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NY金魚さんの美しいブログにはいつも感心してしまいます。まだご覧になっていない方は、ぜひワンクリックしてみて下さい(↓)。その「NY金魚」に民主代表選についての感想が書かれていました。少し古いですが、美しい写真類は除いて、一応その本文だけを下に貼り付けておきます。小沢一郎は革命家であると言っています。少しシニカルな物言いですが……(呆頭息子)。
NY金魚
http://nyckingyo.exblog.jp/11927280/#11927280_1
風というのは不思議なものだ。空気が動いているだけ、と言われればその通りなのだが、地球灼熱化のまっただ中の真夏を過ぎ、あちこちに秋が忍び寄り、その忍んでくるトップバッターが「秋風」である。9-11の記念式典が終わり、日本の民主党代表選が終わり、ふとその秋風がこころのなかを吹き抜けていけば、灼熱とともに生まれ育った有象無象が次の瞬間、きれいさっぱり、通りの向こうに飛び去ってしまう。
といってもこれは極私的な意味の風であって、政治の世界ではひとつのイヴェントが終わっても過去の怨念をベースにした新たなどろどろが、風とはまったく別の空間をゆっくりゆっくりと流れている。
9月6日付けのニューヨーク・タイムズが、日本の民主党代表選の最中にOpinion記事を掲載した。日本の総理交代の頻度があまりに高いことを批判している。過去20年で14人が交代した。まるでメリーゴーラウンドのようであるというわけだ。今回もし小沢氏が当選したなら、一年間に三人目の首相となりこの回転木馬運動は、ますます加速されるだろうと、危惧をあらわにした。日本の首相は「回転ドア」のようにころころ変わる、という表現もあったが、こちらの方が無機質な日本の政界をより象徴しているかもしれない。
小沢氏の「普天間の日米合意を見直す」意見には当然反論していた。菅も小沢もどっちもどっちなら、菅のまま変わらないほうがいい、と言いたかったのだろうが、このアメリカの思惑通り、代表選には菅総理が圧勝した。
この春からの大河ドラマ「龍馬伝」見たさにNHK海外放送に加入してしまったのが運のつき、民主党代表選の模様も朝方まで起きて見てしまうはめとなり、次の朝はまるで時差ボケ気分で、いったい地球のどこに住んでいるのかわからない体たらくである。まあしかし、ふたりの代表候補の最終弁論が大画面にアップで映され、ビミョーな人格の機微までが映し出されているようで、喰い入るように見てしまった。たった15分ほどの小沢一郎氏の最終弁論は、鬼気迫り、まさにこころを打つ名演説で、それまで態度を保留していた民主党議員のお歴々はきっと小沢氏に流れ、同調するに違いないと確信していた。というのもそのあとの菅総理の言葉が、以前にも増しての無内容、無感動、おそまつに終わったからだ。小沢氏の真似をして「命を賭して」とか言っていたが、総理の椅子以外はなにも賭していないのが明確にばれてしまっている。このふたりの演説を聴いたうえで、菅支持という結論を出したと思われる流動議員たちは、いったい「こころ」などというものをもっているのだろうか。人間の形をしたロボットかアンドロイドに相違ない。これからの政局を追えば歴然としてくると思うが、今回小沢氏を選出できなかったのは、日本にとって百年の痛恨となるだろう。
小沢氏がこの選挙期間中、何度もくり返していたように、もはやこの国に真の民主主義は永遠にやって来ないかもしれない。
菅総理の言説がすべて安物のケータイのピンボケカメラということを、ワザと理解しようとしない側近・官僚・支持議員たちはしょうがないと思うが、弱者である国民、今回の選挙ではその代表である党員・サポーターに気づくひとが少なかったのはどう考えても不思議だった。今までの自民政権がひどすぎたので、政治家そのものにフォーカスしようとするひとがいなくなったのかもしれない。ひとは変わるのである。権力志向の強い政治家はとくに変化しつづけるのである。総理は最後に薬害エイズ時の厚生相時代の話をもち出してきたが、いまのかれとはまったくの別人。いまとなれば、あるいはあの時からすでに権力闘争のみで動いていたともとれる。先日のニュースで、菅総理とHILVウイルスの患者団体との会合の様子が映っていたが、患者団体と並んで座っていた福田衣里子議員の心境は複雑だっただろう。社会的弱者の代表として選ばれたかの女は、そのすぐあと、変節した菅総理を捨て、小沢氏を支持すると発表した。
