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菅直人は失業率と有効求人倍率をコミットせよ - 小沢一郎の変身
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小沢一郎は変わった_1
後半戦に入って、代表選はさらに熱気を帯びてきている。世間の関心と盛り上がりは、2か月前の参院選と同じかそれ以上かもしれない。この選挙の結果で国の行方が大きく変わると直感し、固唾をのんで選挙戦を見守っているのは、私一人だけではないだろう。政策論争だけを見れば、6月の参院選より本質的で意味のある論戦が行われている。小沢一郎が勝利しても政治の混迷は続くだろう。
しかし、菅直人の勝利によってもたらされる安定は、新自由主義の体制が強化され、弱者への負担ばかりが増え、この国の社会がますます貧困と絶望の底に収斂して行くことを意味する。それは、官僚と資本にとっての体制の安定だ。昨年の政権交代が、これ以上の格差社会化の進行に歯止めをかけようとする国民にとって、必死の抵抗と挑戦で得た政治的端緒であり、ようやく手にした希望の光だった事実を忘れてはいけない。
先週、テレビ出演した小沢一郎の政策議論の中で最も印象的だったのは、企業が雇用する非正規の割合を一定以下にするよう規制をかけるべきだという発言だった。今、こういう言葉を誰からも聞けなくなっている。われわれが政治家から聞きたいのはこういう言葉だ。大企業が溜め込んでいる 200兆円を再分配するべきだという発言もあった。小沢一郎に期待が集まるのは当然だ。反貧困ネットとか派遣ユニオンは、小沢一郎への支持声明を出すべきではないのか。
小沢一郎は変わった_2
小沢一郎が代表になっても、主張している政策を本当に実行する保証はないと、マスコミの人間たちは揃って言う。だが、そうではない。政策主張が実際に実行されるかどうかも重要だが、それ以上に重要なのは、その政策論を言葉にして出し、政治上の重要争点にすることだ。非正規雇用の枠を規制せよとか、大企業の内部留保を再分配に回せとか、沖縄に米海兵隊は必要ないとか、そうした議論が有力政治家の口から選挙戦で発せられ、国民に発信されることで、そのこと自体が現実に影響を与え、将来を変えて行く展望に繋がるのである。政治の空気が変わる。推進力が生まれる。
政治の場で誰もそれを言わなければ、具体的な可能性にはならず、人が意識する問題にはならない。社民や共産などの絶滅途上政党が主張しても、世論には何の影響も与えない。逆に異端政策の輪郭がくっきりとしてしまい、世間から顔を背けられ、不当視されてゴミ箱行きの議論になるだけだ。生命力を持てない。国民から拒否されている少数異端勢力が担ぐ政策の性格と表象が固定すると、国民的正論としての普遍性を帯びないのである。小沢一郎には150人の配下の国会議員がいる。日本の政治の中で一大勢力であり、勢力は持続的なものだ。政権を取る可能性もある。そうした巨大勢力の指導者が発言するだけで、政策の現場には緊張が走るのであり、その方向性を簡単に無視できなくなるのだ。
小沢一郎は変わった_3
菅直人は、「雇用、雇用、雇用」と言っているが、具体的に雇用がどれだけ増えるかは言っていない。現在の日本の最高権力者であり、予算編成を仕切る立場なのだから、自分の指揮で作成する来年度予算で、どれだけの新雇用を生み出すのか、政策数値をコミットして言うべきだ。雇用創出のためにどれだけ政策資本を投下し、波及効果で1年後にどれだけ失業者が減っているのか、数字を国民の前に示すべきだろう。具体的に訊きたい。
菅政権は来年度の失業率を何%に抑えるのか。雇用を政権の目玉政策にすると言うのなら、失業率の目標数値を設定しなくてはならないはずだ。そうでなければ、「雇用、雇用、雇用」は嘘である。菅直人がテレビで説明している雇用政策の中身は、
(1)介護報酬を増やして介護産業の従業者数を増やす、
(2)人手不足の中小企業に大卒の若者を就職させる、
(3)中国人観光客を増やして地方の観光産業の雇用を増やす、の3点である。
最近は、持論だったはずの林業の再生復活と地方での雇用の受け皿の話はしなくなっている。(2)の話は、雇用のミスマッチということで、要するに、大卒者は大企業にばかり履歴書を送らず、中小企業に就職口を探せという中身に尽きる。派遣切りが問題になった頃に城繁幸などが言い、湯浅誠が批判していたミスマッチ論と同じだ。人出不足の中小企業も10社や20社はあるだろうが、問題は有効求人倍率が0.53倍という事実である。
小沢一郎は変わった_4
有効求人倍率を改善する方策でなければ、雇用政策とは言えない。(1)の介護雇用については、実際に内閣で予算を編成しているのだから、具体的な数字を言ってもよさそうだが、菅直人は抽象論以上の説明をしない。介護報酬を幾らまで引き上げ、どれほどの介護労働者を新規で創出するのか。具体論が出て来ない点は不審で、それを問い質さないマスコミの人間にも苛立つ。
参院選のときも、菅直人は雇用を訴えていたが、その具体論は、政府が雇用を創出するから、その財源としして国民は消費税を払えというもので、荒唐無稽な小野理論の振り回しでしかなかった。消費税については、菅直人も小野善康も10%という具体的な数字を出したが、介護報酬についても、新規介護就労者数についても、有効求人倍率についても、何ら具体的なコミットはしなかった。菅直人の代表選の政策と政見は、参院選のものを使い回しているだけで、ブレアの「教育、教育、教育」のコピーを思いつきで真似しているだけだ。
