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2010年10月11日(月)
蔓延する「ファスト政治」
世の中に漂う好き嫌いの空気、感情で、いとも簡単に、政治メニューを取り替えさせる。この現状を京都大準教授、佐藤卓己氏はファストフードならぬ「ファスト政治」と呼ぶ。
中央公論の11月号に掲載された、佐藤氏と、東大教授、苅部直氏の対談を興味深く読んだ。
熟慮なき即応即決、輿論ならぬ世論の蔓延。これが「ファスト政治」への処方箋と題されたこの対談の副題である。
十分な議論を尽くした理性的な意見が「輿論」、なんとなく漂う世の中の感情が「世論」。
そして、「世論」調査の結果ばかりを気にしているのが政治の現状といえる。
佐藤「世論調査があたかも擬似国民投票のごとく振る舞い、政治プロセスに組み込まれている。電話口でいきなり質問への即断即決を求められる。まさに、即時の充足を求める政治のファストフード化です」
苅部「ファスト政治の特徴は、政権の決定が世論調査に左右されるだけではなく、その中身に関しても言えそうですね。つまり、これが食べたいと指示するのではなく、このメニューは嫌だから、さっさと取り替えてほしいという、否定形の意見に振れる傾向が顕著になる。そういう世論に支配される限り、建設的な方向にはなかなか行きにくい」
佐藤「今は政治報道が『即時報酬化』している。政治に対して『すぐ結果を出せ』と要求するんですね。報道自体も、とにかく分かりやすく、おもしろくに走り、砂を噛むような現実を伝えて考えさせるという本来の役割をほとんど放棄しています」
早く便利に満足する「即時充足」、つまり「ファスト化」は、先駆けの外食業界、爆発的流行中のファストファッションのみならず、あらゆる分野で見られる現象だが、深慮遠謀を必要とする政治まで、そのトレンドに流されている。
こうした「即時充足」、すなわち手早く満足を得たいという欲望が世の中に蔓延してくると、実際にはそうはいかないものだから、逆に気に入らないことばかりが多くなり、過度のイライラ症候群となって特定の人物を毛嫌いする。
とくに政治家などはその対象になりやすく、嫌っている政治家をテレビがこき下ろしてくれると、溜飲が下がり、つかの間の快楽を得ることができる。
筆者の見るところ、その主なる原因は、テレビメディアの魔力にある。その魔力とは、このメディアの本来的な持ち味である「娯楽性」という、酩酊誘導である。
ほとんどの人にとって、テレビを見るときと休息時は一致している。ぼんやり、楽しく見なけりゃテレビじゃない。一般的に、人間の脳はテレビを見ているとき、あまり働いていないことが知られている。
そうした視聴者の心理や脳の働きにとって、バラエティー番組はきわめて受け入れやすく、視聴率は高くなる。心身はリラックスし、頭は休まり、一種の酩酊状態となって、居眠りしやすくなる。
そこで、不況下の視聴率競争がし烈さを増すテレビメディアは、なりふりかまっていられない。報道番組さえバラエティー化してしまえ、ということになる。
事実を正確に伝える役割を放棄し、誰かを悪者にしてつつきまわす快楽に人々をいざなう。これがほとんどの報道番組に見られる傾向となった。
そのためには、多面的に見るべき複雑な出来事や問題を、単純化し、過大に脚色しなければならず、コメンテーターもそれに合わせて、「即時充足」型の便利屋的有識者を多用する。
テレビに出演することで、俗世間的ステータスや原稿料のアップをねらう学者先生は、賢くも番組制作者の意図を十分汲み取り、有名司会者の案内にそって、酩酊する脳に心地よい、ほとんど無意味なショートフレーズのコメントを巧みに発してゆく。
勉強不足が深刻な政治評論家は、その日の新聞を読めばわかるようなことを繰り返すのみで、独自の視点を提供する人物には、少なくともキー局のテレビ番組ではほとんどお目にかかったことがない。
ちょっとばかり気の利いた大人の意見を言うことができるとしても、テレビでは評価されないので、雑誌の原稿用にとっておこうという魂胆かもしれない。
さて引き続き、佐藤、苅部両氏の対談を続けてもらおう。政治は「非日常」であるというところに、話はおよんでいる。この国に常識として広がる「市民感覚の政治」というタテマエ論についての議論だ。
苅部「世論調査の結果に一喜一憂する政治家を見ていると、企業の社員や大学の教員と同様に、外からの批判にやたら脅える、組織人の心性を強く感じます。普通人の気風に染まってしまった。しかし、本来、政治家はそういう人たちとは違うはずです。『堅気』からはずれたエネルギーを持っているから、社会をひっぱっていくことができる」
佐藤「(憲法を暮らしに生かそうとか、市民感覚の政治だとか)そういう言説が戦後長らく流布され常識になった。そうしたタテマエによって政治と生活の間にある距離が見えなくなってしまった。その結果、一般人には、政治は日常生活で発生する問題を簡単に解決してくれるマシンのようなものとしてしかイメージされないような状況を招いた。当然ながら、政治に対する責任も希薄にならざるを得ない」
苅部「政治は『非日常』の営みです。時間はかかるし、手間もかかる。だからこそ、その仕事を専門として引き受ける政治家が必要とされる。乱暴な言い方をすれば、世論がふらふらと浮動するのは仕方のないこと。しかしだからこそ、そこから距離を置いて、国の将来を見据えるのが政治家だというプロ意識が大切でしょう」
ここで言う「堅気」とは、京極純一氏がその著書「日本の政治」で用いた言葉で、政治家は「堅気」の一般人であってはつとまらないという意味である。真の政治のプロとはそんなものであろう。
政治は、国民が豊かで安全に暮らせるようにする責務を担っているが、政治そのものが、「市民感覚」になってしまっては、衆愚に陥る恐れがある。
耳当たりのいい「市民感覚」「市民目線」、そして最近では「市民感情」までもが、検察審査会議決を報じるマスメディアによって絶対視されつつある。
「市民感情」は「空気」であり「ムード」であって、実体が定まらずに移ろうものである。そういうものに対する議論や反論は「ゼロ」に数をかけるようで、いくらやっても「ゼロ」しか残らない。すなわち責任を取れない相手と争ってもむなしいのである。
しかし、その11人の「市民感情」を、「国民の意思」と強引に読みかえて、「ファスト政治」への期待にこたえようとする、ファスト政治家のいかに多いことか。
自らの安直な言動が、良識ある多くの国民にいかに軽んじられているかを、省みようともしない政治家、そして彼らと飲み仲間のジャーナリストや政治評論家、学者たち。少しは深慮遠謀の「スロー政治」を志向してはどうか。
お茶の間の高感度アップに憂き身をやつしている場合ではあるまい。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)
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