視下の自由都市(国家)グダンスク(ダンツィヒ)は建前上の実効支配はポーランドながら現実支配はバルト・ドイツ人(プロイセン系ドイツ人=ドイツ系とスラブ系のハイブリッド)でした。そこへナチス・ドイツが浸透するという極めて深刻な一種のダブル&トリプルバインド状態でした。
このダブル&トリプルバインドから生まれたノーベル文学賞・受賞文学作品がギュンター・グラス(バルトドイツ人)の『ブリキの太鼓』です。この作品は、フォルカー・シュレンドルフ監督で映画化され1979年度カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞とアカデミー外国語映画賞を受賞しています。
戦後ドイツのナチス犯罪の総括・反省の形(歴史を継承するドイツ国家がナチス犯罪を個々の国民一人ひとりの重みに応じた配分的犯罪と見なして裁いた)をポーランド人は理解しました。ただ、そのために今もドイツとポーランドの間では息の長い<歴史教科書対話>の努力が継続されています(参照⇒http://www.polinfojp.com/kansai/pdrcznk.htm、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100908)。
無論、程度は小さいながらポーランド人にも対ドイツ加害者の側面がありますが、ポーランド人とドイツ人の双方が理解し、それを受け入れたことで安定的な和解の形が生まれたと見なすことができます。
一方、我が国では、極右の一派や知識人の一部が未だに拘るとおり、加害国・被害国双方の国家(民族全体)が戦争責任を負うべきとの<深刻な民族的消耗戦のトラウマ>に囚われたままです。
その深刻なトラウマの根底には民族対立と総民族殺戮の火種(机上の空論的な理論上の戦争と民族双方によるジェノサイド戦争の可能性への拘りという幼児的で未熟な情念)を灯したままです。
結局、「国家」と「民主主義政治」という二つの抽象観念フレームの折り合いが正しい意味でつくか否かは、民主主義国家のフレーム(抽象観念としての国家)を支持し得る唯一の基盤が「憲法」であり、その「憲法」の「授権規範性」の意味を全国民および国家の指導層に属する人々が厳しく理解することが肝要だと思われます。
しかし、残念ながら我が日本国民はこのような意味での「憲法についての理解(観念)」が非常に希薄です。そして、教育・メディア及び社会生活など凡ゆる場面における理解の努力もなされず、無責任に放置されたままの“その日暮らし状態”です。
それどころか、宗主国アメリカ、実効支配権力そして第四権(批判)力たるメディア(更に驚くべきことには、政治権力暴走への監視役たる司法)までもが、この悲惨な日本の政治・社会状況を狡猾にも、それぞれの立場の利益に利用し続けてきたことが、次々と無様な恰好で暴露され、汚辱の尻尾を出し始めています。
従って、この様な日本の社会環境下では「推定無罪の観念」(“殺人=悪”の如く、ある意味で皮膚感覚的な慣習(習慣文化)レベルまで純化した法理念の共有)を、この日本で根付かせることが非常に困難であるのも至極当然の帰結ではないかと思われます。
更に深刻な現実が明らかになりつつあります。それは、<政治・行政に対する授権規範の番人であるべき我が国の司法>の中に、殆ど伝統化していたという意味で初めから<政治権力の牙=ファスケス>が闖入していた疑義があることです。このように悲惨な状況も、突きつめれば、国民一般の主権意識の希薄さと日本の指導層の政治理念的な部分での底なしの怠慢がもたらしたものだと思われます。
(関連参考ツイッター情報)
hanachancause 2010.10.18 17:25
司法・検察批判の必読書⇒元大阪高検公安部長・三井環著『権力に操られる検察』(双葉社)、なぜ検察はかくも乱暴な捜査を繰り返すのか?検察裏ガネ告発で逆に逮捕された三井氏が権力に毒された司法・検察組織の病理を抉る!http://www.keymannet.co.jp/listen/detail.php?id=259
miriko24検察と検察審査会が癒着!これはおかしいでしょう? RT @hatatomoko ?審査補助員・吉田繁實弁護士は、代表選当日の議決の経緯、9月上旬に東京地検特捜副部長から説明を受けたこと、起訴すべきという方針は割と早い段階で決まった、などと毎日新聞
hanachancause 2010.10.18 10:10
【QT】「全国検察審査協会連合会」は単なる親睦団体とは思えない巨大な組織、http://www.asyura2.com/10/senkyo97/msg/719.html
hanachancause 2010.10.18 09:54
RT @kamitori: RT@hanachancause@h_hirano: 第5検審の会議録を公開せよに対して第5検察審査会事務局は「会議録はない」と回答。これが事実なら検察審査会法第28条に違反。この審査会の審査内容の検証もその信用性を担保することもできないことになる
hanachancause 2010.10.17 11:46
【QT】検審法40条で<議決後7日超の掲示遅れは違法>、強制起訴決議は政治資金収支報告書記載が数カ月ずれてたという。ならば、この決議当事者たちは自らが議決後7日間の掲示期間を超えて初掲示した事実につきどう説明するつもりか。説明してみろ!http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/63d2189dc7705f1371abd456665b8c59?fm=rss