昨年の衆院選で「国民の生活が第一」という標語に国民の大多数が賛同し、民主党は与党となった。しかし菅総理のことばから、かれがしようとしていることを想像すれば、官僚、経団連に従うのみで、いままで自民党がしてきた、積極策のなにもない景気対策、官僚主導、格差社会の拡大と、はたしてなにかの違いが出てくるのだろうか。
1998年の結党時の民主党の思想は新自由主義であった。規制緩和、市場原理主義、自己責任、という当時の流行思想を基本政策にしたといえる。ところが21世紀に入ると、その新自由主義を小泉政権が「構造改革」の基本政策としてそっくり取り込んでしまい、野党だった民主党は自分たちの政策を模索して右往左往することとなる。
菅直人はいつ新自由主義者に転向してしまったのだろうか。明解な社会民主主義だったはずのかれは、いつのまにか実に漠然とした新自由主義者に君子豹変している。このことにはじめて気づいたとき、僕は深く傷ついた。多分僕だけではなく、実に多くのひとびとがかれの変身にこころに深手を負い、いまだにその傷を引き摺っているのではないだろうか。灼熱の季節に僕が書いたかれへの不信の言葉だけは、どんなに秋の風が強く吹こうがこの手もとに残っている。あえてここで再現することが、僕のかれに対する怨念の終着点である。
菅総理が一見正統な論理でフォーカスしているように見える政策は、ほとんどすべてがボケている。終始一貫しているのは、確実にいまの自分の位置を維持できる方向にいつも実に巧妙に体重を移動することである。視覚の中の未来がフォーカスできないから、まわりの空気だけに反応し、自分のからだを動かすことだけがかれの政治となった。鳩山前内閣が沖縄の米軍基地問題で破綻し、政権をバトンタッチされたとき、突然の消費税値上げを言い出し、世間の注意を基地問題から逸らせた。これは完全に失敗に終わったが、このような唐突さは、すべてのピンボケカメラのもつ宿命である。6月の首班指名の演説を聴いてあきれかえった。ことばの歯切れの悪さから、このひとのアタマがどれだけピンボケか、だれでもが察知できる。この時点でまだ一抹の期待を残していた僕は唖然とした。かれの考えている日本の国の将来の民主制とはいったいどんなものなのか、僕のアタマも完全にボケボケになっていく。
ここまで考えて、日本国の総理でありつづけようとすれば、そのメリーゴーラウンドの頂上にある木馬の騎手から交代したくなければ、ピンボケ写真を撮りつづける以外に方法がない、ということに気がついた。マスコミや経団連・官僚すべてに、この人物は「問題がない」ということをアピールするためには、最初から写真をピンボケに撮ることしかできない。明解な政策を明解な行動力でひっぱるフォーカス抜群の政治家など、この回転木馬に乗る資格もないのだ。歴代の自民党総理の顔を思い浮かべて、だれひとりとして例外のないことに気づく。官僚・政治家・資本家の最大公約数をいつも計算し、それをボケボケにして表現しなければならない。菅総理が再三口にしている「最小不幸」などというふざけたことばも、このような政治家の打算と妥協から生まれた「まごころ」というものをまったく持たないピンボケ言葉である。いったいひとがだれかの人生に対してこんなことを言う資格などあるのだろうか。それも一国の総理がである。
かれの未来への視覚はすべてがボケているから、次の被写体をどれにするかはさほど問題ではないのだ。カメラを撮っている自分が美しく立派にみえればいい。仕事がら、多くのフォトグラファーとつき合っているが、下手な者ほど自分の格好を気にする。ルックスが悪い者ほど革命的な写真を撮る。
総理を、内閣を、できるだけ長くつづけることに必死になり、そのためにピンボケ写真を撮りつづけたとしても、それでも決して長続きしない、できない。なにせ20年間の14人である。その長いあいだ、だれひとりとして総理の器に値する人物がいなかった、ということである。このことは全員の共感をいただけると思う。菅政権が延命したことでメリーゴーラウンドの平均寿命も、あるいはほんの少しだけ延びたことになる。だがしかし党内の亀裂が致命的になり、難問を多々抱え、この政権も非常に短いスパンで終わり、めまぐるしい総理木馬の乗り継ぎは延々とつづくだろう。