「第三の道」もそうだった。昔は、イタリアの「オリーブの木」を日本版にしたこともある。欧州の政治から形だけコピーだけを取ってくる。「国家戦略局」もそうだった。中身がないのだ。見てくれの体裁だけであり、大言壮語なのである。実体は官僚に丸投げ。官僚主導をあれだけ痛切に批判していた菅直人の君子豹変には目が眩む。民衆を裏切った政治家の見本として、菅直人の名前は長く歴史に残るだろう。
小沢一郎は変わった_5
格差と貧困の問題だけでなく、あらゆる問題について、小沢一郎の発言が正論で、われわれ国民の要求と心情を代弁している。円高問題は、為替リスクをヘッジしている大企業は問題ないが、下請けの中小企業と社員のリストラが問題なのだという指摘も当を得ている。記者会見の開放や捜査取調の可視化についても、ようやく昨年8月の原点に政策の基準を戻した。小沢一郎の失脚以来、こうした民主党の公約は政治の世界から消えていたのである。天下りの禁止についても言及した。
鳩山マニフェストの世界が生き生きと甦り、政権交代を期待した頃の気分に戻って行く。期待が集まるのは当然だ。小沢一郎は、政策も姿勢も昔とは大きく変わった。だが、昔からの支持者を失わないようにという配慮があり、昔の小沢神話の信者に向けて、「僕は一切変わっていません」と言い、過去と現在が切断していないようにレトリックで説明をつける。だが、それはレトリックだ。小沢一郎はレトリックが上手になった。そこも大きな変化だ。朴訥で口下手な小沢一郎が、レトリックを駆使しているようには誰も思わない。昔の小沢一郎は、政策の説明が苦手で、質疑応答で矛盾を衝かれると逆上し、相手を強引に黙らせる態度が目立った。今はその当時の面影が消えていて、相手を見ながら、場面によって協調と対立を使い分け、必要な説明と表現を繰り出している。最も説得的なメッセージを発信するべく、議論の場を組み立てていて、それを成功させている。
小沢一郎は変わった_6
昔は今と逆で、どれほど小沢一郎が滅茶苦茶な暴言を吐き、傲岸不遜に永田町界隈で暴れても、マスコミがそれを庇い、「政治改革の騎手」として持て囃し、小沢一郎を礼讃する提灯記事で紙面を埋めていた。その筆頭が朝日新聞だった。早野透がそうだ。マスコミが小沢一郎を言い表すときの「剛腕」という言葉は、日本語の「傲慢」と「強引」の二つのニュアンスが裏側に溶け込んでいる。語音が近いので、言葉の響きでニュアンスが混じり込む。
90年代の小沢一郎は傲慢で強引な政治家だったが、権力の中枢にいて政治を動かしていたから、新聞記者たちはペコペコ媚び諂い、小沢一郎が新聞記者たちに「お前らは勉強が足りない」と言うと、「そのとおりです」と恐縮して謙っていた。小沢一郎の演説を聞いて、初めて「上手い」と思ったのは、4年前の菅直人と一騎打ちとなった代表選の最後の演説のときである。まさか、演説の迫力で小沢一郎が菅直人を圧倒するとは思わなかった。私には意外だった。逆になると思ったからである。
そのとき、小沢一郎は「変わらなきゃ」と言い、「自分を変える」という話がテーマだった。今、思い返すと、実に意義深く感じられる。あの決意の演説の後、小沢一郎は確かに変わった。他に適当な表現が見つからないので、敢えて言うが、政策は右から左に寄った。新自由主義から反新自由主義になった。政治家としての姿勢や手法も変わった。昔の面影を残しつつ、しかし確実に変わった。自分を変えるということは、なかなかできないことだ。
小沢一郎は変わった_7
小沢一郎が変わったのか、私の見方が変わった所為なのか、よくわからないが、気になることがある。それは、小沢一郎のプライベートの映像で、夜は常に庄やで飲んでいる生活実態である。焼き鳥や厚揚げを好んで食っている。黒のワゴン車から庄やに入り、庄やから赤い顔で仲間と出てくる。庄やはサラリーマンが職場の同僚と行く安い居酒屋で、サラリーマンの身分でもデートには使わない。まして接待や商談に使う店ではない。庄やみたいな安い店で飲むから、中で杯を上げる映像を簡単に外から盗撮され、テレビ報道で流されたりしてしまう。写真週刊誌のネタになる。しかし、どうやら小沢一郎は、それをパフォーマンスでやってはいない。庶民派を強調する政治目的の演出で見せてはいない。この点に感心させられる。
一方、庶民派のはずの菅直人は、ニューオータニの中の高級寿司屋や日本料理屋で毎晩のように飯を食い、それを新聞記者に「首相動静」で書かせている。飲み代と個室代とサービス代を含めて、1人1食2万円は下らないと思うが、それを知事のドラ息子の若僧と一緒に貪り食っている。まるで、麻生太郎の放蕩趣味を真似するかのように、格差社会の中で生活に苦しむ国民に、愚劣な見せびらかしの狂態を続けている。サラリーマン出身だったからこそ、殿上人の酒池肉林に憧れ、ひけらかしをやりたかったということだろうか。二人の政治家の差が出ている。このプライベートの差は、政策や政見の差と無関係ではない。政治家というものは、途中から変わるものだ。
この種の小沢一郎と菅直人の差で言うと、小沢一郎が夫人や家族を前に出さない点も好感が持てる。榊原英資が褒めていたが、死んだ宮沢喜一がそうだった。誰も宮沢喜一の夫人の顔を知らず、別荘にかけた電話で声を聞いただけだった。
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