hanachancause 2010.10.17 10:46
@kazz0705 この辛坊的プロパガンダ動画はお薦めです -- アドルフ・ヒトラー ナチス党大会終了演説(意志の勝利)http://www.youtube.com/watch?v=duRJE_7IB14
hanachancause 2010.10.16 17:43
RT @kazu1961omi 結局、西松事件も陸山事件も検察の見込捜査の失敗。その失敗を糊塗するtため「政治とカネ」の概念規定が曖昧で便利なキーワードに飛びついたわけ。村木さん事件と基本構図は同じRT@WarszawaExpress 『週刊朝日』山口⇒@kazu1961omi
hanachancause 2010.10.16 14:15
嘘吐きクレタ人のパラドクスRT@jh8bss 本当呆れますQT@4219take@hirorokh第5検審怪事務局は出鱈目平均年令公表。審査員選出不正ごまかす心理作用?一度の嘘を2度訂正したが失敗。疑惑は拡大一途「これも偶然」?http://p.twipple.jp/5R3xM
hanachancause 2010.10.16 14:09
これもウロボロス的自画自賛&マッチポンプ国家の証! RT @tosa_suigei: 検察審査会の所管が最高裁だとすると、起訴する側とそれを裁く側が同じ主体だということにならないか。マッチポンプそのものではないか。デタラメの度がすぎる。http://p.twipple.jp/CUKxq
hanachancause 2010.10.16 14:07
RT @hatatomoko: 検審強制起訴議決は4件。読売によると審査回数は神戸第2検審(明石市歩道橋)7回、神戸第1検審(JR西日本)9回、那覇検審(詐欺)1回。東京第5検審だけ審査回数も非公開。他は公開だから法律の問題ならぬ。東京第5検審事務局は、即刻公開すべき。
hanachancause 2010.10.16 12:41
RT @leonardo1498: 冤罪で人を陥れて出世:事件をでっち上げて出世「検察利権」(週刊朝日 2010年10月15日号 http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20101006-02/1.htm @hanachancause
hanachancause 2010.10.16 12:32
RT @kamitori: 今、河上和夫の天下りを調べたら、いくつもある中に、「遊技産業健全化推進機構」がありました。パチンコ・スロット産業です。そういうところに甘いわけがわかりました。RT @ngc3333: 歴代検事総長が電通に天下りしている。そういうことだったのか。
hanachancause 2010.10.16 10:06
【QT】今の検審会は民主主義を無責任に弄ぶ実効権力の走狗マスゴミの商売道具!【QT】無責任で強大な権力が国を動かすことを専制or独裁という。私たちはトナリの金正日をそういって批判するが秘密で匿名でヤリ放題の検審会はミニジョンイルでないのか。http://www.asyura2.com/10/senkyo97/msg/632.html
hanachancause 2010.10.16 05:15
法務省・高検は火消しに大慌て!⇒【QT】前特捜部長ら懲戒免職へ 証拠改ざんで法務省、今年1月まで大阪地検検事正だった三浦正晴福岡高検検事長らも事情を聴かれており、法務省は監督責任が及ぶ範囲の確定を急いでいる。http://www.47news.jp/CN/201010/CN2010101501000992.html
hanachancause 2010.10.16 05:04
RT @kuruminooya: 小沢一郎への政治資金疑惑は強制捜査をされても何の証拠も出てこないのに疑惑だけが突出してマスコミが騒ぎ立て、彼の政治生命を絶とうとするのも既成権力とマスコミの癒着、司法を握られている怖さを見る事が出来る。
hanachancause 2010.10.15 17:11
@hanachancause 高検リーク記事がメディアを飾る現況では、FD改竄で懲戒解雇された前田被告(元主任検事)の何らかの闇(裏)取引による虚偽供述の可能性が全く排除できない。
hanachancause 2010.10.15 15:46
続【QT/裁判員経験者違憲交換、12日/於、東京地裁で初の意見交換会、10/13日経】●(大阪特捜部の改竄で)●検察側の資料が本物かどうか、今後は信憑性の問題が出てくる(裁判員の属性不詳)
hanachancause 2010.10.15 15:45
続【QT/裁判員経験者意見交換、12日/於、東京地裁で初の意見交換会、10/13日経】●裁判長に最初から量刑の落とし所があった気がした(殺人未遂事件で参加の裁判員男性)続く
【第一部エピローグ動画】Chopin - Valentina Igoshina - Fantasie Impromptu
[http://www.youtube.com/watch?v=qa0Z6g1XJkU:movie]
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK97掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。