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れんだいこのカンテラ時評789訂正文 れんだいこ 2010/08/29 19:05
【新聞社説士のペンの責任を問う】
「小沢起つ」の報を受け、雇われ言論大砲ぶりを発揮しているペンの責任を問うことにする。「小沢起つ」前日の8.26日付け朝刊の見出しと比較してみたいが、その暇がないのではしょることにする。「小沢起つ」翌日の8.27日付け朝刊の見出しは次のようになっている。朝日は「小沢氏出馬へ―あいた口がふさがらない」、毎日は「民主党代表選 大義欠く小沢氏の出馬」、読売は「小沢氏出馬表明 日本の針路を競う代表選に」、産経は「小沢氏出馬 国の指導者に不適格だ 『政治とカネ』で信頼失った」、日経は「主導権争いだけの党代表選なら不毛だ」、東京は「国のかたちこそ争点だ 菅・小沢氏一騎打ちへ」。その論説内容も酷似しており、衆院解散で民意を問えを基調にしている。これを論評する。
見出しだけで判断すると、読売の「小沢氏出馬表明 日本の針路を競う代表選に」と東京の「国のかたち」こそ争点だ 菅・小沢氏一騎打ちへ」が一番マトモだ。なぜなら小沢氏出馬表明の事実を伝え、「日本の針路を競う代表選に」(読売)、「国のかたち」こそ争点だ」(東京)で意見を加えると云う最も基本に忠実だからである。中身は別にして見出しから云えばこう云える。昔はこういう伝え方だったのではなかろうか。
朝日、毎日、産経のそれは全くナンセンスである。特に朝日の「小沢氏出馬へ―あいた口がふさがらない」が最もヒドイ。朝日論説士よ、一体君は何さまのつもりなのだ。政党の最高行事である党首選に出る出ないは政治家が判断する政治行為であり、マスコミに出よ出るなを意見する権限はない。読売の如く、こういう代表選にしてくれと意見を具申することは望まれているが、党首選に立候補することの是非まで意見するのはヤリスギだろう。そういう権限は誰も持ち合わせていない。戦後民主主義ではそういうことになっている。
してみれば朝日よ、君は何の権限で、何様のつもりで偉そうな口を叩けるのだ。越権甚だしい社説と云うべきではなかろうか。政策に口ばし入れるのは構わない。政治家の行動まで縛ろうとするなら、その言論の自由の大義について弁明して見よ。できぬなら筆を折れ。政治の世界は三権分立の上に成り立っている。四権目のマスコミだけがノ―チェックの云いたい放題と云うのは制度的欠陥ではなかろうか。どうチェックするのかは難しいが、こうお粗末だと何らかの規律基準が必要とされることになろう。
朝日は、「8.27日社説」の異常性に気付いたようである。翌日の「8.28日主説」の「菅VS.小沢―政策を競うのでなければ」で次のように訂正している。「しかしながら、小沢氏が人事で裏取引して立候補を見送ったり、傀儡(かいらい)の候補者を立てたりすることに比べれば、表舞台で正面から戦う方がまだしも、ましかも知れない」。そう、この観点ならまだしも許される。似たり寄ったりの見出しを掲げた毎日、産経には未だ問題の在りかが分からないらしい。なしのつぶてになっている。
繰り返すが、小沢氏が党首選に出る出ない自体について新聞社にとやかく云う権限はない。それが許され権限を持つとしたら天皇か検察だろうが、戦後民主主義では両者にも弁えを持たせており、そういう無作法はしない。してみれば、新聞の絶対権力者然ぶりが際立つ。弁えがないみたいである。これはかなり本質的なところで阿呆人種と云うことになる。
この手合いには云わねば分からぬようなので説いておく。新聞社説に望まれるのは、「菅対小沢の一騎打ち」となった民主党代表選について、まず報じ、次に各社が各社らしい論調で赤勝て白勝てを論じたり、お粗末さ、画期性、注文を云々することである。その点では、日本の新聞はもう少し特徴があった方がよいほどに平凡な均一論調になっている。反省すべきはこのことであり、あれほど攻撃したのに意に反して出馬したとして腹いせ紛れに小沢に罵声を浴びせることではない。
