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放送法は、その第3条の2で、「放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない」とし、「2.政治的に公平であること」と定めている。この規定に当たっては、第1条に放送法の目的が示されていて、「放送の不偏不党」と「放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」が謳われている。
言わば、この第1条の「目的」が憲法の前文に掲げられた国民の平和主義の誓いであり、第3条の「政治的公平」の厳守が憲法9条の武装放棄の規定という関係になっていて、放送法の目的を達成する上で事業者が「政治的公平」を守ることが決定的に重要な要件だという法律の構成になっている。
周知のとおり、新聞にはこのような国家からの規制や拘束はなく、基本的にはどのような偏向報道も「言論の自由」の範囲であり、責任は購読者と編集者との間で自己完結する法的位置づけとなっている。しかし、テレビはそうではない。公共の電波という国民の財産を使って情報を発信する公的性格の強い機関であるため、事業者は法律と条例と政令と規則の拘束を受ける。
テレビ放送の監督官庁は総務省である。総務大臣は放送法の理念と目的の遂行に責任を負い、事業者が法を逸脱して市民社会に害を与えることのないよう監督する責務を持つ。眼前のテレビの代表選報道の現実は、放送法に照らしてどうだろうか。誰か、原口一博に意見具申する者はいないのだろうか。
報道が国民の政治意識を左右する程度においては、新聞よりもはるかにテレビの方が影響力が大きい。活字による文字情報の説明や主張より、映像と音声が入ったメッセージ訴求の方が人の五感に届く効果が強いのは言うまでもない。新聞とテレビの情報の影響力の差は、二つの媒体の広告宣伝費の料金差において理解納得できる。
辺見庸は、「テレビは人間の意識そのものだ」と言った。テレビの政治的影響力は時を追うほどに高まっているが、放送法が理念として掲げる「不偏不党」や要綱である「政治的公平」は、逆に最近になればなるほど事業者に無視され、違反抵触行為が放置され、空文化が甚だしくなっている。
個人的には、特に小泉政権のときから異常が甚だしくなり、郵政選挙の露骨な偏向報道以降、テレビの「不偏不党」と「政治的公平」はバイオレーションが常態化していると感じる。昨年の政権交代を機に、状況は適正な方向に戻るかと期待したが、今度の代表選報道は、まさに5年前の郵政選挙の異常を彷彿とさせるもので、狂気が再現され、テレビ空間を支配している。
代表選は公職選挙ではないが、総理大臣を選ぶ選挙であり、国民の生活と国家の将来を決定づける重要な選挙であり、テレビ報道が「不偏不党」と「政治的公平」に配慮し準拠しなければいけないのは当然だ。報道によって世論が作られ、世論が代表選の投票に大きく影響するからである。
何年か前、逮捕収監される直前の村上世彰が、証券取引法はこの業界で事業する者の憲法だと言った。いい言葉だったから記憶に残っている。言葉としてはいい。放送法は放送事業者にとって憲法そのものだろう。小沢一郎が出馬表明した夜(8/26)のテレビ朝日の古舘伊知郎と星浩、翌朝のTBSのみのもんたと与良正男、この4人の代表選の報道は、まさにゲッペルス宣伝相の70年前の古典マニュアルの実践そのものだった。
「大衆の多くは無知で愚かである」「嘘も百回言えば真実になる」とプロパガンダの神髄を垂れたゲッペルス。短いフレーズを何度も繰り返して大衆に刷り込み、理性ではなく感情で大衆を扇動したゲッペルスの政治宣伝の手法は、世紀を跨いだ日本でまさに大輪の花を咲かせている。
