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小沢一郎氏の民主党代表選出馬に関わるドタバタで、メディア報道に翻弄された小沢支持者は、「小沢不出馬・トロイカ体制で"官"首相続投」との情報には、驚き、悩み、苦しみ、怒りが噴出したことでしょう。そして「小沢出馬」が実現した現在は、安堵と歓喜へと変遷、希望と不安を織りまぜた、まさにジェットコースターのごとき1週間だったことと思います。
私は、小沢一郎氏の代表選出馬に関わる一連の報道では、何が真実で何が虚報かがなかなか見えず、その中での「小沢不出馬・"官"続投」との情報に「まさか?」とは思いつつも、その最悪の事態を想像し、かなりネガティブな感情も抱きました。しかし8月31日、小沢一郎氏は私たちの期待通りに(ようやく)出馬表明され、早速"官"直人首相との共同記者会見(9月1日)と公開討論会(9月2日)で、明確に日本再建へのメッセージを伝えてくれています。その後もテレビに出演、また本日は新宿と池袋での街頭演説とネットのニコニコ生放送への出演もされたようです。
代表選での小沢一郎と"官"直人、それぞれの言動からは、人として、政治家としての器・力量の違いが如実に感じられます。そのことについて、最近私が拾った言葉を紹介し、お伝えしたく思います。
「仕事をするうえで大事なことは、自信を持つことと謙虚であること。ただし、その上をいっても下にいっても良くない。自信の上には驕り、謙虚の下には卑屈がある。」
この言葉は最近ちょくちょく読む日刊ゲンダイに掲載されていたもので、私の好きな俳優・大滝秀治さんが、コント山口くんと竹田くんのデビュー当時、仕事で一緒になった竹田くんに伝えた言葉だそうです。
私はこの言葉が肚(はら)に落ちました。人は、仕事も含め生きるうえで「自信を持つことと謙虚であること」、これが大事ですが、自信過剰で天狗になってはならない。また謙虚を通り越して卑屈になっても良くない。自信を持っても謙虚であれば奢ることはなく、謙虚さも自信を持っていれば卑屈には至らない。
「知る」のと「わかる」ことは違います。情報入手さえすれば「知る」ことはできますが、「知ったこと」を実践し体得しなければ「わかる」域には到達しません。是非とも日々この言葉を思い起こし、「自信を持ちつつも謙虚である」かどうか、自己診断する機会を持ちたいものです。
この「自信と驕り」「謙虚と卑屈」ですが、これについて小沢一郎氏のことは今更書く必要もありません。"官"直人(感情的な理由から以下敬称略)について考えたく思います。"官"直人には「自信なき驕り」と「謙虚なき卑屈」に満ちた「卑怯者」という言葉があてはまりそうです。
"官"直人は地位や権力を得るために永田町を渡る自信はあるものの、政治家として法律や経済を学んで政策立案し官僚と闘うまでの自信は皆無でしょう。自信はないのに、地位と権力そしてカネを握ったが故の驕りが随所に見られ、それが小沢氏への「しばらく静かにしていろ」発言や「消費税増税」宣言、歴史的政権交代をもたらしたマニフェストの修正といった行動に表れています。
"官"直人に謙虚さが欠如していることは、これまでの言動から明らかですが、小沢一郎氏が出馬表明した以降の"官"直人は、自信喪失状態から卑屈になり、それが故に小沢一郎氏への誹謗中傷をしてしまうのだと、そのように思えます。そして、何事も他人のせいにする卑怯者です。
この他人のせいにする卑怯者について、9月3日に配信された平野貞夫氏の"「日本一新運動」の原点(14)"から引用します。平野氏は、高校時代の恩師の教えを人生の指針として生きてきたことを、紹介されています。
「人間社会には、本流に生きる人と、亜流に生きる人がいる。なにか問題が起き、自分が不利になったとき、本流の人は他人のせいにせず、自分の責任とする。亜流の人は、詭弁を弄して責任を他に転嫁する。くれぐれも亜流の人間にはなるな」