過去の14人の騎手のなか、かっこうだけだが明解な意志で、木でできた馬の尻に鞭打ちつづけたのは、前述の初期民主党の思想=新自由主義をパクって「構造改革」という名に変え、欧米追従の行き過ぎた資本主義レースに参加した小泉内閣であることは、皮肉を通り越して滑稽ですらある。結果は国際競争・市場原理記念レースで最後尾のまま落馬、脱落。おまけに持ち馬すべてをアメリカの馬主に乗っとられてしまったという悲劇である。ここまでになっても、馬券を買った日本国民は怒らない。いかに武士道に培われた忍耐の精神ができておることか。そして、もはや馬券の買えない、まったくレースに参加できない国民が猛烈な勢いで急増している。それでもピンボケ木馬・菅号は、落馬してしまった小泉号のまだそのあとを追いかけ「コヨー・コヨー!」と叫びつつ奔る。はて、そんなことで新たな雇用など、どこからやってコヨーか。
ピンボケ写真家総理論の当然の逆説として、現在の小沢一郎氏のような革命のための実力者が総理になることは、いまの日本ではありえないということになる。今回の代表選でのように、マスコミ・検察・経団連・官僚のすべてがこぞってかれを完膚なきまでに蹴落とした、これからもさらに蹴落とそうとしている。
もう一度の逆説を想定すれば、今後小沢氏が総理を目差すチャンスを創ろうとすれば、それは今回のような、国民のための、民主主義のための、誠実な革命家としては成り立たないのかもしれない。この想定はその国の民にとって、実に悲しい、不幸な想定である。なんという歪んだ人間関係。歪んだ政界。
しかしながら、それでもなお、今回代表選の小沢氏による国民にとっての「誠実な」政策論の提起は、将来の日本にとって実に大きな財産として国民一人ひとりのこころのなかに蓄財されたのではないか。どのように、少しでも国民を幸せにできるのか、あのような言葉で語った政治家は、過去の日本にはひとりもいなかった。そんな意味でかれの言葉は、遥か未来かもしれないが、日本に真の民主主義を定着させる礎となるはずだ。
あるいは「政治とカネの問題」で追い込まれたからあんなことを言うしかなかった、と考えるひともいるだろう。それでもかまわないではないか。こころから共感ができることばとは、歴史のなかにもまれにしか生まれることはないのだ。カネのまつわりつかない政治などありえない。今回の菅陣営の小沢降ろしにも、多分信じられないほどのウラ金が動いたと想像する。ふたりのすべての言動が、両極端で、一見してどちらが優れているか判断できるのに、無能の方を選んだ。もうこれは日本の政界のカルマと言い切るしかないではないか。
重さがちがう。人物の大きさがちがう。そしてその人物がメリーゴーラウンドに乗り込んだとき、重さゆえの加速運動がつき、木馬はスムーズに力強く回転をつづけるはずだ。
9-11の前日、ホワイトハウスでオバマ大統領の記者会見があった。ことしになって国民皆保険と金融規制改革を通したものの、11月の中間選挙をまえに経済対策、国際紛争、保守派の台頭、と実にさまざまな問題で苦しんではいるが、抜群の安定感を感じるのは確かだ。アメリカ国内の猛烈な不況から、ドル安を容認し、輸出を拡大する政策は、日本のひとたちにとってはいまは悪魔のような存在かもしれない。
しかしこのような非常時に際しても安定感のある人物がもし日本に現れたとしても、決して首相になることはないのだろう。甚だ論理的ではないが、日本人ならなぜか克明にその理由を理解できる。
大統領に就任してからも、オバマは理念を語りつづけ、その理念が現実のドロドロを少しづつではあるが浄化していく。そういうやり方が、今後の革命であり、政治であると思う。そしてそういうやり方に近い唯一の可能性をもった日本の一政治家が落選した。
もっともこの差には、大統領の回転木馬が、四年間決して止まらずに走ることができるというシステムの問題にも関係していることをつけ加えておく。
本当に有能な指導者に導かれる国の民は幸せなのだろう。しかしかれの乗るメリーゴーラウンドが、実力ゆえに長時間まわりつづけ、かれがそこから降りようとしなければ、独裁者となり、こんどはかれの横暴のために民は苦しむことになる。日本という国はそのような独裁者を創らないために、たえずお互いの足を引っ張り合い、実力のない者、あるいは実力のないふりをする者に政権を預けて、ひとが変わるたび、しょっちゅうメリーゴーラウンドを止めつづけてきたのだろうか。ほかのもう少しだけシンプルに政界が動いている国の民は、そんな日本のことを「コンプリケーテッド!」と言い、新聞におもしろおかしく書きたてる。
時間を超えるメリーゴーラウンドといえば、憶い出すのがレイ・ブラッドベリの傑作ファンタジー小説「何かが道をやってくる」Something Wicked This Way Comes である。
