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サンデルの流行と小沢一郎の進化 − コミュニタリアニズムの季節(世に倦む日々)
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サンデルと小沢一郎_1
読書の秋。先週末(9/17)、神保町の三省堂に立ち寄ったら、4階売場でサンデルの特集コーナーを設置していた。コミュニタリアンのサンデルが売れている。サンデル・ブームに合わせて週刊東洋経済が8/14-21号で『実践的「哲学」入門』の特集を発行していて、サラリーマン向けにお盆休みに読むようにと、哲学・思想書20冊を並べている(P.61-65)。この20冊の中には、なぜかロールズが含まれてなくて首を傾げるが、三省堂の4階にはロールズとフリードマンの関係の本が多く並べられ、センもあった。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』もある。ディスプレイそのものが勉強になる。東洋経済は一般ビジネスマン向けの推薦だが、神田三省堂本店はもう少しレベルが高い。
敢えて言えば、知識人向けのプレゼンテーションとアソ−トメントだ。今から話題の『これからの「正義」の話をしよう』を読むが、サンデル・ブームについては二つの感想を持っている。一つは、米国社会一般の潮流と関心がコミュニタリアリズムに傾いた状況についての歓迎の気分と、もう一つは、また15年前頃と同じように米国の「政治哲学」の言葉で政治や思想を語り始めるのかという流行に対する嫌悪の感覚である。15年ほど前、リベラリズム(ロールズ)が大流行で、ネオリベラリズム(フリードマン)、リバタリアニズム(ノージック)、コミュニタリアニズム(サンデル)と対比して喋々した軽薄な思想論議が日本の論壇を賑わせた一幕があった。
サンデルと小沢一郎_2
脱構築主義の一世風靡の後のアカデミーと出版業界の小銭稼ぎのビジネスだった。しかし、ブームは単に出版業界の金儲けに止まらず、冷戦後とバブル崩壊後の日本の政治世界にも少なからず影響を及ぼしていて、具体的には、民主党の結党の原点に思想的な正統性の根拠を与えている。民主党の綱領的文書である1998 年の「基本政策」には、「自己責任と自由意思を前提とした市場原理を貫徹すること」という表現があり、「経済的規制は原則廃止する」と謳われている。リベラリズム全盛の時代の新党の綱領であり、菅直人の「第三の道」もこの出発点に根ざしている。菅直人の「第三の道」を上の政治思想のカテゴリーで言い換えれば、ネオリベラリズムでもなくコミュニタリアンでもなく、中道のリベラリズムだという路線認識になるだろう。この時期、日本の政治の世界で「リベラル」の概念が変容した。変容したと言うより、別の意味が含まれて曖昧になったと言うべきだろうか。従来、戦後日本の政治世界で「リベラル」と言えば、タカ派に対するハト派の意味で、具体的には宏池会であり、宮沢喜一や河野洋平や加藤紘一の流れを指す。宇都宮徳馬や鯨岡兵輔もいた。護憲派でケインズ主義。岸信介や中曽根康弘との対立軸を形成する。この時期から、リベラリズムはロールズ的範疇となり、宮沢喜一的な意味が薄くなり、ケインズ主義の中身がなくなった。ケインズ主義の退潮であり、経済政策の思想では「個人の自立」がキーワードになった。
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このことの意味は、日本の政治が米国の政治の言語と言説で語られるようになったということだ。日本独自の歴史的経緯を踏まえた範疇ではなく、ダイレクトに、ストレートに、米国と同じ環境世界として日本の政治現象が定義され、議論されなくてはならない時代になった。日本と米国は全く歴史と文化が異なり、社会構造が異質な国であり、米国の風土で開発されてきた概念でそのまま日本の政治を説明することはできないし、そこには留保や前提の注意が必要なのに、それを無視して、一方的に米国の言葉で日本の政治を規定するようになった。リベラリズムとコミュニタリアニズムで説明するようになった。米国の政治哲学を普遍的な尺度として、その尺度に合わせて日本の政治を改造しようとする風潮が支配的になった。それは、日本人が戦後日本で試行錯誤してきた民主主義の積み重ねを否定するものであり、「政治改革」で一気に止揚して、焼け野原にした後に構築した世界だったと言える。中選挙区制を廃止し、田中角栄的な手法と再分配を否定し、同時に社会党や共産党の存在意義を否定した。日本の90年代はそういう時期で、その「政治改革」の旗頭が民主党で、「政治改革」とは日本の政治の米国化(英国化)である。山口二郎は英国化しようとしたが、民主党の連中の意図は米国化で、米国の民主党こそがモデルで、自民党を共和党に擬えたのである。政治を米国化するのだから、経済も社会も米国化するのが彼らにとって当然で、いま、その延長線上にある。
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米国流のリベラリズム、すなわちロールズのリベラリズムは、宮沢喜一のケインズ主義とは全く違う。「自立」と「自己責任」の世界であり、経済政策の中身はネオリベラルにきわめて近い。ケインズとネオリベの対立軸で整理配置したとき、リベラリズムはむしろネオリベの側に近く、ケインズに近いのがコミュニタリアニズムと言える。日本の政治を米国化する「政治改革」において、それを左(転向組)から牽引したのは菅直人と江田五月だったが、右(保守組)から主導したのは小沢一郎だった。小沢一郎の90年代は、実に日本の政治を米国化する一挙一動であり、小沢一郎のスローガン上の志向こそ、まさに「自立」の社会だったと言える。作った政党の名前は自由党。結局、それは、社会主義が理念として廃れた後の日本で、リベラリズムが理念を提供する言葉として魅力的に見え、その看板(シンボル)を政治家たちが奪い合い競い合っていた図と言える。そこで、非常に興味深いと思われるのが、今回の小沢一郎の立ち位置で、地方を重視し、地域社会の共生の思想を強く訴えていた点である。直感したのは、小沢一郎がコミュニタリアニズムの方向に舵を切っているのではないかという問題だった。小沢一郎は、おそらく日本で最も早くリベラリズム(ロールズ)の方向を大義として打ち出し、民主党の連中がリベラリズムに邁進している頃、コミュニタリアニズム(サンデル)に転換しているのだ。時代の流れを機敏に読んで、最もトレンドな米国の政治思想を自分の政策哲学に据えているのである。