今の星浩と与良正男の言動と態度は、5年前の郵政選挙時の福留功男や岸井成格より過剰にエモーショナルで、井戸端会議で主婦が北朝鮮の金正日の話題に向けるような口調と表情で小沢一郎を吐き捨てている。それは、まさに「吐き捨てる」という表現で捉えて正確な報道の実態だ。論外だと言い、客観報道する対象としての資格を与えておらず、恰も不可触賤民を蔑むように、口にするのも穢らわしい存在として扱っている。
政権党の二大勢力の一を率いる政治指導者に対して、強盗殺人犯か婦女暴行犯を見下すような嫌悪と侮辱をテレビの公共空間で投擲している。星浩と与良正男が小沢一郎に与えているのは、批判ではなく侮辱であり、一緒になって小沢一郎を嫌悪するよう大衆を扇動している。
ゲッペルスがドイツ人に向かってユダヤ人に対する敵意と憎悪と軽蔑を搔き立てたように、それと全く同一のプロパガンダの手法で、星浩と古舘伊知郎と与良正男とみのもんたが、テレビという公共の情報装置を使い、政敵である小沢一郎を攻撃し排斥するよう大衆を唆し嗾けているのである。
ゲッペルスの政治宣伝のアウトラインは、一般人にとっても常識の範疇ではあるけれど、しかしそれは過去の歴史上の事象であり、現在の政治の空間で生々しく登場する問題や存在ではなかったはずだ。つまり、政治的社会的な害毒としては、ナチスもゲッペルスも戦後世界において克服されたはずのものだった。だが、どうやら現実はそうではなく、ゲッペルスの亡霊は現代社会で雄々しく甦って猛威をふるっている。
今の日本の政治を透視すれば、マルクスよりウェーバーよりゲッペルスが正真正銘の主人公になっている。マニュアルを政治を動かす関係者に提供している。放送法が制定されたのは、戦後の昭和25年である。当時の主役はラジオだが、目的を宣言した第1条を読むと、新憲法の制定下で、放送媒体はいかにあるべきかが真摯に検討された経緯が拝察される。
そこには「放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」という文言がある。それが明記されたのは、放送の政治利用が社会に与える害毒を痛切に認識し反省していたからだろう。そこには間違いなく、大本営報道の禍根とゲッペルスの罪過に対する警戒がある。法はゲッペルスを直視していて、放送によるプロパガンダの散布がファシズムを現出させた歴史の誤りが踏まえられている。
ゲッペルスの70年前と違い、テレビのプロパガンダと大衆操縦の技術は手の込んだものになり、特に重要なのは、マスコミが世論調査を使って政治宣伝をするようになったことだ。自らが行った世論調査の数字を「民意」の証拠として使い、不公正な政治報道や偏向した政治主張を正当化する。
ゲッペルスの時代は、政治宣伝は一方向の流しっぱなしで、反応をフィードバックして利用する高等技術は開発されていなかった。現在は、「嘘も百回言えば真実になる」ところの「真実」は、世論調査で数値として証明され確定され、マスコミに既成事実として固められる仕組みになっていて、その「真実」を「嘘」だと市民が直観したとしても、マスコミの「嘘」を反駁して説得することはきわめて困難な情報と言論の環境になっている。
小沢一郎に対するテレビ報道では、小沢一郎を擁護する議論は一切黙殺するか、感情を剥きだしにしたキャスターが頭ごなしに否定し排斥する演出が定石で、番組自体が最初から小沢一郎は悪だという決めつけで報道を流している。そういった感情的なスタイルが不似合いなTBSの杉尾秀哉ですら、サラリーマンらしく局と番組のコードに従い、小沢一郎に対して中立的見解を述べる中山義活に声を荒げて噛みついていた。
小沢一郎は巨悪で金正日と同じ国民の敵だと刷り込みながら、その直後に小沢一郎について質問した世論調査を報道する。当然ながら否定意見が多数となる。その結果を根拠に、また小沢一郎は悪だと叩く報道をする。世論調査をする。
その反復とスパイラルで、小沢一郎についての「民意」をセメント化する。マスコミの世論調査の報道攻勢に対して、それを批判して説得力を得るのは容易ではないが、ここでは三つの視点を提供して、マスコミのプロパガンダを相対化する材料に資したい。
