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民主党の2大潮流が激突した代表選が9月14日に実施され、首相の菅直人が前幹事長の小沢一郎を大差で破って再選を果たした。選挙前には、結果のいかんを問わず挙党態勢を貫くとしていた両者だったが、その行方にはすでに暗雲が漂い始めている。(文/政治コラムニスト、後藤謙次)
「お約束したとおりノーサイドで、党全員が力を発揮できる挙党態勢で頑張り抜く」
9月14日午後3時40分過ぎ、民主党最大の実力者、小沢一郎との激闘を制した首相の菅直人は、小沢と同じ壇上に並び勝利宣言を行った。
しかし、菅が声高に叫んだ「挙党態勢」には早くも疑問符が付いている。それほど2週間にわたる代表選を通じて生じた亀裂は、あまりに大きく深かった。
代表選に備えて菅陣営は、東京・紀尾井町のホテルニューオータニ13階、同ホテルで2番目に大きなスイートルームに選対本部を構えた。
ただし、選対に詰めたベテラン秘書によると、陣営に張り詰めた空気はなく、ビールを飲みながら仕事をするスタッフもいたという。「小沢陣営が体育会ならこちらはサークルのようなものでした」と振り返った。
そんな菅陣営の13日午前における情勢分析は、次のようなものだった。
「議員票は190前後で拮抗、5人くらいは負けている。残りの全部が小沢に行くとは考えにくいため、大きく差がついたとしても10人程度。よほどのことがない限り総合ポイントで逃げ切れる」
さらに夜になって、状況が好転する。
「小沢支持からこちらに変わった1年生議員が7〜8人いる」
結局、これがそのまま代表選の結果になって表れた。
最終結果は菅の圧勝。劣勢が伝えられていた国会議員票でも、小沢の200票に対し、菅は206票としのいだ。また、党員・サポーター票、さらには地方議員票でも勝ち、総合ポイントは小沢に230ポイントという大差をつけて破った。
「人事をエサにした露骨な切り崩しがあった。それが証拠に入閣適齢期のベテラン組はみんな菅に流れた」と“人事手形”の乱発に、小沢陣営は激しく反発した。ある小沢側近の1人は、「手品のタネが多く、手品師も多い」と現職首相の壁をあらためて実感したと話す。
むろん菅陣営も、「小沢陣営のほうこそなりふり構わぬ多数派工作を展開した」と批判する。
小沢陣営の拠点は東京・六本木のANAインターコンチネンタルホテル。6階にあるミーティングルーム全室を借り切り、若手議員や秘書が電話攻勢をかけた。そのかけ方、順番も見事に統制が取れていた。議員への説得、勧誘も小沢仕込みだった。
「山岡(賢次)さんが来たら、間髪入れずに松木(謙公)さんが来る。波状的に説得されると逃げるに逃げられない」
国会議員の後援会幹部、支持団体への圧力。小沢が自民党時代から体で覚えた「田中軍団方式」がいかんなく発揮された。こうした積み重ねによって小沢陣営は、次第に自信を深めていった。
小沢自身も側近につぶやいた。
「国会議員を信じている」
小沢は党員・サポーター票と地方議員票では及ばなくても、国会議員票では菅を上回ることを確信していたようだ。
小沢がここまで国会議員にこだわったのは、代表選に敗れても実質的に党内ナンバーワンの立場を確保できるとの読みからだ。しかし、結果は期待を裏切るものとなった。
反小沢の閣僚の1人は、こう語って勝ち誇った。
「選挙結果が出た直後の小沢さんの顔を見ましたか。勝者になるか、敗者になるかでパワーポリティクスの世界では、まったく状況が違うんです」
代表選敗北は小沢の「不敗神話」が崩れた瞬間でもあった。だが、「政治とカネ」でこれだけの逆風にさらされながら、国会議員200人を確保した小沢に対して、「その底力をあらためて思い知った」(党幹部)議員も多い。
