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尖閣列島近海での巡視船と中国漁船の衝突事件をめぐって、日中の外交関係が緊張している。
外交関係の要諦は「自国の国益を守る」という目標をできるかぎり遠く、広い射程でとらえることである。
日本の場合の「国益」と中国の場合の「国益」理解は深度も射程もずいぶん違う。
そのことを勘案せずに、「同じようなことを考えている」二国が綱の引き合いをしていると考えると、外交交渉は行き詰まる。
日本と中国はこの問題についていくつか「違うこと」を考えている。
それは、言い換えると中国の「国益」と日本の「国益」がゼロサム的な関係ではないレベルが存在するということである。
そこに指をかけて、こじあけるしか外交上のデッドロックを解決する方途はない。
日本と中国の国情の最大の違いは、中国の統治形態が日本に比べるときわめて不安定だということである。
『街場の中国論』にも書いたことだが、中国の為政者は外交上の失敗によって、「トップの交代」にとどまらず、場合によると「政体の交代」の可能性を配慮しなければならない。
14億の国民のうち10%は少数民族であり、チベットやウイグルをはじめとして、どこでも民族自立をめざすナショナリズムの熾火が一定の熱を保っている。
中央政府のハードパワーが落ちれば、あらゆる国境地域で独立運動が起き、場合によっては内戦が始まるというリスクをつねに勘定に入れて中国政府のトップは外交政策を起案し実行している。
日本政府は、そのようなリスクを勘定に入れる必要がない。
菅政権がどれほど外交上の失点を重ねようと、内閣の辞職や国政選挙での与党の惨敗というようなことはありえても、九州や北海道が独立するとか、内戦が始まるとか、戒厳令が布告されるといった事態を想像する必要はない。
外交上の失敗がトップの首のすげ替えに止まらないきわめて深刻な統治上の混乱を招来する可能性のある中国政府と、その心配のない日本政府とでは同一のイシューについて「負けたときに失うもの」が違う。
日中両国では、外交交渉で失敗したときに「失うもの」の大きさが違うということ、これが外交上のデッドロックを乗り越えるための手がかりになる。
中国政府が領有権問題で強硬姿勢をとるのは、外国に領土的に屈服した歴史的事実に対する国民的な屈辱の記憶が生々しいからだ。
1840年の阿片戦争の敗北で巨額の賠償金と香港の割譲を強いられて以来、1949年の中華人民共和国成立まで、100年以上にわたり中国人は外国に領土的に屈服し続けてきた。100年以上、まるで肉食獣に食い散らかされるように、国土を蚕食され、主権を脅かされてきた国民の「領土的トラウマ」がどれほどのものか、私たちは一度彼らの立場になって想像してみる必要がある。
「領土的譲歩」は中国人に「屈辱の100年」を想起させる。
「世界に冠絶する」はずの中華帝国臣民が欧米日の商人たちや兵士たちの下風に立って収奪され、野蛮人のように足蹴にされた100年の経験の精神外傷の深さを私たちは過少評価すべきではない。
領土問題について、中国人は先進国中では「世界最悪の記憶」を有している。
その心理的な脆弱性が中国政府の外交上の「かたくなさ」として現象している。
この心理的な脆弱性はむしろ日中の領土問題における「手がかり」となるだろうと私は思っている。
領土問題について日本政府が中国政府にまず示すべきメッセージは「私たちはあなたたちの統治上のリスクと、心理的な脆弱性を理解している」ということである。
私たちはイーブンな交渉相手として外交のテーブルについているわけではない。
日本はいまのところ軍事力と経済活動のいくつかでは中国に劣るが、それ以外の点では中国より優位に立っている。
圧倒的な優位は「負けしろ」の多さである。
真の国力というのは「勝ち続けることを可能にする資源」の多寡で考量するものではない。
「負けしろ」を以て考量するのである。
どれほど外交内政上の失策を犯しても、どれほど政治的無策が続いても、それでも法治が継続し、内戦が起こらず、テロリスト集団が形成されず、略奪や犯罪が横行しない「民度的余裕」において、日本は世界最高レベルにある。