13才のなかよしふたり組ジムとウィルは、ハロウィーンの夜、遠くで響く機関車の音を聞き、夜の街へ飛び出す。なぜかそこに組まれていた大きなカーニバルのテントのなかに、不思議なメリーゴーラウンドがあるのをみつけ、忍び込む。だれかが葬送行進曲を逆にかけながら、回転木馬を逆に回転し、ある男を若がえらせ子供に変えてしまうところを見てしまう。不思議なカーニバル団の謎を解こうとし、少年たちはミス・フォーレ先生を助けながら、魔術師たちとの戦いをはじめる、というわけだ。
このファンタジー小説は80年代にディズニーが映画化したのだが、日本では劇場未公開だそうである。ポーの怪奇物語を連想させる、金魚いちばんのお気に入り作家の小説の方のご一読をお勧めする。レイ・ブラッドベリに関しては、このブログで「火星年代記」と「華氏451」のふたつの作品のエッセイがある。(華氏451を引用した「心のなかの焚書」 は2部に分けて書いた。)
代表選中継のあと、明け方に観た金魚の夢:
新自由主義カーニバルに設置されたメリーゴーラウンドの外側で、蓮舫かあさんが、息子の乗った木馬の回転を我慢して見つづけている。
「ナオト!もういい加減に降りなさい。コインも切れたし、ほらあんなにたくさんお友だちが乗りたくて並んでいるじゃないの!」
ふとふりかえれば、夕焼けに染まる切符売り場のうしろには、民主町立新自由小学校の下級生たちがワンサカ並んでいる。カツヤくん、セイジくん、コーイチローくん、いるわいるわ。頂上の木馬は一台だから、全員ナオトくんが降りるまで辛抱強く待っているのでありました。
蓮舫かあさんは、いつものようにモーレツな早口で、かれらに向かってなぐさめるように言いました。「いま、回転木馬はブラッドベリの小説のように、逆回転をしはじめたから、ナオトはどんどん若くなっているのよ。それにつれてオツムの方もどういうわけかどんどん悪くなって、もうすぐホントの赤ちゃんになってしまうから、そうなったらアタシがひょいとダッコしてしまうからネ。そのかわりアタシもあなたたちのまえに、一周だけ木馬に乗せてネ! オ・ネ・ガ・イ!」。
カーニバルの騒音のなか、メリーゴーラウンドが動くたびに、時間は現在から未来へ、未来から過去へと変わり、魔女や恐竜の徘徊する悪夢のような世界が展開する。(「何かが道をやってくる」紹介文 創元SF文庫)
この小説「何かが道をやってくる」Something Wicked This Way Comes のタイトルは、シェイクスピアのマクベスのなか、魔女のひとりが洞窟のなかでマクベスが近づいてくるのを察知し、 “By the pricking of my thumbs, Something wicked this way comes. Open, locks, whoever knocks.”「親指がぴくぴく動く、なにか悪いものがこっちに近づいて来るな、抜けろ、かんぬき、だれでもいいぞ」からの引用だという。魔性のものが時間を自在に操り人間を翻弄させるフィクションは、ドキドキして実に楽しい。だが現実の社会が、一部のマスコミなどという大妖怪にだまされて、廻りつづけているとすれば、まさに恐怖ディストピア小説の体現でしかない。
若いころに訪ねたインド・コナラクにある太陽神寺院は、建物全体を太陽神の乗る馬車に見立てていて、直径3メートルにも及ぶ車輪が12対ある。そのなかのひとつの車輪は宇宙を流れる大きな時間のシンボルであり、その大きな輪の端のほうのどこかに、きっとわれわれひとりひとりの人生が宿り、輪廻転生をくり返しているのだろう。われわれがいま生きているこの空間にやって来る以前には、大きい車輪の輪郭のほぼ反対側にある宇宙にいて、死というきっかけでまたそちら側に帰っていくのではないか。それは宇宙をまわる巨大なメリーゴーラウンドであり、壮大な曼荼羅図である。
ニューヨーク・タイムズの記事は、日本の政界をメリーゴーラウンドに見立てて茶化したように書かれてはいるが、一億二千万の衆生の人生の頂点にあるはずのこの総理の椅子をめぐる回転木馬が、もとよりだれかひとりの意志で止めたり動かしたりできるわけはない。
真摯な指導者の真摯な政策で、すべての衆生が少しづつでも人間らしく生きることのできる、真の民主社会の実現を、願ってやまない。
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