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2010年09月18日(土) 21時38分59秒
江戸城跡で考えたこと
本日より、皇居の三の丸尚蔵館で開かれている「皇室の文庫」展 は、ずっと楽しみにしていて、早速初日の午前中に見に行ってきた。
皇室が所有する、日本史を彩る超一級の資料が初めて公開される。
日本書紀、古今和歌集などの古代の文献から、五箇条の御誓文、坂本龍馬直筆の薩長同盟を保証する裏書などなど。
保存状態も素晴らしく、とにかく、もう、感嘆の連続であった。
私が個人的に、見入ってしまったのは、仁徳天皇陵から出土した勾玉と、小玉で出来た首飾りである。
実際に、4世紀、5世紀の人たちが、この美しい首飾りをつけていたのかと思うと、なんともいえぬ歴史のロマンを感じる。
日本という国は、なんて素晴らしい歴史と文化をもった国なのかと、感無量な思いであった。
しかし、一方で、有名な大日本帝国憲法を、明治天皇から、時の総理大臣である黒田清隆に授ける絵画を見ていて考えたことだが、
間違いなく、この頃の日本は、自分の国のことを自分で決めることができた独立した国だったんだろうなと。
それに引き換え、2010年の今の日本は、当時の日本人たちが、絶対に避けたかったか外国からの支配を間接的にしろ、唯々諾々と聞いてしまうような国になってしまったと。
この場にいる伊藤博文も、黒田清隆も、山県有朋も、誰一人として、まさか、2010年の日本が、ペリーの国、アメリカに間接統治を受けるような事態には、予想だにしなかったんだろうなと。
そんなことも考えていた。
さて、恥ずかしながらであるが、私は皇居がこのように一般に開放されているということを知らなかった。
てっきり、ジョギングをしてい人たちがたくさんいる皇居前広場ぐらいのものだと思っていた。
だから、まさか江戸城跡をこの目で見ることができるとは思ってもおらず、生まれて初めて、私は今日、江戸城跡を訪れることになったのである。
しかし、この目で見た江戸城跡は、風情もないアスファルトと、だだっ広い芝生が広がるぐらいで、まさか、ここが徳川幕府の中心だったとは思えないほどに、跡形もなく変わっていた。
「夏草や兵どもが夢の跡」
芭蕉の句にあるような、そんな思いである。
だが確かに、この土地に、徳川家康は江戸城を築き、家光や、吉宗が政務を行い、そしてあの大奥もあったのである。赤穂浪士の討ち入りの原因となった松の廊下での刃傷沙汰もここであったはずなのだ。
なんとも言えぬロマンと、寂しさと、歴史への敬意と、さまざまな感情が複雑に入り混じる思いであった。
さて、もうひとつ私が感じたこととしては、なぜ、日本の文化そのものともいえる天皇家が、今は東京にいらっしゃるのかということ。
以前、亀井静香・国民新党代表は、昨年の天皇誕生日に陛下と食事をご一緒にした際のエピソードを次のように記者団に明かしている。
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「私は恐れ多くも陛下に申し上げた。『権力の象徴だった江戸城にお住まいになられるのでなく、京都か、あるいは(亀井氏の地元の)広島に』と口が滑って言ってしまった」
「陛下は『京都、好きです』とは言っておられた。幕府の権力の象徴のお城の跡に、入られたのが間違いだった。その後の歴史が陛下の政治利用みたいな形になっていった」
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まさに同感である。
私は関西出身で、京都に隣接する高槻に住んでいたから、あの京都御苑の美しさ、京都の町の美しさもよく知っているし、そこにお住まいになられていた天皇家が、なぜ、徳川幕府の住まいであった江戸城に入られて、お住まいにならねばならなくなったのか。
武家の居城であった土地に天皇家がお住まいになられていることが、天皇家1800年の歴史においても、異例のことであり、権力に利用されることを避けていくためにも、京都にお戻りになられることが大事なのではないか、そういうことを考えていた。
もちろん、平安京から江戸に遷都を行い、名前を「東京」に改めたことは、倒幕直後の政治を安定させるという目的があった。しかし、天皇家が東京に移られてしまったがために、常に権力に利用される傾向が強まった。
最初は薩長にその権威を利用され、次に官僚と軍部に利用され、そして太平洋戦争の敗北後は、官僚とアメリカに利用され続けているわけである。
皇居のだだっ広い土地の中には、宮内庁をはじめ、その権威に群がる役人がたくさんいて、叙勲対象の半数以上が役人で占められている実態を見てもわかるとおり、官僚こそが天皇家の権威を利用している。
