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民主党代表選の投票結果を見て、マスコミを中心とする世論工作、情報工作、謀略工作の力は、まだまだ見捨てがたいものではあることが判明したわけだが、それにしても、民主党議員の投票結果が互角だったことは、これからの民主党は言うまでもなく、政界、ジャーナリズム、そして日本という国家の未来にとって、何かを物語っていると言っていい。
地方議員、党員、サポーター票が驚くべき大差となって現れたわけだが、これが何を意味しているかは、充分に分析してみるべきだろう。僕は、ここには、現代の日本人の物を考える力の劣化、言い換えれば、日本人の思想的劣化という問題が横たわっていると思う。
つまり、マスコミが垂れ流す「政治とカネ」「クリーンな政治」「脱小沢」「…」というような安易な紋切り型の言葉に素朴に反応するような脆弱な思考力の持ち主が、少なくとも民主党代表選の「地方議員、党員、サポーター」なかには少なくないということだろう。マスコミの、軽薄この上ないタテマエの言葉が、有効性を持つということは、そういう次元の言葉でものを考える人が少なくないということだ。
テレビで顔が売れていると、内容には関係なしに、それだけで本が売れ、ツイッター等でも人気を博するというような現象が起きているが、それも同じことだろう。ところで、今、僕は、長谷川三千子著『日本語の哲学へ』(「ちくま新書」)を読んでいるところだが、冒頭に「日本語をもって思索する哲学者よ、生まれいでよ。」という、昭和十年、和辻哲郎が『続日本精神史研究』のなかの論文「日本語と哲学の問題」の末尾に記した言葉を引用し、この言葉で和辻哲郎は、重要な何かを語っていると書いている。
「日本語をもって思索する哲学者よ、生まれいでよ」というこの言葉を読んで、僕も、何か感じるところがあった。長谷川三千子は続けて、こう書いている。
***それは単に、日本人はいかにして西洋の学問を消化、吸収しうるか、という問題ではない。それはまさに、これまで誰も足を踏み入れたことのない未知の領域を、未知の方法によって探求し、きりひらいていく、という課題だったのである***
僕は、この言葉を、テレビや新聞等、マスコミが垂れ流すような軽薄な言葉で思考する現代の日本人に対する批判として読むべきだと考える。かって、日本人は、新聞文化人や、そしてテレビ文化人を重視していなかったし、むしろ軽蔑していたはずである。
新聞文化人やテレビ文化人の使う「わかりやすい言葉」が悪いというわけではなく、彼等は彼等の言葉で、つまり大衆文化的レベルで、果たすべき役割を果たせばよいのであって、あたかも日本の思想や文化や政治を先導するような国民的知性だと錯覚してはならない。しかし、今回の民主党代表選は、その新聞文化人やテレビ文化人の使う「わかりやすい言葉」が、多くの良識ある国民の前では、もはや通用しなくなりつつあることを、国民の目の前に暴露するいい機会になったと言うべきだろう。
多くの日本国民の間に沸き起こった「小沢一郎フィーバー」は、それを示したと言っていい。その意味で、今回の民主党代表選は、「新聞ジャーナリズムの終焉」「テレビジャーナリズムの終焉」を意味していたと思われる。
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