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衆民のため死ぬる事は元より覚悟のことなれば 巻頭言 本誌主幹南丘喜八郎 「月刊日本」9月号
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投稿者 明るい憂国の士 日時 2010 年 9 月 09 日 07:06:39: qr553ZDJ.dzsc
 

「月刊日本」9月号
平成22年8月23日発行(転載了承済)

月刊日本編集部ブログ
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巻頭言
 衆民のため死ぬる事は元より覚悟のことなれば
 本誌主幹南丘喜八郎

 嘉永六年(一八五三)六月三日、ペリー提督率い入る四隻の黒船が浦賀に姿を現した。この時から明治維新に至る十五年間、我が国は疾風怒濤の時代を迎えるのだが、ペリー来航の直前、東北地方の一隅で驚天動地の事件が起きていた。南部藩(現在の岩手県)の中でも僻地の三陸沿岸・三閉伊(さんへい)の農民約二万六千人が田畑を捨て、幟旗(のぼりばた)を押立て、集団となって雪崩のように領内を横断、隣国の仙台領に入って保護を求めたのである。これを「南部三閉伊一揆」と呼ぶ。
「一揆」とは、通常、組織も計画性もなく決起し、即座に弾圧、壊滅させられると一般的に理解されているが、本来一揆とは協同する、つまり心を一つにすることであり、計画性、組織性、秩序こそ「一揆」の本来の意味である。この本来の一揆を実現した稀有の例が、「南部三閉伊一揆」である。
 南部藩では領主が元和元年に入国して以来、二百三十年間に、およそ五十回の歴史的な凶作飢饉があった。五、六年毎に必ず天候不順による凶作、餓死者を出した。天明三年から五年にかけての凶作は大飢饉をもたらし、南部藩の総人口の四分の一に当たる七万五一八〇人が餓死した。幕府は勿論、近隣の藩からの救援も全くなかった。
 当時、東北地方を旅した京都の医者・橘南谿(なんけい)は、地獄の形相を呈す南部津軽の惨状をこう記している。
「予が奥州へ入りしは天明六年の春なれば、もはや国も豊かに食もたるべく思いしに、天明三年の飢饉京都にて聞きしに百倍の事にして、人民大かた餓死し尽して南部津軽の荒涼なる、まことに目もあてられぬ事どもなり」
「是も久しく飢えて自然と死にかかる人の肉ゆえ、既に腐りたる同然にて、その味甚だ悪く、生きたる人をうち殺して食うは味も美なれば、弱りたる人は殺して食うも多かりしなり」
 こうした惨状にも拘らず、南部藩は農民に対して度重なる御用金を賦課、藩札の乱発によってインフレーションが昂進した。農民はついに決起した。最初の一揆は、弘化四年(一八四七)、小本村の六十五歳になる牛方・弥五兵衛によって指導され、農民一万二千人が参加、南部の支藩である遠野城下に強訴に向かった。農民の要求は聞き入れられたが、一揆衆が村に帰ると即座に約束は反故にされ、指導者の弥五兵衛は捕縛され、獄死した。
 六年後の嘉永六年五月十九日、田野畑村の小高い丘に、一揆蜂起のホラ貝が鳴り響いた。一揆の先頭には「小○」の旗印が立てられた。「小○」は「困る」、つまり南部藩の農民政策に体を張って異議を唱えたのである。
 指導者は六年前の一揆にも参加した発起人筆頭の田野畑多助。時に三十八歳だった。彼ら指揮者たちは白襷(しろだすき)、赤襷をかけた若者たち精鋭がこれに従った。彼らはホラ貝を合図に行動した。出発、集合は勿論、危険な時、撤退の時なども、全てホラ貝が合図だった。彼らは竹槍や刀を持ち、鉄砲を持つのは「またぎ」と呼ばれる猟師たち。困窮の果てに武士階級から離脱し、盛岡を離れて三陸の農村に移り、寺子屋で読書きを教えていた人たちも参加した。農民に同情、一揆に加勢し、戦術に助言を与えていたのだ。一揆衆は一時は三万人にも膨れ上がった。彼ら一揆衆は整然と三陸沿岸を進み、宮古、大槌、釜石と南下し、峠を越えて仙台領唐丹(とうに)村に到着した。仙台藩の役人は「数万の百姓にて浜辺も山も皆人なり」と記録している。実際に越境したのは八五六五人だった。
 一揆衆は仙台藩に、「三閉伊通の百姓を仙台領民として受け入れ、三閉伊通を幕府直轄か、仙台領にして欲しい。多すぎる役人を減らして欲しい。御用金其他の臨時税が多過ぎる」など、四十九ヵ条の要求を提出した。一揆衆は田野畑多助ら四十五人を代表に選び、仙台藩と交渉を行った。だが彼ら代表たちも望郷の念に駆られ、時に弱気になることもあった。この時、多助はこう言って仲間を諌めた。
「衆民のため死ぬる事は元より覚悟のことなれば、今更命惜しみ申すべきや」
 多助ら四十五人の代表は、粘り強い交渉の末、ついに全ての要求を南部藩に認めさせることに成功した。この約定を保証し、誰一人処分者は出さないとする「安堵状」を、南部藩家老に署名させた。
「此度仙台家より御引請之上は御打合之訳も之有に付 咎等之儀一切不申シ付ケ候間違エ乱ヲ安心帰村可キ致ス者也
   嘉永六年十月 和井内作右衛門 鳥谷部嘉助」

 南部三閉伊一揆の指導者田野畑多助は明治六年の地租改正反対一揆に連座、取調べを受けていたが、五月二十七日、盛岡油町の牛方宿の厩で抗議の自殺を遂げ、五十八歳の生涯を終えた。
 大仏次郎は著書『天皇の世紀』で南部三閉伊一揆に言及、「在来、幾度か繰り返されたように愁訴や嘆願ではなく、これは藩の政府も否定する革命的性格のものである」と記述している。
 我が国の農村は破壊され、社稜は崩壊した。今こそ、「小○」の旗印を立て、決起すべき時ではないのか。

 

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