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超就職氷河期と代表選 - 就職難を学生の責任にする浜矩子の詭弁(世に倦む日日 )
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超就職氷河期_1
昨夜(9/13)の報道ステーションは「円高特集」だったが、実際の内容は円高がテーマではなく、大学生の就職難の実態を取材したものだった。番組の中で衝撃を受けたのは、就活中の慶応の商学部の学生が、「書類選考までは行くが、まだ面接は1社もできてない」と語ったことだった。他に山形大の人文学部の学生も悲鳴を上げていたが、慶応の商学部の学生の例には驚愕させられる。私の中の常識では、文系の学生が民間企業に就職しようとして、ここ以上に有利と思われる学舎はない。日本でビジネススクールと言えば三田のそれを指す。ゼミの先輩が大企業に多くいて引っ張ってもらえるし、三田会の場合は特に学閥の結束が強く、閥の人事で出世を互助する強力な紐帯と鉄則があり、秘密結社のフリーメーソンのような観があった。
前の就職氷河期の時代の印象は、簡単に言えば勝ち組と負け組に分かれ、負け組がロスジェネ世代となって沈殿したという図式だったが、今度の就職難は想像を超える深刻さで、勝ち組の存在がない。慶応商卒で就職できなくて、どこの大学なら就職できるのか。要するに学生を採用する企業がなく、卒業後に企業で正社員として働く機会がないのだ。最早、企業が企業の体をなしていない。日本経済が日本経済と呼べる実体を失っている。人が生きる未来がない。日本も来るところまで来てしまった。その感を深くする。
超就職氷河期_2
NHKの首都圏ニュースでは、神奈川県と埼玉県が大学生向けに就活セミナーを開催した話題が登場、この時期に就職が未定の学生のために5日間のコースで履歴書や面接法を指導する模様が紹介されていた。政府の行政指導と予算措置の所為だろうか、自治体が学生の就職支援をアリバイ的にやっている。菅直人の雇用政策が末端で具体化された姿だ。5日間の訓練は当然ながら民間委託で、ニュース番組で何度も見慣れたところの、くだらない「社会人基礎講習」みたいな内容で埋められている。コミュニケーション能力がどうのと、講師が居丈高に学生に説教を垂れている。この講師は人材派遣会社の人間で、この教育コースそのものが人材派遣企業への丸投げだと雰囲気で察せられる。全自治体から「雇用政策」の「公共事業」を請け負う企業は大儲けだ。
菅直人が8/18夜に南部靖之(パソナ)や澤田秀雄(HIS)とホテルで会食したのは、この特注事業が主たる案件だったのに違いない。無論、バーターで代表選で撒くためのカネの無心も裏であったのだろう。クリーンな菅直人は、こういう方法でカネを作る。国民の税金だ。まさに無駄なバラマキ。無駄な公共事業。政治とカネ。そして、コースに参加する学生たちが気の毒で胸が詰まる。この種の教育の講師と講義は、脅迫的であればあるほど真に迫るのであり、「就職できないのはお前が悪い」と自己責任論を内面化させるのだ。
超就職氷河期_3
5日間コースは長い。特訓を修了した学生たちには、しっかりと自己責任論のイデロギーが刷り込まれ、そして人材派遣会社への登録が待っている。派遣で試験的に企業で働く方法があるという誘いがあり、正規で採用される可能性も開けると言われるのだろう。見ていて、気分が悪くなって吐き気がする。名刺の出し方とか、電話の受け方とか、お辞儀の仕方とか、こんな「新人教育」は企業が自前でやるものだ。そのために企業には勤労部があり総務課があった。教育畑一筋の専門家がいた。教育すると同時に社員の管理をやり、すなわち労働品質のデータベース管理をやって、考課や異動の人事情報に利用していたものだ。
無論、終身雇用制の前提だからそうした教育システムになるわけだが、それが現実に企業の競争力に資していた事実は疑えない。今の大学生は本当に不幸で無残としか言いようがない。われわれの時代は、協定によって企業は10/1以前の学生との接触を禁止されており、学生も就職の準備は大学4年に入ってからだった。記事の中でときどき書くし、本の中でも書いているが、大学時代の学問は一生の独学のエンジンになる。逆に言えば、この時期に古典を読み、基礎概念と学習方法を習得しないと、卒業後に独学で学問を続けることができない。問題意識を持って専門書を読み続け、最新の研究を追跡することができない。演習の形式で集中的に学問に取り組めるのはこの時期だけだ。
超就職氷河期_4
大学4年生の5日間の時間があれば、ウェーバーの『プロ倫』が読める。スミスの『国富論』が読める。丸山真男の『日本政治思想史研究』が読める。社会科学でなくても、文学の古典が読める。ツヴァイクの『マリー・アントワネット』、ミッチェルの『風と共に去りぬ』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が読める。天才たちの渾身の作品に接し、それらに感動して人生に影響を受けた無数の人々の共感の仲間に入れる。社会人になる前の若者が、こうした古典を没頭して読むことの人生の意味を考えると、人材派遣会社の有料セミナーに缶詰になって、知識や教養の欠片もない講師から、新自由主義の脅迫メソッドで無意味な「社会人講習」を受ける時間の浪費と忍耐と比較して、本当にいたたまれない気持ちになる。