"官"直人は亜流の政治家なのですね。平野氏の言葉をもう少し引用します。
「亜流に属する人の共通点は、ことばが巧みで上手に嘘をいい、論点をそらして相手を攻撃することだ。さらに加えて、自分の権力や地位に病的なまでにこだわる癖をもっている。」
政治理念とビジョンに向かい一直線で正直者の"最もクリーンな政治家"小沢一郎と、理念もビジョンも政策もなく他人を利用し欺くだけの"卑怯者"「官」直人を、本流と亜流という言葉で区別されたところが非常に納得でき、共感したところです。結局、小沢一郎と"官"直人の器・力量の違いはどこからくるのかというと、私は徳の違いなのだと思います。
小沢一郎氏は「他人の批判をしない」「言い訳をしない」という幼少からの父母の教えを現在も守り続けています。また若き日の政治家・小沢一郎は「他人を批判せず、言い訳もしない」田中角栄からの薫陶も受けています。そして小沢一郎氏は人を大切にする上司(おやじ)でもあり、刑事事件にまでされた陸山会の世田谷の土地も、志を持つ秘書を書生として教育するために彼等の寮を建築する目的のものであり、その購入原資は小沢一郎氏個人の資金でした。
小沢一郎氏は、親から受け継いだ徳を削るよりも徳積みの行為が多く、結果、現在も徳を更に増しているのではないでしょうか。"官"直人は、虚言・欺瞞で政界を渡ってきた人物です(下記参照)。しんぶん赤旗、植草一秀氏、蟷螂舎斧助のページさん
二見伸明氏のツィッター から
@yhahatuma 先日、某週刊誌の記者が言ってました。「社の総力を挙げて菅さんを洗ったのだが、若い頃、市民運動をしていたという痕跡がない。当時、市民運動していた人たちは異口同音に『菅さんを見たことはない』と言っていた。市民運動家って、本当?」
10:33 AM Aug 30th webから yhahatuma宛
そして現在見ての通り、罵詈雑言・誹謗中傷を重ねています。"官"直人の行動は昔から徳積みよりも徳を削ることばかりのようです。人生をより良く生きるため、徳の薄い人は徳積みを心がけねばなりません。が、徳の薄い"官"直人は、徳が薄いが故に、更に徳を削る行為を続ける結果を招きそうです。
"官"直人が徳積みしたければ、「何が徳積みの行為で何が徳を削る行為か」を知り、徳積みの行為を実践することが必要です。しかし、知ることはできても、習慣化されている徳を削る行為を改めること、そして徳積みの行為を実践することは、なかなか困難なことです。
また行為に心が伴わなければ徳積みとはなりません。下心あっての徳積みなどありません。「知って」「行って」「わかって」そして愚直に継続して「当たり前にできる」までの努力が必要です。四国八十八箇所のお遍路までして変われない"官"直人が、今更自分自身の変革を望むはずもありませんね。
本流に生きる人と、亜流に生きる人(平野貞夫)
9月1日午後4時から民主党の菅代表と小沢前幹事長は、共同記者会見に臨み、今月14日に投開票される代表選挙に立候補する政見を発表した。また、菅代表は同夜のNHKニュース番組に出演して所信を述べたが、ごらんになった読者も多いと思う。さて、それぞれの政治生命を懸けての代表選挙となるわけだが、二人の政見表明と記者団との応答ぶりは、その人間性と政治力をみごとなまでに対比させる結果となり、興味深かった。TV中継を見て、常識ある人なら、国家の危機を回避するにはいづれが適任か、私がいうまでもないだろう。
■本流に生きる人と、亜流に生きる人
共同記者会見などを聴いて思い出したことがある。それは、土佐清水高校時代恩師の言葉である。「人間社会には、本流に生きる人と、亜流に生きる人がいる。なにか問題が起き、自分が不利になったとき、本流の人は他人のせいにせず、自分の責任とする。亜流の人は、詭弁を弄して責任を他に転嫁する。くれぐれも亜流の人間にはなるな」という教えであり、私はこれを人生の指針として生きてきた。
