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宮島理
提供:フリーライター宮島理のプチ論壇 since1997
2010年08月23日19時41分
駒村康平・慶応大学教授と松谷明彦・政策研究大学院大学教授の対談記事で、駒村氏が興味深いエピソードを紹介している。
「あるところで年金の話をしたら、年配者から『2020年がどうなろうと、おれの知ったことではない。年金はともかく1円も下げるな』とか『子どもにお金を回すなら高齢者に回せ』という発言があった。有権者が高齢化すればこうした声はますます大きくなるのではないか。社会保障が世代間の助け合いのシステムだと理解しない人が増えている」(毎日新聞 )
まさに、私が「世代間格差と敬老精神──『お年寄りを大切にする』と『ワシを敬え』の決定的な落差」 で書いたような発想に陥っている高齢者がいるということだ。近年の日本社会の精神性を表すものは、このような引退世代の悪しき利己主義、「ワシだけを一方的に敬え」という「敬ワシ精神」である。
つまり、「未来とか成長なんてどうでもいいから、とにかく今あるカネをワシに分配しろ」という精神が蔓延っている。もう少し上品な言い方をすれば、「日本は成熟社会で成長の限界に達しているのだから、これからは競争や投資を制限して、保護と再分配を重視しましょう」という理屈である。
なぜそういう精神が蔓延るのか。それは、自分自身の精神の衰えと国家の衰退を混同している人が増えているからだろう。さらに歴史観が欠如しているから、「自分が死んでしまえば、国家もないに等しい。だから、できるだけストックを食いつぶしてやる」という、刹那的でありながら同時に自己保身的な発想になる。そこまで刹那的にならなくても、(生産性向上ではなく)反成長の立場から日本の成熟社会化を論じ、「まったり生きよう」だの「江戸時代のようになろう」だのといったことを言う人はいくらでもいる。
精神の衰えと実年齢は関係ない。20代、30代でも、すっかり衰えている人はいるし、逆に60代、70代でも、進取の気性に富んだ人はいる。ただ、一般的に実年齢とともに精神が衰えることが多いので、高齢化ニッポンでは、「国家道連れ願望」のようなものが大きくなっている。
所得倍増計画を支えた下村治も、そのような精神から逃れられなかったように思う。成長論者としての下村は、所得倍増計画当時、世間からの批判にもひるまず、イノベーションの力を信じて持論を曲げなかった。
「こういう批判があったのですよ。設備投資が盛んなのはけっこうだけれども、どんどん設備投資をやれば生産力は増える。それでは供給過剰になるじゃないか、という……。つまり供給が過剰になるのであって、成長にはならないというのですよ。需要がどこから出てくるか、というわけです。(略)
これはつまり、成長というものが、インノヴェーション、生産性向上、産業の高度化によって、うまく実現できるということが、過去のヨーロッパや戦前の日本の経済成長が非常に制約されていたことから、どうしてものみこめなかった、ということでしょうね」(三國一朗・井田麟太郎編『昭和史探訪』より所得倍増計画を回想する下村の発言)
ほんの10年前にもどこかで聞いたような話である(笑)。下村を尊敬しているという竹中平蔵氏による経済政策もまた、「供給過剰になるだけだ」「需要を喚起するのが先だ」と批判された。所得倍増計画当時の日本でも、反イノベーションの思想は存在したが、平成ニッポンと違って、所得倍増計画を妨害しないだけの進取の気性を多くの国民が持っていた。
成長論者だった下村は、晩年になって反成長へと「転向」した。晩年の下村は「経済的に高い水準を達成したうえでのことだが、ゼロ成長の日本は江戸時代のような姿になるのがいい。経済の後には文化とか芸術とか教養に力を入れる時代になるべきじゃないのかな」と語っていたという(水木楊著『思い邪なし』より)。反成長、反イノベーションの思想が江戸時代を観念的に美化するというお約束は、下村にもあったのかもしれない。最後に、小泉首相が最初の所信表明演説で言及した「米百俵の精神」を改めて紹介したい。今こそ、この精神を取り戻すことが必要ではないだろうか。
「社会保障制度は、国民の『安心』と生活の『安定』を支えるものであります。今世紀、我が国は、いまだ経験したことのない少子高齢社会を迎えます。これからは、『給付は厚く、負担は軽く』というわけにはいきません。社会保障の三本柱である、年金、医療、介護については、『自助と自律』の精神を基本とし、世代間の給付と負担の均衡を図り、お互いが支え合う、将来にわたり持続可能な、安心できる制度を再構築する決意です。(略)
明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。
新世紀を迎え、日本が希望に満ち溢れた未来を創造できるか否かは、国民一人ひとりの、改革に立ち向かう志と決意にかかっています」(2001年5月7日の小泉内閣総理大臣所信表明演説 より)
「山本有三の戯曲<米百俵>の中で、虎三郎は『早く、米を分けろ』といきり立つ藩士たちに向かってこう語りかける。
『この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……』」(長岡市ホームページ より)
今の経団連系の発言は、まさに「2020年がどうなろうと、おれの知ったことではない」に見える。
また、小泉は、確かに述べていたが、言ったことと行ってきたこととが違いすぎる。
これもまさに「2020年がどうなろうと、おれの知ったことではない」なのだろう。
まだ間に合うのか、手遅れなのか判断は、出来ません。
でも、新自由主義は、「2020年がどうなろうと、おれの知ったことではない」ですよね。
まさにその時の満足を得られれば何でもあり。
将来なんて如何でも良い。
原子力発電も太陽光発電も今が、良ければ・・・
確かに農耕狩猟民族以外の者にとっては、金が全てだったのでしょう。
でも、それを全ての民族(他民族が流されてしまった?)に当てはめようとするのは・・・
このような状況がそれほど長く続くとは、思えません。
どこかで綻びが、生じてくるでしょう(もう始まっているかも)。
高齢者の国家道連れ願望は、国会議員(引退落選を含めて)の面々を見ればよく分かる。
若くても同じように考えている連中多いと思う。
国、人類のためになんて考える事は、少なくなってしまった
・・・・・
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