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指導部の責任を認める率直な姿勢を再生へ結びつけるために
七月参院選で、日本共産党は得票数・率、議席を減らし、歴史的とも言える敗北を喫した。党指導部も自らの責任を認め、党内外の人々に率直な意見・批判を求めている。しかしこの危機をどのように克服するのか。日本共産党員の樋口芳弘さんに、新しい前進への道をどう探るか寄稿していただいた。(本紙編集部)
はじめに
(1)日本共産党は歴史的な大敗を喫した
七月十一日に行われた参議院選挙において、日本共産党は、改選四議席から三議席に後退させた。議席の絶対確保をめざした東京選挙区では小池晃政策委員長を落選させ、選挙区での議席獲得はゼロであった。比例代表選挙での得票数は、三年前の参院選の四百四十万票(得票率七・四八%)から三百五十六万票(六・一〇%)にまで後退させ、一九七〇年代以前の水準にまで落ち込んでしまった。まさに、歴史的な大敗北である。
投票日翌日に出された常任幹部会の声明は、「多くのみなさんが炎天や風雨のなかで燃えるような奮闘をしてくださったにもかかわらず、それを議席と得票に結びつけられなかったことは、私たちの力不足であり、おわびいたします」として、敗北および指導部の責任を率直に認めるものとなった。国政選挙直後の常幹声明が、これらを明確に認めるのは極めて異例のことである。
(2)あらゆる面での根本的な総括が求められている
この常幹声明は、さらに次のように述べている。
「私たちは、今回の選挙結果を重く受け止めています。国政選挙での巻き返しにむけ、本格的な態勢構築をはかります。党綱領と大会決定にたちかえり、今回の選挙戦について、政治論戦、組織活動などあらゆる面で、どこにただすべき問題点があるか、前進のために何が必要かについて、党内外の方々のご意見・ご批判に真摯に耳を傾け、掘り下げた自己検討をおこなう決意です」
このような言葉もまた常幹声明としては極めて異例のものであり、これを見る限りでは、今回の歴史的大敗についてかなり踏み込んだ「自己検討」を行う必要性が認識されていると言ってよいだろう。都道府県委員会や地区委員会によって濃淡はあるのだろうが、「しんぶん赤旗」の紙面づくりなどを見る限り、全体として、これまでにはなかったような率直な討論が行われつつある、と言ってもよさそうである。
これらの党内の討論や党外から寄せられた意見を踏まえての中間的なまとめが、八月三日に行われた党創立八十八周年記念講演会における志位和夫委員長の記念講演の中で行われた。本格的な総括は、来月の第二回中央委員会総会でなされるとのことである。
もとより、綱領や規約そのものの是非にまで踏み込んだ総括は期待できまい。しかし、先の常幹声明の異例なまでの率直さからすれば、綱領路線をどのように具体化し党組織をどのように運営していくかといったレベルでは、ある程度まで踏み込んだ総括がなされる余地がある、と期待してよいのかもしれない。もしそうであるならば、これはささやかであっても、日本共産党の再生にとっての第一歩となりうる。
本稿では、そのような期待から、志位委員長の記念講演を検討の素材としつつ、どのようにすれば捲土重来が可能になるかという問題意識から、建設的な提案を試みてみたい。
1、志位委員長の党創立記念講演をどうみるか
(1)志位委員長は「政治論戦の弱点」を認めた
志位委員長の記念講演において何よりもまず注目されるのは、今回の参院選における「政治論戦の弱点」を率直に認めた、ということである。より具体的には、「国民が、自民党政治に代わる新しい政治を探求する大規模なプロセスが進行している」(第25回党大会決議)状況の下で、「国民の『探求にこたえ』、『展望を語る』という姿勢を、最後の最後までつらぬくべきだったにもかかわらず、弱点が生まれ」たというのである。
志位講演は、「政治論戦の弱点」がとくに消費税論戦にあらわれたとする。すなわち、「大企業減税のための消費税増税」という「問題の本質」を明らかにして国民世論に変化をつくることはできたものの、「消費税増税反対」ばかりが前面に押し出されて建設的な提案が後景に追いやられる結果となったために、「日本の経済をどう立て直すか」「借金財政をどうするのか」などについて解決の展望を求めている多くの国民に、「反対」というメッセージだけが伝わることになってしまった、というわけである。