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東洋経済の特集号の中に橋本努(北大)の記事があり、リベラリズムとリバタリアニズムとコミュニタリアリズムの思想的特徴を整理し、15の政策テーマについて、それぞれの立場がどのような主張をし、他の立場とどう異なっているかを腑分けして説明している。この説明を読むと、菅直人がリベラリズムで小沢一郎がコミュニタリアリズムの立場に立っている事実が鮮明に浮かび上がる。無論、記事の中にはそうした問題意識はなく、橋本努がリベラリズムを菅直人に、コミュニタリアリズムを小沢一郎に振り当てているわけではないし、どうやら橋本努自身がリ反小沢の気配があり、小沢一郎の評価に繋がる効果を導く内容は書いていないわけだが、政策の相違を概念化すると、こうした説明がきわめて適合的に当て嵌るのである。例えば、労組という中間団体を重視する点がある。また、今度の代表選で小沢一郎が最も強く訴えたのが一括交付金で、財源と権限を地方に移譲せよという話だったが、これは、ナショナル・ミニマムを危うくする道州制(新自由主義)に繋がる危険を孕みつつ、同時に、地域コミュニティを政治単位として重視する考え方で、コミュニタリアニズムによるリベラリズム批判の眼目となる点だ。どうやら小沢一郎は、この政策主張を思想的枠組みの問題として意識的にやっている。つまり、菅直人との対立をリベラリズム対コミュニタリアニズムの対立として演出し訴求している。何故なら、トレンドはコミュニタリアリズムの方にあるからだ。そして、昔からの自由党の同志には、「自立」の思想から動いていないとも言っている。
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結論として言えば、この橋本努の図式化は成功しておらず、整理が支離滅裂で、明確な政策対立を概念化できていない。橋本努が恣意的な解説で無理に牽強付会しているのがわかる。リベラリズムとコミュニタリアニズムの言葉を現実政治に適用して通用させたいという欲望だけが透けて見える。リベラリズムもコミュニタリアニズムも、基本的に資本と労働という対立を隠蔽する政治概念であり、言葉で尤もらしいイメージを提供して、現実政治に社会民主主義的な契機や勢力を出させないようにするためのものだ。日本の政治を米国化するイデオロギーである。本質的な対立や支配の構図を照射せず、別の情景を投影して納得させている。格差や貧困を社会悪として否定する意識がなく、それを自然現象のように捉え、その必然性をむしろ理屈で合理化しようとする。米国の政治哲学には、弱者の立場に依拠して社会を改造するという視点がない。移民の国であり、自由の国であり、進化論(適者生存)的な国家原理の社会だからだ。米国はそれでいい。それが建国と社会形成の原点だろう。だが、独自の伝統と所与のある日本はそれでいいのか。日本の学者たちは流行で商売して出世するしかないから、サンデル先生のブームに便乗して、日本の現実政治をリベラリズムとコミュニタリアリズムの二分類(加えてリバタリアニズムの三分類)で説明し、疑似的な説得力を得ようとする。そして、その理論は一過性のもので、少し経てば忘れられ、また少し経てば思い出される。哲学にならない言葉遊び。
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手元に勁草書房の『ロールズ』(クカサス・ペティット)があり、私はこの本でロールズの正義論について囓ったが、出版されたのは1996年だ。14年も昔である。そして、本の中には、サンデルによるロールズ批判が1章を割いて詳しく論述されている。今、論壇を賑わせ、巷で人気となっているサンデルのロールズ批判(リベラリズム批判)は、15年前にはすでに提出されて、アカデミーの中で位置を占めていた。要するに脇役だったのであり、脇役が主役になったのだ。コミュニタリアンとして呼ばれていた当時のサンデルは、明らかに脇役であり、主役であるロールズの左側に位置する小さな存在だった。左側と言うことは、右側があったのであり、ネオリベ(リバタリアニズム)のハイエクとフリードマンの存在が大きかったということになる。簡単に言えば、サンデルが政治哲学の主役に就いたということは、ネオリベの存在感がぐっと小さくなり、その政治思想の説得力が米国で足場を失っている現実が反映されている。どうやら、サンデルが正統になり、ロールズが異端になりつつある。という図式を前提に日本の政治を眺めると、小沢一郎の地域主義や鳩山由紀夫の友愛路線はまさにコミュニタリアニズムであり、米国のトンンドを看板にしたものである。15年前の当時、サンデルの概説書とかサンデルの入門書はなかった。サンデルは常にロールズを説明する本の中に脇役で登場していた。例えば、この時期に刊行していた講談社の『現代思想の冒険者たち』もそうだ。第23巻に川本隆史の『ロールズ』があるが、サンデルは全30巻の中に独立して入っていない。
今なら考えられないことだろう。小沢一郎というのは、実に進化する政治家で、最新の政治思想のトレンドを内側に摂取して、絶えず実像を変容させていることがわかる。それは、過去の自己の否定ではなく、言わば積み重ねである。小沢一郎の政治生命の長さの秘密は、こういうところにもあるのだろう。
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