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平成22年9月24日発行
発行人 南丘喜八郎
編集人 坪内隆彦
発行所 株式会社K&Kプレス
TEL 03(5211)0096
FAX03(5211)0097
(転載承諾済)
特集 司法崩壊
司法を崩壊させた特捜検察 本誌主幹 南丘喜八郎
九月八日、最高裁第一小法廷は鈴木宗男衆院外務委員長の上告を棄却した。弁護人は異議申し立てをしたが、近日中に懲役二年の実刑が確定し、鈴木議員は収監されることになる。
同日、鈴木議員は議員会館で行われた記者会見で、捜査段階からの無罪主張を改めて展開、次のように語った。
「密室での取調べ、一方的な調書を金科玉条のごとく最優先する判決だ。真の公正公平はどこにあるのか。いかなる環境にあっても検察権力と闘っていく。青年将校化した検察官が冤罪を生んでいく」 この鈴木議員の検察・裁判所批判に対し、元特捜検事が一斉に反発した。当日から翌日にかけてテレビ各局の番組に、熊崎勝彦元東京地検特捜部長、若狭勝元東京地検特捜副部長など元特捜検事が次々と登場、「鈴木氏の裁判批判は我が国の法秩序を乱すものだ」などと述べ、鈴木議員の裁判批判を口を極めて論断した。
彼らの発言からは「検察こそ正義であり、我が国の法秩序は検察が担っている。裁判批判など言語道断だ」との傲慢な姿勢が見て取れる。
九月十日に無罪判決が下された厚労省村木厚子局長に関わる事件も、特捜検察の「犯罪」とも言える冤罪事件であり、特捜検察の在り方に徹底的なメスを入れなければならない。
彼らの「検察こそ正義」の姿勢・意識こそが、「検察ファッショ」の淵源なのである。
戦前も検察の恣意的な捜査指揮によって、しばしば冤罪事件を惹起し、「検察ファッショ」と厳しく指弾された。
昭和九年、台湾銀行が所有する帝人株をめぐって疑獄事件が起きた。帝人事件である。汚職・背任容疑で大蔵省幹部、台湾銀行幹部、大物政治家などが逮捕起訴された。時の中島久万吉商相、鳩山一郎文相が辞任、斉藤実内閣が倒れた。
しかし、事件は全くの虚構であり、判決文では「水中に月影を掬(きく)せんとする類」と断定、全員無罪であった。
『日本政治裁判史録』(我妻栄監修)の河合良成氏の陳述記録に、当時の取調べ検事の言葉が記されている。
「俺らが天下を革正しなくては、いつまでたっても世の中はきれいにならぬのだ。腐っておらぬのは大学教授と俺らだけだ。大蔵省も腐っている。官吏はもう頼りにならぬ。だから俺は早く検事総長になりたい。そして早く理想を行いたい。気の毒だが君は大したことはなかろうが、これは社会革正の犠牲だ。仕方ない、これによって社会を改良するのだ」
この「検察が社会を革正する」という検事の深層心理が、冤罪事件を生む精神土壌を形成するのだ。
戦後、検察が総力で取り組んだのがロッキード事件である。
伊藤栄樹最高検検事が指揮をとり、東京地検の吉永祐介特捜部副部長を主任検事とし、外為法違反という別件逮捕で田中角栄前首相を起訴に追い込んだ。刑訴法二百四十八条の起訴便宜主義を拡大解釈し、ロッキード社副社長コーチャンらに免責保証を与え、嘱託尋問調書を証拠として採用させた。 布施健検事総長は「コーチャンら米国の証人が日本国内で起訴されることはない」との免責宣命書を裁判所に出した。
嘱託尋問調書は明白な憲法三十七条違反であり、免責宣命書も憲法上、大いに疑念があると、当時の司法関係者が鋭く指摘したが、検察側は「検察は公訴権を独占しているから、公訴権拗棄も問題ない」と、これらの意見を一蹴した。
伊藤栄樹氏は検事総長に就いて「巨悪を眠らせるな」と豪語したが、彼の著書『逐条解説 検察庁法』に、特捜検察の病根が看て取れる。注目すべきは「指揮権」を規定した十四条但し書きの項である。伊藤氏は「指揮権」に関して、法務大臣と検事総長の意見が対立した場合、検事総長のとるべき態度として、次の三点を挙げた。
@不服ながらも法務大臣の指揮に従うか、
A指揮に従わず、自らこれに反する取扱いをし、または、部下検察官に対して法務大臣の指揮に反する指揮をするか、
B官職を辞するか。
伊藤氏は検事総長がいずれの態度をとったとしても、「検察全体の代表者としての検事総長が、政党内閣の代表者としての法務大臣と正面から立ち向かうことにより、いずれの判断が是か非かを、広く国民の批判にさらし、長い目で見た適正な検察権の行使を担保することにあるものと考えられるのである」と記述している。
当時法務大臣だった秦野華氏は伊藤検事総長に対し「公務員法違反の恐れがある。書直すべきだ」と指示したが、結局は修正されることはなかった。
検察庁法第十四条は、検察に対するシビリアンコントロールなのだ。特捜検察は、あたかも「検察官が政治を指揮する」ような状況を呈している。だが、三権分立の観点からすれば、司法権は裁判所であり、検察庁はあくまでも行政の一環に過ぎないのだ。
「検察が我が国の法秩序を担う」との思い上がりが冤罪を生み、国民の司法への信頼を崩壊させたのだ。法の世界では、目的のために適正な法の手続き(デュープロセス)を遵守せねばならない。検察はこのことを肝に銘ずべきだ。
(11頁)
月刊日本編集部ブログ
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