この把握それ自体は、おそらくその通りだと言ってよいだろう。今回の参院選の唯一の勝者であるみんなの党が「増税の前にやることがある」をスローガンとしていたことからも、そのことは窺える。ようするに、マスコミによる消費税増税不可避の大宣伝の下、有権者の多くは、苦しい生活実態からして消費税の増税は困るという思いを抱く一方、日本が財政危機である以上消費税増税はやむをえないのではないかとの思いも払拭できない、という状況だったのである。ここに、増税の前に徹底した無駄の排除を、という主張が浸透していく条件があったものと思われるのである。
(2)「政治論戦の弱点」を生み出した背景は語られていない
志位委員長の、建設的メッセージが伝わらなかった、という反省自体はもっともなものである。これまで、思わしくない結果に終わった国政選挙直後の常幹声明や中央委員会総会決定が、「方針は正しかったが国民に声が届ききらなかった(運動量が少なくて負けた)」式の総括にとどまっていたことを思えば、志位講演が政治論戦のレベルでの誤りを認めたことは画期的なことと言ってよい。
しかし、一方で、このような「政治論戦の弱点」が何ゆえに生じてしまったのかについて、志位講演においては、何の言及もないことを指摘しておかなければならない。一般的にいって、同じ失敗を繰り返さないためには、それがいかなる失敗であったかを明確にすると同時に、何ゆえにそのような失敗が生じてしまったのかを合わせて明らかにしておかなければならない。ところが、今回の記念講演には前者しかないのである。
(3)情勢認識および党組織のあり方の両面からの検討が必要である
これは、まだ「総括の途上」だから仕方がない、と言ってしまえばそれまでであるが、はたして現指導部は、来月の第二回中央委員会総会に向けて、後者の側面に本格的に踏み込んだ総括をやるつもりがあるのだろうか。これまでの指導部の姿勢からして懐疑的にならざるを得ないのであるが、志位委員長が第二回中央委員会総会に向けて「政治論戦、選挙活動、党建設などあらゆる角度からの総括をすすめる決意」を表明している以上、ここではあえてそのような懐疑を封印し、それなりに踏み込んだ総括がなされる可能性はあるものと期待して、論を続けていきたい。
さて、このような総括を進めていく上で大切なのは、政治論戦は政治論戦、選挙活動は選挙活動、党建設は党建設、というような個々バラバラに切り離したような扱いではダメだ、ということである。日本共産党の政治論戦も選挙活動も党建設も、すべて現代の政治情勢の下で日本共産党がどのように歴史的使命を果たしていくか、という一つの問題につながっているのである。たしかに今回の参院選敗北の直接の要因は「政治論戦の弱点」であるといってよいが、選挙活動の弱点も党建設の弱点もすべて、「政治論戦の弱点」をもたらした過程的構造の中の一要素として位置づけられるべきものなのである。
では、「政治論戦の弱点」をもたらした過程的構造とは何なのであろうか。この問題を解いていくためには、大きく、日本共産党(の指導部)が現在の情勢をどう認識しているかという問題と、それに働きかけていくべき党組織がどのようにつくられてきているのか、という両面から検討していく必要があるだろう。
2、「探求の時代」とはどういう時代か
(1)大会決定の情勢認識を振り返る
それでは、日本共産党の指導部は、現在の情勢をどのように認識しているのであろうか。
日本共産党は、今年一月に開催した第二十五回党大会の決議において、政権交代後の情勢について、「衆議院選挙での国民の審判は、『過渡的な情勢』と特徴づけることができる日本政治の『新しい時期』を開くものとなった」とした上で、この「国民の審判」の性格について、次のように述べている。
「国民が総選挙の審判にかけた思いは、自公政権によってもたらされた耐えがたい暮らしの苦難、平和の危機をとりのぞきたい、『政治を変えたい』という強い願いである。これは一時の選挙での審判にとどまらず、選挙後の情勢全体を前向きに動かす大きな力として作用しつづけている。
同時に、日本の政治は、『二つの異常』――『異常な対米従属』『大企業・財界の横暴な支配』から抜け出す方向を定めるまでにはいたっていない。国民は、『自公政権ノー』の審判をくだしたが、民主党の政策と路線を支持したわけではないし、自公政治に代わる新しい政治は何かについて答えを出したわけではない」
志位委員長は、記念講演においてこのような情勢認識を再確認した上で、「国民の探求」にこたえられなかったという政治論戦の弱点について述べているわけである。
(2)支配層による必死の巻き返しを直視しなければならない
このような情勢認識は、政権交代後の情勢の基本的な見方としては、まあ妥当なものと言ってもよいだろう。しかし、これはあくまでも、ごくごく抽象的なレベルでは、ということでしかない。
