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一般の国民は裁判官を「大岡越前」や「遠山金四郎」と同等だと勘違いしているのではないか。確かに司法試験を通って、法律や判例には異常に詳しいかもしれないが、人間の裏の顔に詳しいかどうかは別の話だ。「供述調書の真偽」「調書の取得方法」「法廷での証言の真偽」を快刀乱麻で「すべてお見通しだ!」とできるかは、疑問符が付くと思うのだが。なにしろ彼らは一般社会経験はほとんどゼロだから、ある意味「ウブ」なのだ。
元大阪高検公安部長の三井環氏の著書『「権力」に操られる検察』(出版:双葉新書)にこんな記述がある。検事生活を30年間おくった人の言葉だ。
(転載開始)
第一章 鈴木宗男事件・検察の筋書きを完璧にするための「添削」作業
・・・・・・裁判官とは、まず第一に検面調書(検察官面前調書)を信用する。これは特捜事件に限らず、どんな事件にも共通して言えることだ。
たとえ検面調書の内容が虚偽であろうと、作り話で塗り固められたインチキであろうと、裁判官は疑いの目をもつことはない。・・・・・・
(転載終わり)
いかがだろうか。被告人が法廷で「それは違う」と言ったとしても、無駄なことだと述べているのだ。裁判官にしても、年間に何件の裁判を抱えているのか分からないが、被告の言葉を疑った上にさらに検察の主張を疑わねばならないとしたら、「勘弁してくれよ、忙しいんだから」と泣きが入るかもしれない。結果として「完璧な調書」を作りうる検察の連勝が続くのだ。
こんな専門バカの独断を防ぐために「裁判員制度」を導入したのだろう。裁判員は小難しい調書よりも、目の前の「証言」を注視する。被告が「嘘を言っていないか」自分の経験を基にして判断するのだ。これは文字で判断する裁判官に欠落していた視点だ。「被告がうまい演技をしていたらどうする」という声もあろうが、検察と裁判官で事務的に進められる「裁判」よりはよっぽどましだ。なによりも検察審査会のような「暴走」がないし。
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