その意味で、日本は中国に対して(中国以外のどの国に対しても)外交上、圧倒的な優位にあると私は考えている。
外交上、「一手も打ち間違えるわけにはゆかない」という緊張が日本人には求められていない。
かなり打つ手を間違えても、それが統治システムそのものの崩壊の危機にまでゆきつくことはない。
もちろん、その「ゆるさ」のせいで、権謀術数に長けたマキャヴェリストが出てこないという弊はあるが、「凡庸な人間でも外交ができる」という利の方がはるかに大きいと私は思う。
中国政府は領土問題で「一手も打ち間違いができない」というタイトな条件を課せられている。
日本政府はそのような国内事情がない。つまり、日本は尖閣列島の領土問題については「軍事的衝突を含めても解決を急ぐ」ような喫緊の理由がないということである。
中国政府は「領土問題では一歩も譲歩しない」という政府の姿勢を国内的にアピールできれば、とりあえずは外交的得点になる。
さらに強押しして、日中関係がほんとうに破綻に瀕した場合、日本市場において「中国製品ボイコット」が起き、日本の資本や生産拠点の中国大陸から引き上げられた場合の経済的ダメージは中国の方がはるかに大きい。そのことは中国政府も十分に理解しているだろう。
だから、領土問題について、中国政府にはこれ以上「深追い」する気はないと私は見ている。
「深追い」して、華やかだが困難な外交的目標を示した場合、それを履行できなければ、中央政府の威信を低下させることになる。
自分で自分のフリーハンドを制約するような無意味なことは、合理的に考える為政者はしないだろう。
「謝罪と賠償」はおおかたの中国ウオッチャーが見ているように国内向けの(とくに党内保守派に対する)アピールであると私も思う。
かつて胡耀邦は親日的な外交を展開して、革命世代の逆鱗に触れて、その地位を追われた。
温家宝はその胡耀邦の業績を高く評価した論文を半年前に発表したばかりである。
おそらく胡錦濤−温家宝の「親日路線」へのシフトを攻撃しようとする勢力とのあいだの党内権力闘争が今回の「事件」の背後には伏流している。
「親日的」というレッテルを貼られることの政治的意味を胡錦濤−温家宝ラインは胡耀邦の実例から学んでいるはずであるから、「日本には一歩も譲歩しない」というジェスチャーは政権保持のためには掲げざるを得ない。
そのような双方の国内事情についての「理解」の上にしかクールでリアルな外交は構築できないと私は思う。
(南青山コメント)
ここでの議論のポイントは「日本はいまのところ軍事力と経済活動のいくつかでは中国に劣るが、それ以外の点では中国より優位に立っている」という認識だろう。
内田は、日本の中国に対する圧倒的な優位性の起点は「負けしろ」の多さにあるという。
すなわち、「真の国力というのは「勝ち続けることを可能にする資源」の多寡で考量するものではなく、「負けしろ」を以て考量」すべきというのが内田の議論だ。
「負けしろ」とは少々わかりにくいが、すぐに内田は「負けしろ」の多さとはどのようなものか、解説している。
「どれほど外交内政上の失策を犯しても、どれほど政治的無策が続いても、それでも法治が継続し、内戦が起こらず、テロリスト集団が形成されず、略奪や犯罪が横行しない「民度的余裕」において、日本は世界最高レベルにある。」
これが「負けしろの多さ」というわけである。
その点で、「日本は中国に対して(中国以外のどの国に対しても)外交上、圧倒的な優位にある」と内田は主張する。
ここのところが理解できないと、ここでの内田の議論の大半は理解できないだろう。
私は、なんとなくだが(とことん腑に落ちたというわけではないのだが)、内田の議論を理解することができ、その議論に賛成したい。
ものすごく平たく言えば、大人の余裕で中国に対処せよ、敵に塩を贈れ、ということだ。
キャンキャン吠えるのは、だいたい弱い方と決まっている。
領土問題が逆鱗に触れるような思いをする人は、何か精神的トラウマがないかどうか、自分を振り返った方がよいのかもしれない。
もう少し掘り下げて考えてみたい人は、内田の近著「街場の中国論」(ミシマ社)をおすすめしたい。
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