政権交代後の情勢をより具体的なレベルでみるならば、「政治を変えたい」という国民の強い願いに押されて登場したがゆえに、日米支配層に対してある程度までは自立的な姿勢をとらねばならなかった鳩山政権が、日米支配層の必死の巻き返しによって崩壊させられ、これら支配層の利害をより直接的に代弁する政権として菅政権が成立させられた、といった流れがあったことは否定できないだろう。
ところが、日本共産党指導部は、情勢を大きく動かす力として、支配層による必死の巻き返しの動きが厳然として存在していることを決定的に軽視してしまっているのである。それは、志位講演が、今回の参院選において民主党、自民党が大きく得票を減らしたことをもって財界主導の「二大政党」づくりが行き詰まっている、と特徴づけていることからも明白である。
しかし、「過渡的な情勢」というのは、ただ「国民の探求」にとって過渡的なだけではない。新しい支配の形態を模索する支配層にとっても過渡的な情勢なのである。情勢の現局面は、「国民の探求」の過程であると同時に、自民党と民主党という二大政党でよいのか、みんなの党を媒介としてもう一段の政界再編が必要ではないか、といった「支配層の探求」の過程でもある、という二重性において把握されなければならない。
このような観点からすれば、今回の参院選全体の結果については、自民党と民主党という「二大政党」の合計得票が減少したという事実ではなく、日本共産党と社会民主党に投じられた革新票の合計が大きく減少してしまった事実こそ、重大な危機感をもって直視すべきなのである。
(3)「国民の探求」の性格をどうみるか
それでは、日本共産党指導部の情勢認識は、なぜこのようなものになってしまっているのであろうか。
その最大の要因は、「国民の探求」なるものが、「支配層の探求」との相互浸透関係においてではなく、あたかもそれ自体として実体的に存在しているかのように把握されてしまっていることである。しかし、「国民の探求」というのは、支配層の攻勢との激しいせめぎ合いの中にしか存在しないのである。先にも述べたとおり、現在の情勢は、「国民の探求」と「支配層の探求」とが直接的に統一された二重構造において捉えられなければならない。
現在の情勢の深刻さは、「支配層の探求」の側にはある程度明確な構想――軍事大国化路線と新自由主義的改革の徹底――があるのに対して、「国民の探求」の側は、これに対抗しうるだけのまとまった構想を持ちえていない、というところにある。第二十五回大会決議が「国民は、『自公政権ノー』の審判をくだしたが、民主党の政策と路線を支持したわけではないし、自公政治に代わる新しい政治は何かについて答えを出したわけではない」としている通りである。「自公政権ノー」の審判は、直接に「二つの異常」――「異常な対米従属」「大企業・財界の横暴な支配」への審判である、とみなすことはできないのである。
だからこそ、「国民の探求」は支配層のマスコミを通じた宣伝攻勢によって簡単に操作されてしまいかねない脆さを抱えているのであり、支配層の利害と根本的に対立する政策スローガンは、容易には浸透し得ないのである。今回の参院選における日本共産党の「政治論戦の弱点」の背景には、このような情勢に対する認識の甘さがあったのではないだろうか。今回の参院選では、「アメリカにも財界にも堂々とモノが言える党」という類のキャッチコピーが多用されたが、「国民の探求」が明確な方向性を持ちえていない以上、アメリカや財界にそもそも何を言うのか、言ってどうするのか、が明示されていない点で、これは最悪であった。
3、日本共産党は「国民の探求」にこたえうる組織になっているか
(1)党の方針と「国民の願い」との関係は単純ではない
それでは、このような脆さを抱えた「国民の探求」に対して、日本共産党はどのように働きかけていくべきであったのか。ここで焦点は、党組織のあり方の方に移ってくる。
そもそも、第二十五回大会決議で確認されていたように、「国民の探求の過程、認識の発展の過程」を積極的に促進することこそが、共産党の本質にかかわるレベルで重要な任務である。これは、具体的には、諸々の要求を掲げた運動の中で党が綱領およびそれを具体化した方針をもって「国民の探求、認識」に働きかけていく過程においてこそ、果されていく。大切なのは、この過程は、一方に党の政策があり他方に「国民の願い」があって、前者の体系性を後者に、そのままの形で一方的に浸透させていく、といった単純なものではない、ということである。
