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ジャーナリスト・岩上安身氏のTwitterより
https://twitter.com/iwakamiyasumi
伊藤次長検事の話。会見を延長して、質問したのは、小沢氏を「起訴相当」と結論した第五検察審査会の議決書のこと。伊藤次長検事は、「コメントする立場にない。すでに完全に検察の手を離れている。強制起訴も指定弁護人のすること」と。
伊藤次長検事は、検察としての結論を、はっきりとこう言い切った。「小沢氏については、捜査の結果、起訴に相当する証拠がなく、不起訴が結論」と。検察が、記者会見でこう述べるのは実は初めてではない(前回は私は入れてもらえてなかったが)。ろくろくマスメディアが報じない、検察の結論。
改めて検察審査会の存在の「異常性」が浮かび上がる。誰が告発人か、不明。誰がメンバーかも、不明。審議の内容も、不明。そんな検察審査会が、「期ズレ」の被疑事実ではなく、「収入」を「犯罪事実」と書き加えて「起訴相当」と議決する。
一人の人間を起訴するという重い判断を下すにあたって、検審は何のリスクも責任も負っていない。こんな無責任な状態のまま、検審が「起訴相当」を乱発すれば、どんな人間でも社会的に抹殺することができる。問題は、実はここ。
議決書をよくよく読み返し、あわせてメディアスクラムを突き合わせると、問題の所在がはっきり見えてくる。議決書のまとめには、検審の基礎となる考えとして、「検察官だけの判断で不起訴と決めるのではなく、本当に有罪か無罪かを裁判所に判断してもらう権利が国民にある」と述べている。
検察が起訴すればほぼ有罪、という社会から、有罪か無罪かは裁判所が判断する社会への移行の提言と読めなくもない。だが、問題は司法手続きや制度がそのように移行するというなら、その背景をなす社会全体も変わらなくてはいけない、という視点がすっぽり抜け落ちていることだ。
今までは、検察の判断がすべてという仕組みの社会。だからこそ、起訴されたとたんに「被告」呼ばわりされ、メディアは「推定無罪」などお構いなしに実質的に罪人扱いし、世間もその判断を受け入れてきた。裁判所の判決が下される前に、社会は先行して制裁を課し、社会的生命を奪ってきたのだ。
もし、今回の第五検察審査会の「まとめ」に書かれているとおり、「疑わしきはとにかく起訴。判断は裁判所が下す」という社会への移行を、本気で受け入れるなら、判決が下されるまで、「被告」は徹底的に保護され、社会的な不利益を被ることが一切ない、という社会全体の仕組み作りが必要である。
もちろん、メディアは判決が出るまで、センセーショナルに事件を報道したり、「推定無罪」であるはずの「被告」に、有罪の印象を与えたりするようなことは、厳に慎しまなければならない。政治家も一国民であり、政治責任を取らされて、離党、議員辞職を勧告するなどもってのほかである。
判決が出て、有罪が確定するまで、いかなる社会的不利益も被ってはならない、というのが、大前提になる。それができないなら、軽々に起訴を乱発すべきではない。実質的には「推定有罪」の社会を背景にしたまま、強行すれば、そのズレによって、有罪未満の人間が次々、社会的死に追いやられる。
今、「小沢一郎」という、至って平凡な名前をもつ人物が追い込まれている事態は、そうした二つの社会制度の谷間に、転落させられ、社会的に抹殺されつつある、という事態である。検審の議決書は裁判所の判断を求めることを「国民の権利」といい、「国民の責任」において白黒つけるのだと書く。
国民として責任を負う? 冗談ではない。私は、責任を負わされる国民の一人として、また、有罪の確定していない人間をマスメディアが事実上抹殺することが可能な社会に生きている一人として、そんな責任を負わされることを断固拒否する。
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