小沢は敗北後、「一兵卒」を宣言した。3ヵ月前に前首相の鳩山由紀夫とともにダブル辞任した際にも「一兵卒宣言」をしているが、その直後に「反菅」の姿勢を鮮明にした。そうした経緯から、今回の宣言も「戦闘宣言」と見ていいだろう。
現にその夜、小沢は小沢グループの議員たちと東京・赤坂の居酒屋で酒を酌み交わしており、これは新たな「小沢派」の旗揚げに向けたステップと受け取られた。
今回の代表選を通じて民主党内に生まれた大きな特徴の一つが、党内グループの派閥化現象だ。憎悪をむき出しにした権力闘争を経て、緩やかな議員グループから、徐々に閉鎖的な議員集団に変質する可能性が生まれている。
権力を失った自民党で派閥の崩壊、溶解が続くのとは対照的だ。自民党では参院議員会長選をめぐって、候補者2人の得票が同数となり最後はクジ引きで決着した。これは野党だから起きた現象だ。
今回の代表選は、権力をめぐる攻防がいかに激しいものになるかをあらためて浮き彫りにした。小沢側近の松木は、「これで小沢一郎という政治家が死んだわけではない」と早くも再起を誓った。
国民新党の亀井静香はこう警告したことがある。
「小沢がキバをむいたら大変なことになる」
亀井発言の意味するところは、小沢は追い詰められると再び「純化路線」に転じて、党を割る可能性があるということだ。
小沢は1992年の自民党旧竹下派内抗争で、少数派になるや派閥を離脱、さらに自民党を割って政界再編を仕掛けた事実がある。
新党改革幹事長の荒井広幸も、亀井と同様の見方を示す。荒井はより具体的で、小沢が参院で公明党の議席19より多い同志、つまり20人以上の賛同者がいれば行動を起こす可能性があると見ている。
一方の菅支持グループは二手に分かれる。融和派と対決派だ。小沢と激しく、長い確執を続け、「小沢支配」でつらい思いを強いられた政治家のあいだには、「小沢は許さない」との空気が充満する。
焦点の幹事長ポストを軸にした人事についても閣僚の1人は明確に言い切った。
「何のために代表選に踏み切ったのか。融和でいくなら鳩山さんが持ち込んできたトロイカ方式に乗ればよかった。人事で妥協するのはありえない」
小沢とことごとく対立してきた選対委員長の安住淳は、「選挙で大勝したのだから思い切りやったほうがいい」と小沢抜き人事を主張。また別の政府高官も、「挙党態勢の名の下に小沢グループを処遇しておいて、小沢グループから菅グループに変わってくれた人を処遇しないのでは筋が通らない」と小沢への過度の配慮には否定的だ。
菅自身も代表選が始まる前に周辺にこう漏らしていた。
「処遇しろ、処遇しろと言うけれど処遇できるような人材が(小沢側には)いないじゃないか」
ただし水面下では着々と手も打っていた。中心的な役割を担ったのは政調会長の玄葉光一郎。玄葉は政調会長就任直後から副大臣、政務官ポストの入れ替えを官房長官の仙谷由人と協議しながら検討していた。
参院選の結果生じた「衆参ねじれ国会」を乗り切るためには、国会の陣容強化が不可欠。そこで政務官や副大臣経験者に、国会の各委員会の理事と政策調査会のリーダー的な役割を与え、同時に若手を政務官などに抜てきする構想で、ほぼ実現の運びとなっていた。
しかし、幹部クラスの人事となると話はまったく別。代表選の結果待ちとならざるをえなかった。小沢から見れば「不倶戴天の敵」(小沢側近)は官房長官の仙谷と幹事長の枝野幸男。この2人の処遇が代表選後のキーワードである「挙党態勢」の意味づけに直結するからだ。
この点については代表選直後の14日夜、首相公邸で行われた菅・仙谷会談で確認が行われた。
「仙谷は官房長官留任、枝野幹事長は交代」
いわば折衷案で、小沢側にシグナルを送ったのである。
しかし、15日夕、新人事をめぐって菅と小沢は代表選後初めて会談したが、所要時間はわずかに10分。また寡黙ないつもの小沢に戻っていた。小沢はイエスともノーとも言わなかったはずだ。菅と小沢の新たな「神経戦」が始まったと見るべきだろう。