そもそも一口に「国民」と言っても、現実の社会にのっぺらぼうな「国民の探求、認識」が存在するわけではない。実際に存在するのは、多種多様な組織が重層的かつ過程的に絡まり合った複合体でしかなく、それぞれの部分によってその具体的なあり方も千差万別といってよいほどの多様性を持っている。しかも、先に見たように、これらが「支配層の探求」との激しいせめぎ合いの中で、常にダイナミックな運動・変化の過程にあるのである。もちろん、このような過程的複合体を論理的には一つの「国民」としてまとめて捉えていくことも場合によっては必要になるのだが、これはあくまでも論理的な手続きの問題であって、そこを明確に意識することなく、一枚岩的な「国民の探求、認識」が現実にも実体として存在しているかのように捉えてしまってはならないのである。
このことを踏まえるならば、党の政策は「国民の探求の過程、認識の発展の過程」のそれぞれの部分の具体的なあり方に合わせて表現していくと同時に、相手の反応をしっかりと受け止めつつ党の政策をより的確なものへと深化させていく(誤りがあれば正していく)、というダイナミックな相互浸透の過程において捉えられなければならないのであり、このような発展の過程をまともに保障しうるような党組織のあり方が必要なのである、ということになる。
(2)党内に活発な討論がなければ「国民の探求」に的確にこたえられない
それでは、このような党の政策と「国民の探求」との相互浸透の過程は、一体いかなる党組織のあり方によってまともに媒介されていくのであろうか。
それは、端的には、党内における活発な討論を保障するような組織のあり方によって、である。このことを、党の政策を「国民の探求」に合わせてどのように具体的に表現していくかという側面と、「国民の探求」を踏まえつつ党の政策をどのように深化させていくかという側面とに分けて考えてみよう。
まず、第一の側面についてである。
そもそも、党の政策についての具体的な訴え方は、対話の相手や場面に応じた形で、多様に変化させていかねばならない。ようするに、個々の党員がそれぞれの場面で語る党の政策というものは、それだけの変化に耐えうる柔軟性と強靭さを持ったものでなければならないのである。
このような柔軟性と強靭さは、「講師資格試験」なるものに典型的にあらわれているように、個々の党員が指導部によって決められた政策や方針を絶対的に正しいものとして教科書の文言のように暗記するところからは絶対に生まれてこない。これでは、時々の対話相手の主張に応じて、党の政策の基本点を守りつつも具体的なあり方を柔軟に変化させて表現していくということは、一部の経験豊富な活動家を除いては、難しいだろう。
一般的に言って、ある思想の強靭さ・柔軟性は、それが創られていく過程において、対立する思想との討論関係にどれだけおかれたかということに決定的に左右されるものである。党の政策・方針を、ダイナミックな運動性に富む「国民の探求」に的確にこたえうるだけの柔軟性と強靭さを兼ね備えたものとして個々の党員の頭の中に創出していくためには、党内において、指導部への批判・異論の存在を公然と認めた上で、活発な討論を行っていく過程が絶対に欠かせないのである。
(3)党内の活発な討論こそが誤謬の訂正を容易にする
次いで、第二の側面についてである。
そもそも、人間の認識は、無限の多様性を持った対象をつねに有限の範囲でしか捉えられないという意味で、不完全なものである。したがって、日本共産党という組織の活動においても、諸々の失敗を完全に避けることなど出来ない。大切なのは、取り返しのつかないような大きな失敗を犯さないこと、失敗を犯しても、取り返しがつかなくなる前に気がついて改められるようにすること、である。
これに資するのは、指導部への批判や異論をも排除しない形での、党内における活発な討論以外にはありえない。
たとえば、今回の参院選については、政治論戦の面で指導部の方針に適切でない面があったことが志位講演において認められた。ようするに、指導部は無謬ではないということが、他ならぬ志位委員長自身によって認められたのである。現在、「しんぶん赤旗」の「日本共産党の活動」ページにおいては、記念講演への感想という形で、実は、選挙期間中に「消費税増税反対一本槍では、あるべき政治の姿を模索している国民に建設的メッセージが伝わらないのでは?」という類の違和感を感じていたのだ、と語る党員の声が少なからず紹介されている。これらの意見が、もし選挙期間中に「しんぶん赤旗」紙面に掲載され、これを受けて政治論戦のあり方についての党内討論がなされていたとしたらどうだっただろうか。志位委員長のいう「政治論戦の弱点」は早急に克服されていたのではないだろうか。
