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(回答先: 検察審査会による「小沢起訴」とは何か (uedam.com) 投稿者 五月晴郎 日時 2010 年 10 月 16 日 15:07:34)
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警察・特捜の行動原理はどこから出てくるのか?
投稿者:ウエダ 投稿日:2010年10月10日(日)11時26分42秒
こんにちは、皆さん、植田です。
さて、久しぶりに「植草おっかけ」です。
昨日のプログです。
「大阪府警での刑事事件捜査での事情聴取実態の一部が明らかにされた。
大阪府内の30代の会社員が遺失物横領の容疑で大阪府警から任意の取り調べを受けた際、この男性が取り調べ模様を録音していた。警察に録音が気付かれ、消去を求められたが、その一部が機械に残存しており、男性が弁護士を通じて公開に踏み切った。
一般の市民がこの録音テープを聞けば、その内容のすさまじさに驚くだろうが、この録音模様は極めて一般的なものである。」
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-0c3e.html
私には、警察も検察も、戦前の特高も、皆同じ、という感じなのですが、そこから思うには、丸山真男の本富士警察署での殴打事件にしてからが、ばかばかしいほどの国家の凶暴性でした。
故・丸山氏のこの事件を告げるこんなサイトがありました。
http://members3.jcom.home.ne.jp/mm-techo.no_kai/fukusyo/history/2008/contents.html
「1933(昭和8)年4月10日、丸山眞男は本郷仏教青年会館で行われた唯物論研究会創立第2回公開講演会に聴衆の1人として参加、検挙され、本富士警察署に勾留された。後に丸山自身が「いのちの初夜」とよんだ、この体験を綴った「手記」がこのたび確認されました。」
この事件は、戦後の私たちの立場から見ると、実にばかばかしいものです。
唯物論の研究会に見物に行っただけ。
丸山氏は、まだ高校生。
そしてつかまったあと、殴られます。
理由が、ドストエフスキーの小説を読んだことの理由を説明したことでした。
生意気だ、と。
バチーン。
それでもここのばかばかしさには、律令理性人にとっては、深刻で、極度に重要な問題がありました。それは、〈お前は、自分の頭で考えているのだろう〉と。
つまり、戦前の日本人にあっては、自分でモノゴトを考えることは、法律違反でした。日本人は、ひたすら「国体」を信奉せねばなりませんでした。
で、丸山真男の場合は、殴られただけで済みましたが、死に至った人たちのことはよく知られています。『蟹工船』の小林多喜二、とか。
私は、戦後の特捜部や、警察の取り調べも、戦前の延長にあるとみています。
そして、その淵源は、さらに徳川時代の奉行所にある、と。
で、「植草おっかけ」を始めるようになって、ここの部分が気になるようになり、そうすると、自然と今まで気がつかなかったところが目に入ります。司馬遼太郎の『飛ぶが如く』の一節です。
西南戦争の直前。
西郷が、弟子たちが爆薬庫を襲撃したことを知り、山を降ります。
マチに入ると、弟子たちは、明治政府のスパイを捕まえていました。
明治政府のスパイと言っても、元はおなじ薩摩藩士です。
明治維新が成り、初期の改革が行われるにつれて、薩摩藩士たちが政府側と、藩側に分裂します。その代表が、大久保と西郷の対立です。
政府のスパイとして中原尚雄が薩摩藩士たちに捕まりました。中原は、警視庁少警部です。
「この2月3日夜から、凄惨ともなんとも名伏しがたい拷問がはじまった。
容疑者を拷問によって自供させるのは、徳川期の行刑世界が生み出したものであろう。それ以前のことは、よくわからない。すくなくとも徳川体制によって拷問が一般化し、その方法も精密になった。中原が勤務する警視庁もそれを相続している。
大警視川路利良はみずから≪警察手眼≫という長い文章をつくってすべての警官に読ませた中に、『官員は元来公衆の膏血(こうけつ/税金のこと)を以て買われたる物品のごとし』として官権主義よりも公僕主義を明快にしているが、容疑者を市民として扱うまでには至っていない。」『飛ぶが如く・7』P.194
この最後のセンテンスです。
明治時代に警察制度を起こした川路は、フランスの警察制度を見聞し、大いに感激して帰国した人です。「文明を作るのは、警察制度である」というのが川路がフランスで得た確信でした。
しかし、その人にして、容疑者は、犬畜生同然でした。
司馬氏が、川路は人間を2種類に区別していたと言います。
「川路の思想は善悪を固定なものとみる点で、強烈である。凶悪者が固定的である以上、警察はそれを人間としてみるよりも孤狼(ころう)として見、それをしょっぴいてきた場合、悪事を体に問うて吐かせるという拷問もまた当然の手段になってしまう。」P.195
この川路の発想は、薩摩藩士も同じでした。
「のちに中原自身が書いた≪手続書≫によれば、(薩摩藩/鹿児島県の)私学校側の取調係は、中原に、
−汝、口上にて述べられずんば、四肢より打出すべし。
といい、棒をもって半死半生にし、卒倒すると水を飲ませてまた問うた。」P.195
中原が薩摩藩の拷問を受けたのは、1877年のことです。
で、以下は、植草氏が紹介している平成時代の出来事です。
「男性が任意の取り調べを受けたのは大阪府警東署で、男性と男性の弁護団は10月7日、大阪市内で記者会見を行い、同署の警部補(34)と巡査部長(31)を特別公務員暴行陵虐や証拠隠滅容疑などで大阪地検に告訴すると発表した。
記者会見では、男性が録音した取り調べの生々しいやり取りが再生された。以下にその一部を文字にして掲載する。
「お前、警察なめたらあかんぞ、お前」(警部補)
「シランなんかで済まんぞ、お前」(警部補)
「殴るぞ、お前」(警部補)
「手出さへんと思たら大まちがいやぞ、こらあ」(警部補)
「お前、大まちがいやぞ、こらあ」(警部補)
「座れ、こら」(警部補)
「やめてください」(男性)
「わからんのやったらわからんで勝負せいや、警察と」(警部補)
「おまえの家も全部ガサ(捜索)行くぞ」(警部補)
「おまえなめんなよ、こら。だまるな。何か言え。殴るぞ」(警部補)
「お前の人生ムチャクチャにしたるわ!!」(警部補)
「悪いけど、嫌がらせはするで!!(警部補)」
「留置場入ったら分かるんちゃう、報道も喜ぶでこんな話…」(警部補)
どこからこういう警察官の行動原理が出てくるのか?
律令理性から、ということはすでにわかっていますが、これからはもっと具体的にその場所を特定したくなりました。
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