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以下は、「左翼」の小倉利丸さんのブログの記事です。ナショナリストの多い阿修羅の読者の賛同はなかなか得られないかも知れません。しかし国家は縄張りを主張する動物的本性に動かされているようなところがあって、愛国心が冷静な判断を失わせることは歴史が証明しています。私も領海については、ただ自国の領有権を主張するだけでなく、「入会権」のようなものがあってもよいのではないかと考えています。ご一考までに転載します(呆頭息子)。
ブログ - 国家は生存を保障しない
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カテゴリトップ» 戦争、軍隊、国家安全保障
執筆 : toshi 2010-9-26 0:10.
尖閣(中国では釣魚)諸島でおきた中国漁船と日本の海上保安庁の巡視船との接触事件で、日本側に拘束されていた船長が釈放されて、日中間の摩擦は収まる方向に向かいそうだ。この間の日本の報道は、とうてい公正中立とは言い難いものだった。むしろマスメディアが日本の過剰なナショナリズムを煽った。同様のことは中国のメディアにも言えることだ。
当初から日本政府もマスメディアも三つの大前提を置いていた。一つは、尖閣-釣魚諸島は日本の領土であり、沖縄県に属すること、第二に、日本側は冷静で中国側が感情的であること、第三に、日本政府は「領土問題は存在しない」という立場をとったこと、である。ぼくは、この三つの前提を置いたことで、問題は非常にこじれたと思っている。尖閣-釣魚の領有権問題は長年の日本、中国、台湾の間にあるやっかいな領土問題であることは、政府関係者の間ではよく知られているにもかかわらず、日本の領土であって「領土問題はない」という態度で臨んだ日本政府が、船員と船長の逮捕拘留という強硬な措置をとってしまったことに外交上の明らかな失敗があった。領土問題があり、極めて複雑な政治的な問題をはらんでいること、中国がかかえる領土問題は、東南アジア諸国との間にもあり、また、チベットの自治権をめぐる問題など、他に波及する恐れのある幾つもの領土問題があることを考慮すれば、中国側が尖閣-釣魚諸島で妥協する余地はないだろうことは容易に想像できたはずだ。強制送還にしなかったのはなぜなのか。むしろ外交での日本政府の見通しの甘さがあったのではないか。
日本政府の今回の対応の失敗がもたらした最大の副作用は、日中両国の排外主義的なナショナリズムを大いに鼓舞してしまったことだろう。このナショナリズムの扇動にもっとも大きな役割を担ったのがマスメディアだ。NHKは、この事件のニュースに際して「沖縄県の尖閣諸島の日本の領海で」という言い回しを繰り返し使ってきたし、ほとんどすべての日本のマスコミは、、NHKのように「日本の領海で」という言い回しはしないまでも、「沖縄県の尖閣諸島」と表記してきた。尖閣-釣魚が日本の領土であることを当然とみなした日本のマスメディアは、この事件がおきた当初にはほとんど中国側のこの海域へ主張を紹介してこなかったから、多くの人々は、日本の領海に侵犯してきた外国船の逮捕はけしからん、という中国の主張を理解できず、ただ理不尽で我侭としてしか理解できなかったに違いない。テレビのワイドショーではキャスターもふくめて極めて感情な態度が目立った。理不尽な中国による感情的な反発と領海を侵犯された日本の適切で冷静な法に則った対応が対比されるばかりだった。中国側では、この日本とは正反対の状況があったことは言うまでもない。
だから、船長の釈放という事態になると、その理由がうまく説明できず,中国に屈服したかのような印象として受け取られ、このことがますます日本のメディアと大衆のナショナリズムの感情を煽ってしまった。今後、日本政府も中国政府もますます自国民の排外主義的なナショナリズムに影響される危険性を孕んでしまった。この危険の代償は、過剰なナショナリズムの渦中に置かれた大衆自身に跳ね返ってくる。