このように、党内における、指導部への疑問や批判・異論の存在を公然と認めた上での活発な討論は、仮に指導部の方針に誤りがあった場合、その誤りを早急に克服することを可能にしうるのである。
まとめ
(1)「運動量が少なくて負けた」という総括は許されない
以上、今回の参院選における日本共産党の敗北について、党創立八十八周年記念集会における志位委員長の記念講演を検討の素材としつつ、どうすれば捲土重来が可能になるのかという問題意識から論じてきた。
今回の参院選における日本共産党の歴史的敗北の原因は、直接には、志位委員長の言うように「国民の探求」にこたえられない「政治論戦の弱点」にあったと言ってもよいが、そこに至る過程的構造にまで踏み込むならば、「国民の探求」が支配層からの必死の巻き返しを受けて動揺していることをつかみ損なった結果、「国民の願い」に合致した党の政策を届けさえすれば勝てる、という極めて甘い見通しを持ってしまったからである、と言わなければならない。
このように、今回の参院選の敗北の深刻さは、「方針は正しかったが国民に声が届ききらなかった(運動量が少なくて負けた)」といった従来レベルの総括にとどまることを絶対に許さないものがある。
現在、党組織の高齢化がすすみ、長期に渡って活動実態のないいわゆる幽霊党員もかなりの数に上っているものと思われる。これらの結果として、選挙運動において党組織の動きが鈍くなっていく傾向にあることは否定できない。このような状況を無視して、それぞれの支部に対して、対話や支持拡大の過大な目標を押し付けて、ともかく頑張れ、という「指導」に終始することは、犯罪的と言ってもよい決定的な誤りなのである。
党組織の活動量が低下しているのであれば、なおさら、そのような活動量のもとでも、最大限効果的に「国民の探求」に働きかけうるための方策を真剣に考えていくべきである。
これまでの「しんぶん赤旗」の「日本共産党の活動」ページの紙面の作り方は、例えて言うならば、有権者との十の対話の内で上手くいった一の対話をことさらに大きく取り上げて、党の政策と「国民の願い」の合致を演出する、という性格のものであった。しかし、党の前進のためには、上手くいかなかった九の対話の方こそを取り上げて、表現の仕方あるいは政策・方針そのものをどのように改善していくべきかを真剣に検討していく、といったことが欠かせないのである。これまで十の対話が出来ていたのに組織の高齢化で五の対話しかできなくなった、でも五のうちの二は良い対話ができるようになりました、という状況に持っていくことが必要なのである。
本稿で私が提起した、指導部に対する異論の公然たる提出を含む活発な党内討論というのは、まさに、そのための方策でもある。これによってこそ、個々の党員の頭の中に、柔軟性と強靭さを兼ね備えたものとして、党の方針が創出されていくからである。
(2)組織の質の改善こそが組織の量の拡大につながる
同時に強調しておきたいのは、このような自由闊達な討論が行われるようになってこそ、党組織の活動量そのものの引き上げが可能になる、ということである。私は、先の第二十五回党大会について論じた文章(「週刊かけはし」2010年3月15日号)の中で、幽霊党員の激増の原因は党活動が「面白くない」ことであると論じたが、活発な討論は党活動に対する「面白さ」を取り戻すことになるであろう。これこそが、党活動を離れた党員を活動に復帰させるとともに、広く新しい党員を迎え入れる最大の原動力となるのである。組織の質の改善への取り組みこそが、組織の量的な拡大へとつながっていくのである。多くの幽霊党員を生み出す党活動のあり方そのものを根本的に再検討することなしに、党員・読者の拡大ばかりを叫ぶようでは、党員・読者を増加の軌道に安定的に乗せていくことはできない。
このことはまた、日本共産党と他の諸々の組織との関係についても大きな変化を与えるものとなりうる。革新票の激減という参院選結果に示された現在の情勢の深刻さは、いわゆる統一戦線の構築という課題を鋭く提起する。この課題そのものをしっかりと認識すると同時に、それを果していくための主体的な条件づくりとしても、党内討論の活発化を位置づけていくべきである。日本共産党の個々の党員が、党の方針や政策を柔軟性を持って語れるようになっていくことは、他の左翼諸党派や市民運動団体との従来の枠を超えた協力関係を構築していく上で、絶対に欠かせないからである。
第二回中央委員会総会では、これらの点を踏まえた真剣な総括がなされることを期待したい。
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