もし許されるとしたら、小沢氏に何らかの資格喪失事由がある場合であろう。いわゆる「小沢氏に纏わる言論とカネ問題」がこれに該当するとは思われない。なぜなら、法は等しく適用されねばならないからである。衆知のように小沢氏の場合には政治活動の入出金については政治資金収支報告書に正確に記載している。他の政治家のそれと比較しても手本のように書き分けていると云う。この言に疑問があるなら比較して見れば良かろう。
小沢氏の政治資金収支報告書が槍玉に挙げられるなら、収支報告書に記載していない政治家の場合にはどうなるのだ。鳩山の場合にはこれに該当した。しかし早々と免責された。こういう例は探せば五万とあるだろう。不記載が咎められず、記載した方が「天の声」まで詮索されて容疑者扱いされては法秩序が保たれない。検事の真っ当な部分が、これに頭を悩ましているのが実際である。専門家の検事が辛吟しているというのに、トウシロ―のペン屋が執拗に小沢攻撃をしているのは滑稽と云うより人間的な資質問題に関わっていると云うべきではなかろうか。
出馬批判が許されるとしたら、小泉の場合ではなかろうか。彼は、その履歴において学生時代に女子大生レイプ事件を引き起こしていると云われている。政治家になっても神楽坂芸者殺しが囁かれている。首相時代にプレスリー邸でプレスリーの真似をした後、イスラエルへ向かいユダヤ教徒の正装で嘆きの丘で宗教行為をしている。この重大案件のどれもが問題にされていない。小沢には執拗な癖に。森元首相の学生時代の買春事件は公にされたと云うのに。
小泉のような場合には資質資格の観点から彼の政治行為の一挙手一投足が論ぜられても良いかもしれない。しかしながら、そういう胡散臭い小泉に対して、その任期中、名宰相として持て囃したのが言論界である。これはどういうことか。その御仁が小沢となると途端に執拗にパッシングし続けている。狂っているのかカネと地位保全で売文売弁しているのかのどちらかであろう。
もとへ。ことほどさように言論界の醜悪さが満天下に知れ渡りつつある。これをどうすべきか、そろそろ問わねばなるまい。戦前、新聞社に勤めていた或る者はブンヤにだけはなるなと云い残して死んだ。それは、そういう汚い裏の世界を知り過ぎたからであると思われる。れんだいこの見立ては、昨今のブンヤは、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムに雇われたエージェントの陰謀的売国活動の引き受け手ではないかと疑惑している。
多くの者はそういう見地には立てないだろう。それは良い。れんだいこも、れんだいこの見地にまで至れとは申さない。必要なことは、言論界の歪みを正すことである。こたびのように民主党代表選への出馬そのものに対してイチャモンつけるような説教社説を許してはならない。分別がないこと激し過ぎるのではなかろうか。これは子供水準の言論ではなかろうか。政治の世界で子供政治が流行っており、それに釣り合うように言論界も子供言論が横行しているということであろうか。
昨年の政権交代はそもそも、こういう国の形を変えることを発意していたのではなかろうか。僥倖なことに絶対多数と云うべき300議席を越す大台が民主党に与えられた。これを何とかして突き崩したい、云うことを聞かない勢力としての小沢派が邪魔でしようがない。この意を挺して小沢パッシング、衆院解散を吹いているのが政界シオニスタンゴロである。これに呼応しているのがマスコミ界シオニスタンゴロである。
しかし、ネット社会においては動きが刻々と伝わる。お前たちの思う通りには事は運ばない。民族と国を売った者は追って身を蝕まれる。なぜなら、身体が不正を知っているからである。社説士よ、このところ胸の動機が異常ではないかな。
2010.8.29日 れんだいこ拝
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