第一に、国民の民意はあくまで選挙の投票結果が証明するものであり、私企業である新聞社やテレビ局の世論調査を民意として認めることはできないということである。最近、星浩や与良正男は、小沢一郎に対する世論調査の結果を、衒いもなく国民の民意だと言いのけている。「国民の民意は小沢氏の出馬に反対だ」などという発言を平然とする。
政治報道に携わる新聞記者が、この「民意」の語法をするのは不具合で、そこに世論操作の意図と作為があるからと認めざるを得ない。政治の報道で「民意」の語を使う場合は、一般に選挙など投票によって裏づけられ、選挙管理委員会に確定された選択を指すものだ。
世論調査の結果は社によって異なり、時期によって異なり、時と場所に応じて曖昧に変動する。しかし、選管が確定した結果は一つで、それは動きようがなく、動かしようがない。小沢一郎についての民意を厳密に辿れば、それは遡ること3年前の参院選の結果であり、小沢一郎が代表を務めた選挙での(特に地方一人区での劇的な)圧勝の事実である。
「民意」の概念と語法について厳密な定義や準則があるわけではない。しかし、過去の政治報道においては、世論調査の結果を民意として根拠づける習慣はなかった。そこは慎重に区別されていた。
第二に、その曲者の世論調査が、近年、特に各報道機関で横並びの内容になり、均一性の傾向が顕著で、ある種の「談合」的状況が散見されることである。結果が同じというのではなく、仕様が同じで時期も同じなのだ。例えば、最近の選挙前の報道などで、鬱陶しく感じるほど各社が頻繁に世論調査を報道している事実に気づく。
この傾向に対する知覚や看取は、おそらく、ある年齢以上の者が意識するもので、一昔前の政治報道を知らない若い世代は敏感に感じることはないかもしれない。一昔前に較べて、明らかに世論調査は画一的になり斉一的になった。質問票のスペックが標準化されている。
各社の担当者が一緒に相談して質問項目を設計している疑いが濃い。昔は、質問項目の設計が報道各社によって異なり、言わばヘテロジニアスな世論調査が報道されていた。今は、それがホモジニアスな世界になっている。世論調査というものは、報道各社によってオリジナルに企画実施されていた。世調査は報道各社の個性を映し出すもので、質問の設計そのものが異なっていたという事実は、各報道機関がそれぞれ異なる問題意識を持ち、統計調査して分析出力したい政治の像があったということだ。
世論調査には設計者の主観がある。そこには予め析出しようとするデータの予想結果がある。その世論調査が、これほど平板になり、質問も結果も時期も同一的になり、報道各社の差異が消失している事実については、その背後にある何かを市民は懐疑する必要があるだろう。われわれは世論調査に操られていて、世論調査は誰かが思惑を持って操っているのではないか。
第三に、決定的な問題だが、報道機関には官邸から官房機密費が撒かれている。菅政権になって、すでに6月と7月に2億円が金庫から拠出されている。その2億円は何に使われたのか。支出明細は現時点で明らかにされていない。8月の金額は未だ情報が出ていない(きっと8月分は多いだろう)。仙谷由人は、野党時代からマスコミ関係者と親密で、懇親会を頻繁に繰り返し、党内情勢を新聞記者に流し、小沢批判の怪気炎を夜の巷で上げていた。
特に朝日。政界面の記事で、「民主党の有力議員によれば」と匿名で小沢批判の発言が漏れるときは、まず仙谷由人の発言と考えてよかったし、田原総一朗が党内での小沢批判を政治宣伝する道具として、仙谷由人を重宝していたことは誰でも知っている。今回のマスコミによる扇情的で過激な小沢バッシングの嵐は、仙谷由人による2億円が報道関係者の仕事になったものではないか。だとすれば、われわれはマスコミの世論調査を信用することはできないのである。
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