国境の問題は、国家が主権を及ぼすことができる空間を確定する問題だから、国家権力の統治の根本に関わるものと見做される。国境を巡る紛争は、双方が領有権を主張して譲らない限り、決着は武力によるしかないところに追い込まれ、地域の安定を大きく損なう危険性がつきまとう。同時に、国境=領土の所有を巡る問題は、双方のナショナリズムを煽るために、妥協や弱腰は政権の正統性を揺がしかねない 厄介な問題になる。とりわけ、大衆民主主義の時代には、相手の主張の合理的な根拠を冷静に見据えることが出来ない大衆の誤解を政府や知識人が扇動しがちであり、またこうした傾向を正すにはそれ相当の勇気を必要とするような抑圧的で自主規制的な言論環境が生み出され、熱狂する大衆への迎合が暴走しがちだ。
こうした大衆の誤解を生み出している原因の一つには、マスメディアの大衆に迎合した報道姿勢がある。中国の大衆に迎合しても視聴率が稼げるはずがないのは明らかだから、おのずと、公平中立などはかなぐり捨てて、日本の味方を演じることになる。今回のマスメディアの態度は、まるで国際的なスポーツの試合で日本の選手を応援するマスメディアの一方的な態度とそっくりなほど、日本の主張を絶対的に正しいものとする極端な主張が目立ち、その結果、中立的な報道の位置すら取ることができなかったのは、商業メディアであれば当然のことなのだ。NHKは、これまた公共放送とはとうてい言い難く、国益を代弁する国営放送そのものの態度をとった。このようなマスメディアの態度は今回が初めてではなく、イラク戦争の際の米国=国際社会という図式でイラク戦争をあたかも世界中の国々が支持しているかのような報道をしてきたことや、日本の軍事力や在日米軍の軍事力との公平な比較をすることもなく、経済的な窮乏に喘ぐ北朝鮮を過剰に脅威と見做すなど、この間のマスメディアが取ってきた態度の延長にあることは確かだ。こうした日本のマスメディアの態度をみると、日本がまさに日米同盟のもと「テロとの戦争」の当事者であることを改めて思い知らされる。(っていうことは、日本は戦時体勢にあるということでもある)
人類は200万年にわたって、地球上を移動してきた。国境がこうした移動を妨げるようになったのは、近代国民国家が誕生してからだ。アフリカ諸国の国境をみればわかるように、その人工的な境界は植民地主義の産物であると同時に、多くの犠牲がこの人工的な境界が存在するが故にうみだされてもきたし、境界の向こうとこちらとを分け隔てるのは、地理的な場所としての隔たりだけではなく、心理的な自己と他者の排他的な区別と差別や、不可解だったり脅威だったり、時にはエキゾチックですらある(米国にとってのメキシコのように)ために、容易に敵としての虚像が作りあげられやすい。しかし、こうした国境による自他の区別を絶対視する国家の視点を僕たちは決して内面化してはならないと思うのだ。
尖閣-釣魚諸島の周辺の海は豊かな漁場のようだから、漁民にとっては、他国の領海となって締め出されるのは死活問題だろうと推測できる。もし、そうであるなら、どこかの国が領土、領海として占有するよりも、どこの国も領土、領海とせず、この海域での漁で生計を成り立たせている人々が自由に共有できる場所となるのが最も好ましいに違いない。誰も所有しないことがむしろ、紛争をもたらさない解決であるということは、これまでの人類の歴史のなかでごく普通に見られた生存のための資源をめぐる紛争を回避する知恵だったと思う。近代国家はこうした生存のための無所有の配慮を自己の権力のために排除し、国家が生存を保障すると称して力による他者の排除を正当化してきた。無所有は、無所有の対象への人々の直接的な関与を生み出し、国家のような当事者の外に立つ権力を不要なものにする。だから、国家の形成は、無所有に基づく当事者の自治を国家への敵対とみなし、国家の法を彼らに押しつける。世界中の先住民族が近代国家や植民地形成に伴なって、根絶やしにされようとしたのは、無所有に基づく自治が近代国家の権力による空間支配の排他的な独占と真っ向から対立したからだ。
国境や領土は、排除すべき他者とその内部に住まうことが許される者を国家の観点から分類するものである以上、暴力と他者への誤った偏見や敵意の感情を生み出すのみで、人々の生存を脅かすことはあっても、生存の保障となることはない。国家は人々の生存を保障する制度としては極めて未熟で脆弱であり、むしろ敵対的ですらあるということを自覚する必要がある。近代国家だけが統治の唯一絶対の制度ではない。もういい加減にまったく別の統治の仕組みを構想してもいいはずだ。
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