私が文科大臣なら、発狂寸前になって机を叩いて怒鳴るだろうし、司馬遼太郎が文科大臣でも同じ反応になるだろう。超就職氷河期の時代。こういう時代だからこそ、若者は時間を無駄にせず、人生全体を考えて自分に有意味な投資をして欲しいと強く思う。目先に提供されるものは、本屋の店頭に並ぶものも含めて、それは金儲けの商品であり、弱い立場につけ込んで人から金を毟り取るものだ。信用してはいけない。奪い取られるだけだ。金も時も心も。古典を信用することだ。古典を読んで知性と勇気を育んだ者たちを信用することだ。心を豊かに生きようとすれば、多くの仲間を持とうとすれば、知識と教養が要る。古典への信仰を持て。
超就職氷河期_5
報道ステーションのスタジオには浜矩子が座り、独自の円高経済論を垂れていた。曰く、円高ではなくドル安であり、米国は今後ハーフサイズの経済にシュリンクし、日本経済の動向とは無関係に1ドル50円の時代になる。これは止めることのできない必然で、無理に止める政策努力は必要ない。1ドル50円の時代をどう生きるかについては、「来る者は拒まず、去る者は追わず」の基本姿勢で臨み、円高で海外に出る企業は止める必要はない。国内経済については地域経済の活性化が重要で、その政策上の鍵として、為替リスクのない地域通貨の発行と流通に活路を求めるべきである。以上。
しかし、地域通貨でどうやって地域経済を再生自立させられるのか、具体論の説明がなく、それだけでは荒唐無稽な魔術の理論に止まる。また「去る者は追わず、来る者は拒まず」も、言葉として聞き心地ははいいが、現実的にはきわめて危険な落とし穴が待っていて、ここで警告をしておかなければならないが、「来る者は拒まず」の方は、必ず外国人移民自由化の政策に直結する。1千万人の外国人移民を少子高齢化の対策にせよという政策主張が台頭する。代表選で菅直人が勝てば、おそらく来年中には基本法案が政府内で検討され、与野党を超えた協議が詰めの運びとなるだろう。中国人に観光査証を緩和しているのは、本当の眼目は観光収益ではなく、移民自由化に向けての準備と地ならしだ。不法就労者を増やして抱える政策に舵を切っているのである。
超就職氷河期_6
浜矩子のコメントで神経が逆撫でされたのは、学生の就職難の対策について、奇妙でアクロバティックな論法で逃げていたことだ。すなわち、就職難については、企業と学生の双方が対立するのでなく、互いに協調して向き合えばよいと「対策」を言うのである。全く意味不明で、何を言っているのかわからない。これは学生に何か心構えを教説しているのだろうか。それとも、この主張を浜矩子は政策論だと思って世間に講釈しているのだろうか。互いに協調するも何も、学生は企業に就職を懇請する無一物の立場で、学生が企業に譲れる権利的余地は何もないのである。学生が企業に対して要求しているものは何もない。就活は交渉ではないのだ。
50社も100社も履歴書を出し、面接にさえこぎつけないのが現状なのに、これ以上、学生に向かって何を企業に譲歩しろと浜矩子は言うのか。弱者の側に社会問題の根拠や責任を求めようとする浜矩子の態度に怒りを覚える。同志社大学の学生は、浜矩子の言う「協調」で就活に成功しているのか。学生側に落ち度があるかのように言う浜矩子の空論は、200兆円の内部留保を社会に還元せず、雇用の原資に振り向けようとしない日本企業の卑劣な経営を隠蔽するものだ。新自由主義の正当化である。内部留保のうち、数百億円でも雇用に回してくれれば、学生の就職難は解決して超氷河期の地獄は避けられる。その程度の出費で日本企業の国際競争力が失われるわけではない。そう正論を言う経済学者が、どうして一人も論壇やマスコミに出ないのだろうか。
超就職氷河期_7
テレビ朝日の取材映像は、例によって、「こんなに経済が大変なときに代表選で空白を作って」と学生たちに苦情を言わせていた。これは、明らかに番組側が仕組んでそう言わせている。マスコミが報道で刷り込んでいるから、質問で誘導すれば、すぐにこの不満の言葉が引き出される。学生がそう言いたい心情は理解できるが、これがマスコミによる騙しであり、観念操作による大衆支配の手法であると気づく若者は少ないだろう。意図的に政治不信を煽り立てているのであり、政治を貶めることでマスコミの権威と地位を相対的に高め、社会を情報支配するマスコミの権力を不動のものに固めているのだ。マスコミ報道を全面肯定する大衆の脳を漬け込んでいるのであり、子羊を飼い慣らし、国民の代弁者であるかのような錯覚を起こさせ、共鳴させ、若者の脳にマスコミの政治観を物理コピーしているのである。
実際には、今年に入ってからの9か月間で、最も充実した政策論議が現出した機会が、この代表選の2週間だった。政治主導の中身が問われ、予算と財源の問題が注目され、国民の目線での議論がされたのは、小沢一郎の代表選出馬が契機を作ったもので、政策に人々の関心が集中したと断言できる。その前が反小沢の政局ばかりだったのであり、そして、代表選後こそが政局一色になるのだ。マスコミの言う「政局より政策」は、全く嘘であって中身が転倒している。代表選こそが「政策」の時間だった。ところが、マスコミに騙されている無知な大衆は、大事な代表選の政策論争を「政局」だと勘違いして判断してしまう。
これから始まるのは政策の季節ではない。再び反小沢の政局が始まるのだ。政局の季節は、官僚が裏で政策を遂行している時間である。官僚が政策を担えば、マスコミはそれを政策の時間として定義する。政治家が政策の正論を主張すれば、マスコミはそれを政局と定義して報道する。
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