社会に出てすぐに衆議院事務局に勤務し、実に多くの政治家に接してきたが、この教えを片時も忘れず、その人となりを判断する基準にもしてきた。一般的にいって、保守系ではバルカン政治家と評される人が亜流であり、革新系ではトロツキー派の政治家が亜流と感じたが、この亜流に属する人の共通点は、ことばが巧みで上手に嘘をいい、論点をそらして相手を攻撃することだ。さらに加えて、自分の権力や地位に病的なまでにこだわる癖をもっている。
菅代表の一連の発言を聴いて、同じ代表職であっても「亜流党代表」を冠することでよりリアリティーを感じたが、代表的な例を二つだけ紹介しておこう。
(1)普天間基地問題
小沢氏の「沖縄県民と米国政府がともに納得する解決策を目指して、改めて話し合う」との方針に対して、菅代表は「日米合意を白紙にすることは大混乱となる。小沢さんは当時幹事長でこの合意に責任がある」と批判した。小沢氏はすぐ反論したが、「改めて話し合う」を「白紙にする」と、論点をすり替え相手の責任にする。さらに「私は内政や財政をやっていた」と、沖縄問題は所管ではなかったとの逃げ口上。
ならば、国家権力である内閣のナンバー2である副総理とは、政党のナンバー2よりも責任が軽いとでもいうのか。そしてまた、鳩山政権発足時、小沢幹事長を「入閣させずに、政策の協議決定に参加させなかった」のは、菅さん、あなただったことをもうお忘れか。
(2)小沢は総理に向かないとの発言
「小沢さんがどんな総理になるのか、予算委員会に堪えられるのかどうか、総理になりたいなら政治と金について説明しろ」と、菅代表は意味不明のことを発言した。20年前の病気のことを言っているなら、根拠のないことを公の場に出し、相手を誹謗するのは人権問題だ。
「小沢総理は想像できない」とも放言したが、品性を疑う発言だ。幾度も述べてきたが「政治と金」の問題は、麻生政権と検察の「虚構」を、メディアと民主党の反小沢派が政治的に利用しているに過ぎない。検察ファッショのお先棒を担ぐのかと、背筋の凍る思いであった。
この夜のNHKテレビ発言も醜いものだった。「代表選挙になったのは申し訳ない」と言っていたが、小沢さんには、「騙してでも下りて欲しい」とする本音が丸見えだった。
また、「参議院のねじれ」を「天の配剤」とも言っていたが、「参議院の惨敗は結果としてよかった」という意味であるとするならば、無責任きわまりない発想であり、民主党は国会議員のみならず、全党員こぞって罷免を要求するのが常套ではないか。こんな人物が、日本国の総理としてやっていけるのか、危惧するのは私だけではないだろう。
■一億総白痴化が試される代表選
昭和30年代の始め、戦後最大の文明評論家・大宅壮一氏は、テレビの普及が進む中、「まもなく日本人は一億総白痴化する」と予言した。情報化社会の恐ろしさに対する卓見である。昭和50年代からテレビ文化時代となり、映像文化の長所と欠点が議論されるようになる。確かに一部のテレビ報道には社会の進歩に役立つものがある。しかし、多くの番組は外形的見てくれと、金銭本位主義に陥り、白痴文化を形成した。
物事の本質を考えなくしたのは、テレビ文化だけではない。一方には教育制度の謬りもあるが、テレビによる総白痴化の影響を一番多く受けたのは政治社会であったといえる。学者・有識者と称される人に加え、マスコミ人も含めて、基本的な勉強をしなくなり、それにつれて政治家が世論ばかりを気にして、世論デモクラシーが、真実のデモクラシーを駆逐・崩壊させるようになったのである。小沢さんが「政治と金」で悪人化されるのは、テレビを中心とする巨大メディアの小沢潰しである。
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