つまり、小沢グループの「党中党化」「党内野党化」は避けられないということ。「雨降って地固まる」とは正反対の方向に動き始めたのかもしれない。
代表選を通じて、菅と小沢の立場、手法の違いが鮮明になったが、なかでも対野党戦略では際立った相違を見せた。
小沢は連立の組み替えによる「ねじれ解消」。これに対して菅は「ていねいな話し合い」に基づくパーシャル連合による局面打開だ。
ただでさえ困難な「ねじれ国会」を乗り切るには、まず「党内野党」である小沢とどう折衝するのかという新たな問題が現実のものとなったのである。
これに対し自民党幹事長に就任した石原伸晃は、「政策がまったく違う人たちが、一枚岩になって2011年度予算を通すとは思えない」と早くも政権運営の行き詰まりを予言する。つまり菅新政権は、「党内野党」と「党外野党」という二つの野党との「ダブル連立」を志向しなければならないのだ。
それでは、菅はどの政党とのパーシャル連合を目指そうとしているのか。そこで興味深い人脈が浮かび上がってきた。2000年11月に表面化した「加藤の乱」をめぐる群像だ。
自民党の元幹事長、加藤紘一と山崎拓が画策した当時の森喜朗内閣の倒閣運動。民主党が提出する内閣不信任案に加藤派と山崎派が同調、その後、首相指名選挙で「加藤首相」を選出するというシナリオだった。
当時の自民党幹事長、野中広務の激しい切り崩しの前に、加藤は撤収を余儀なくされた。加藤の側近が現自民党総裁の谷垣禎一。「あんたが大将なんだから」と号泣した映像が今に残る。その加藤が連絡を取り合った民主党側のカウンターパートが、当時の幹事長、菅だった。
「加藤の乱」には石原も加わっていた。その石原は98年の金融国会で「政策新人類」と呼ばれた1人。このときに成立した金融再生法は「民主案丸のみ」と揶揄されたが、石原らが協議を重ねたカウンターパートは仙谷、枝野ら菅の周辺を固める実力者である。
石原は、幹事長就任直後の各マスコミとのインタビュー発言で一石を投じた。
「政策的には菅さんと近い。『日本の財政には漫然と構えている余裕はない』という認識があるなら、抱きつかれてもいい」
谷垣自身もいわゆる大連立は否定しつつも、民主党との協議には前向きだ。谷垣が民主党代表選に先立ってあえて党役員人事を断行し、しかも石原を幹事長に起用した背景には、菅との「あうんの呼吸」を指摘する向きもある。
ちなみに石原の下で幹事長代理に就任した田野瀬良太郎も、山崎派の議員として「加藤の乱」に加わっていた。
そしてもう1人のキーマンが、たちあがれ日本の幹事長、園田博之だ。園田も「加藤の乱」のメンバー。それより前には、新党さきがけで菅らと行動を共にした同志である。園田の持論は明快だ。
「この政局を乗り切るには菅さんが自民党に頭を下げる以外にない」
9月9日、園田は自民党政調会長の石破茂ら野党5党で、急激な円高や株安に対処するため大規模な10年度補正予算の早期編成を政府に申し入れた。
対応したのは仙谷だった。そこには消費税問題と普天間問題で、小沢との連携を模索していた節があった社民党と共産党の姿はなかった。
たちあがれ日本の与謝野馨も財政再建をめぐって小沢が固執したマニフェストを痛烈に批判しており、小沢との連携の可能性は消えている。
園田は代表選期間中に、小沢側近の山岡と会談している。山岡はこの席で園田に協力を要請したが、園田はこれを拒否した。園田を軸にたちあがれ日本は、菅と自民党を結ぶ仲介役として浮上する可能性が出てきた。
この構図が固まれば小沢の出番は封じられる。追い込まれた小沢は「最終戦争」を仕掛ける可能性がある。最大の節目は来年3月の年度末。小沢はそれまではじっと待つ腹だろう。この間、約200日。「200日抗争」がすでに始まったのかもしれない。(敬称略)
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