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東京第5検察審査会が小沢元民主党代表に対して「起訴相当」と議決し、物議を醸しているが、重大なことが看過されている。客観的には小沢氏は無罪になる確率が高いが、その場合、誰が責任を取るのか。
小沢氏を有罪視し、議員辞職を迫っている新聞、テレビは、無罪判決が出たら謝罪声明を出し、責任者を処分する覚悟をもって報じているのだろうか。
刑訴法は判決までは推定無罪を原則にしているにもかかわらず、逮捕、起訴の段階であたかも犯罪者のごとく報じられ、社会的な制裁を科されている。
嫌疑をかけられ、捜査対象になっただけで、各メディアから犯罪者扱いされた例も少なくない。
長野サリン事件では妻が被害を受けた河野氏がその犠牲になった。元代議士の新井将経のように自殺に追い込まれた例もある。
最近は、外交絡みの国策的な偏向報道も目に付く。
その典型的な一例が、北朝鮮の家族にリンゲル液を持って行こうとした在日朝鮮人が大量破壊兵器転用の疑いで逮捕され、新聞、テレビで重罪人のように伝えられたことである。
韓国では見られない現象だが、それは「お上」に弱い日本独特の神話の上に立っている。
逮捕、起訴は裁判で百l近く有罪となる。そこから逮捕、起訴=犯罪者との神話が生まれ、逮捕、起訴の段階で事実上、犯罪者として断罪され、事件とは無関係なプライベートなことまで全て暴かれるのである。
しかし、大阪地検特捜部検事による押収資料改竄によりその神話は根底から揺らいでいる。
検察、警察に証言や自白に偏重し、ストーリーに沿って物的裏付けを操作する体質があることを強く示唆している。
足利冤罪事件の菅家氏は目撃証言や自供だけで無期懲役刑を宣告され、18年ぶりに冤罪が晴れたが、類似の事件が他にもあるのではないかと疑うのは当然であろう。
しかるに、東京第5検察審査会の起訴議決はその理由として、何と供述を挙げている。
すなわち、「被疑者を尊敬し、師として仰いでおり、 虚偽の供述をすることはおよそ考え難い」と、秘書3人の捜査段階での供述は信用できるとしているのである。
検察がそれでは公判は維持できないと判断したものであり、新たな補強証拠がない限り有罪に持ち込める可能性は極めて低い。
そもそも供述偏重が問題になっているのに、検審みずから同じ過ちを犯そうとしているのはいかがなものか。
起訴議決に意味があるとしたら、「国民は裁判所によって、ほんとうに無罪なのかそれとも有罪なのかを判断してもらう権利がある」とする部分である。
国民感情としては十分に分かるが、感情論は感情論であり、自ずと自制が必要となる。
それをマスコミがこぞってあたかも有罪であるかのごとく論調を張り、「辞職」を迫るのは、公正たる司法制度を揺るがす言論の暴力ではなかろうか。
無罪の確率が圧倒的に高いことを踏まえて、理性的に対する必要があろう。
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