それでいて、ご高齢の陛下はあいかわらずの忙しい公務をこなされ、皇太子家は雅子妃殿下が心を閉ざされるまでに悩まれてしまい、今度は愛子内親王が、週刊誌に叩かれるといった現状がある。
やはり今の状況は、異常ではないか、そういう思いが消えない。
さて、江戸城で私はふと考えたのだか、私たちは今の国難を乗り越えるにあたって、「明治維新の精神に戻ろう」として、過去の偉人たちがどのような活躍をしたか、ということを振り返る。
しかし、よくよく考えてみれば、今、私たちが直面している転換期は、1945年の太平洋戦争の敗戦を超えて、もっと大きな転換点にいるのではないか。
これは200年に一度ぐらいの転換期である。
だからこそ、もっと根本的な変化を時代は求めているのではないかと、そこを考えるに至ったのだ。
平安京での貴族政治が約300年、鎌倉から室町へと続く第一次武家政治が約250年、戦国の混乱期が約150年、江戸幕府での第二次武家政治が約250年、そして明治から現代に続く官僚政治が約150年。
時代認識でいくと、私たちは今や官僚政治から民主政治に変えようという大転換期にいて、それゆえに、この歴史的な変化は、一度や、二度の政権交代で成し遂げられるものではなく、10年、20年の時間をかけて、変わっていくものではないかと。
実際、過去の歴史的な転換期を振り返っても、何度も揺らぎを経験して、そして変わってきた。
たとえば武家政治から官僚政治への移行にあたっても、ペリー来航からはじまって、安政の大獄、大政奉還、西南戦争、自由民権運動と、何度もゆらぎを繰り返して、時代は変わってきたのである。
そう考えてくると、仙谷よる小沢派の弾圧は、開国後に尊皇攘夷を唱えた一派に対しての安政の大獄のようなものかもしれない。
西郷隆盛は入水自殺を図るも、生きながらえて、そして薩長同盟、戊辰戦争へと突き進むが、今起きている検察やマスコミの暴走、アメリカの内政干渉も、歴史の大局に立って考えると、既得権益からの反撃である。
しかしながら、この大きな歴史のうねりは、変えることはできないだろう。
さて、大きな歴史の転換期においては、人心の一新、政治の刷新が必要である。
その方法としては、基本方針の改正(憲法の改正)もだが、遷都が有効的である。
秀吉の大坂から、家康が「江戸」に幕府を開き、政治の中心を移したことに意味があるし、また、明治天皇が京都から「東京」にお移りになったことにも、刷新を図る効果があった。
もっと昔まで遡ると、平城京から平安京への遷都の目的も、奈良に根付いた貴族や仏教僧の既得権を断ち切るためだったという。
やはり官僚を中心とした中央集権国家の形を変えるためには、あまりにも東京は官僚利権でがんじがらめの都市となっているから、いっそのこと遷都を真剣に検討するぐらいでないと、このしがらみを断ち切ることはできないだろう。
その際、天皇家には京都にお戻りをいただければいい。権力が天皇家を利用しようとすることもなくなる。
新しい都市を、遷都を行って拓くことにより、日本は21世紀の展望が開けていくのではないか。
今、日本はまさに深刻な国難にある。政治の低迷、民度の低下もさることながら、根本的な衰退の原因としては深刻な少子高齢化である。
日本の人口が減り続けることは、それはそのまま国力の減退を意味する。
また、日本は他のアジア諸国に先駆けて19世紀には近代化に成功したため、あちこちに制度疲労を起こしてしまい、国全体がまるで「老人国家」「金属疲労国家」になってしまっている。
私たちは、21世紀にふさわしい民主政治を実現していくことで、この閉塞感をぶち壊し、新しい成長戦略をつくっていかなければならないのだ。
そして、もうひとつ歴史認識として、重要な役割を果たすのが、「インターネット」であろう。
これはヨーロッパが近代化を果たしていくうえで、活版印刷の開発が、重要な役割を果たしたわけだが、21世紀の今はその役割を担うのが、「インターネット」であり、民主政治を推進するうえで重要な役割を果たすことになる。
今に生きる私たちは、歴史的転換期の重要性をしっかり認識する必要がある。
そして、単に「明治維新」に戻ろうとするのではなく、もっと大きな転換期に現代の日本はあるのであり、その成功には時間がかかるかもしれないが、必ず民主政治という形で、成し遂げるのだという強い意志を持ち続けなければならない。
既得権益層と、国民主権派との、戦いの火蓋はまだ切って落とされたばかりだ。
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