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一審と二審で判決が違った時にマスコミに載るのが、標記の言葉だ。結果が違っているということは「どちらかが間違っている」ということだと思うのだが、どちらの裁判官も非難はされない。「人間がすることだから」本当にそれで納得できるのか? 最終の最高裁判決がもし間違っていたとしても、「本当はやっていない容疑者」を含めて納得するんだな。「だから3回も裁判ができるんじゃないか!」何回やろうが、問題は刑が確定する最終判決だ。
人が生命保険をかけるのは、死亡の危険に対する生活の防衛だからだ。裁判のチャンスが3回あるということは、何回かは間違える、あるいは最悪の場合3回とも見誤る危険がなくはない、に対する一種の保険といえなくもない。運悪く死亡してしまった場合生命保険なら保険金が下りるが、では運悪く「誤りの判決」にブチ当たった場合は保険金はどこから下りるのか? ほとんど却下される「再審請求」だけか。「ご愁傷さま」の言葉だけか。
ところで相撲の行司が「差し違え」をやってしまった場合、どうなるか? 確か進退伺いを出すこともあったはずだ。では被告人と検察を裁く行司である「裁判官」は、ミスをしたとき「進退伺い」を出すのか? 平然と次の裁判に取り掛かるのではないか。「真実は、人間には計り知れないものなのだ」とか考えながら。
私は、裁判官や検事がみな信用できないとは思っていない。ただ、作為的に犯罪を捏造したりそれを見逃したりした時に、何の責任も問われないのはおかしいと言ってるのだ。「立て板に水」の調書の前に、何の疑問も抱かなかった裁判官がおかしいと言ってるだけなのだ。3年後の「最高裁判所裁判官 国民審査」が待ち遠しい。
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