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≪野蛮なテロ国家“米国”、広島・長崎の原爆投下の真相〜当時から現在へ受け継がれる問題、他(後編)≫
http://www.asyura2.com/10/senkyo92/msg/482.html
投稿者 Roentgenium 日時 2010 年 8 月 15 日 16:30:08: qfdbU4Y/ODJJ.
 


(前回、24頁からの続き)


≪ユダヤ・フリーメーソンが支配する野蛮なテロ国家“米国”、広島・長崎の原爆投下の真相〜当時から現在(Inferno 地獄 からPurgatorio 煉獄?)へ受け継がれる問題、他 【続編】≫

〜利をもって合する者は窮禍患害に迫られて相棄つ 天をもって属する者は窮禍患害に迫られて相収む(荘子)〜


Roentgenium:前回に引き続き、この表題に関する資料を厳選して纏めてゆきたいと思います。
すべて転載すればかなり膨大な活字量になるので、大部分はURLをクリックして読んでいただく形をとらせていただきますが、何か少しでも役立つものがあれば幸いです。

国の責任を訴える様々な訴訟があるが、当時と今では国のあり方が違っている。当時日本を牛耳っていたのは、皇族、貴族、エリート軍人たちだった。
本来、当然その責任を追及して訴えなければならない筈だが、いつの間にか漠然とした“国”への責任追及となってしまっている。勝訴しても庶民同士の共食いになってしまうのではないか?

しかしながら、それら支配層たちは現在の日本においても公然と支配を強めている。支配層は、昔も今も甘い汁を吸い続けている。
更にその上には、日本の外部からの強力な絶対的支配がある。まさに二重支配と二重の搾取、である。


●Leaflets Dropped On Cities In Japan(悪魔が1945年8月8日に日本の各都市に投下したチラシ)


 日本の人々に:アメリカ合衆国はこのリーフレットで我々が言うことにあなた方の速やかな注意を向けるよう申し上げる。
 我々は人類が発明した中でも最も破壊力のある爆弾を所有している。
 我々が新しく開発した原子爆弾の一つ一つが巨大なB-29爆撃機が単一の任務で積載する爆弾の2000機分に実際に匹敵する。
 この恐るべき事実はあなた方にとっては熟考するべきものであり、我々は断固としてこれが正確であることを厳粛に保証する。
 我々はあなた方の国土に対してこの兵器を使用し始めたところである。

 今だ疑いを持つならば、たった一つの原子爆弾が投下された時、広島で何が起こったかを聞いてみることだ。
 この無益な戦争を引き伸ばしている軍隊の全ての資源を破壊する為にこの爆弾を使用する前に、天皇に今直ぐ戦争を終えることを嘆願するように我々はあなた方に申し上げる。
 我々の大統領(トルーマン)はあなた方の為に名誉ある降伏の13の結果の概略を述べた。
 あなた方がこれらの結果を受入れ、新しく、より良いそして平和を愛する日本を築き始めることを我々は強く勧める。
 軍隊の抵抗を終わらせる為の行動を今起こすべきである。
 さもなければ、我々はこの戦争を速やかに、武力によって終わらせる為、固い決意の下、この爆弾そして更に優れた兵器全てを行使するものである。


●『神曲』地獄篇第3歌 (山川丙三郎 訳)


 我を過ぐれば憂ひの都あり、
 我を過ぐれば永遠の苦患あり、
 我を過ぐれば滅亡の民あり

 義は尊きわが造り主を動かし、
 聖なる威力、比類なき智慧、
 第一の愛我を造れり

 永遠の物のほか物として我よりさきに
 造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、
 汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ


Leaflets Dropped On Cities In Japan(原文)
http://www.pbs.org/wgbh/amex/truman/psources/ps_leaflets.html

広島市への原子爆弾投下 - Wikipedia ←被害状況や経緯、症状などについて一通り詳細に書かれているので大変参考になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B

[Image Photo] Illust
http://news.livedoor.com/article/image_detail/3764468/?img_id=468509

http://news.livedoor.com/article/image_detail/3764468/?img_id=468508

http://news.livedoor.com/article/image_detail/3764468/?img_id=468511

http://news.livedoor.com/article/image_detail/3764468/?img_id=468510

http://news.livedoor.com/article/image_detail/3764468/?img_id=468507

http://news.livedoor.com/article/image_detail/3764468/?img_id=468506

[Image Photo] 原爆の子の像
http://www.geocities.jp/makinojy/_gl_images_/DSC_06260001.JPG

原爆の子の像 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%83%8F


◆   ◆   ◆


(26頁へ続く)

(25頁からの続き)


■広島や長崎の残留放射能について、検証 その3


【参考資料】

被爆建造物 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E7%88%86%E5%BB%BA%E9%80%A0%E7%89%A9

広島原爆規模で計算すると、強く影響があるのは被爆後100時間、被爆前と同じレベルに戻るのは1年とされている。
よって現在、日本にある被爆建造物から人体に影響を及ぼす程の放射能は発生していない。

未だ爆弾による放射能が発生していると誤解されているのは理由がある。

広島原爆投下2日後の1945年8月8日付ワシントン・ポスト紙に、
「原爆の脅威に曝された地域は約70年間放射線が消えないと実験で示された」と、マンハッタン計画に携わったハロルド・ジェイコブソンの談話が載った。

これにアメリカ政府は糾弾を恐れすぐさま揉み消しにかかり、ロバート・オッペンハイマーがこれを否定し後にジェイコブソンも自身の発言を否定した。
一方でアメリカは未だ降伏しない日本に対し「広島は75年間人畜の生存を許さぬ土地となった。また被害調査の為、学者を派遣する如き行為は自殺に等しい」と情報操作をした。

終戦後の同年8月下旬、これをソース(情報源)に朝日新聞や毎日新聞などの各紙が70年或いは75年生物不毛説を報道した。
これに加え、投下後に入市被爆した被爆者が数多くいる事から、建造物も未だに人体に悪影響があると一部で風説が残っている。
更に、放射性物質が消えたことに関しては、原爆投下1ヶ月後に上陸した大型台風の枕崎台風により洗い流されたという説もある。

また、戦後アメリカの主要な核実験場(クロスロード作戦)として有名なビキニ環礁も、現在では短期間の滞在では問題ないレベルまで下がっている。

広島市への原子爆弾投下 - Wikipedia ←被害状況や経緯、症状などについて一通り詳細に書かれているので大変参考になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B

【8.6探検隊】外国の人が「放射線汚染続いてるの」 - 10代がつくる平和新聞 ひろしま国
http://www.chugoku-np.co.jp/hiroshima-koku/exploration/index_20070514.html

【8.6探検隊】米国は何故、原爆を2種類造ったの? - 10代がつくる平和新聞 ひろしま国
http://www.chugoku-np.co.jp/hiroshima-koku/exploration/index_20080310.html

金沢大学における原爆中性子誘導核種152Eu の測定 (U)全10頁 ※金沢大学の研究で、原爆ドーム内で放射能を測定した報告書
http://hlweb.rri.kyoto-u.ac.jp/shibata-lab/DS02/Final_pdf/Komura.pdf

原爆と平和に関するQ&A - 広島市
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/genre/0000000000000/1001000002130/index.html

微生物による土壌の浄化、放射能を帯びたヘドロの処理が電力会社の頭痛の種 - 微生物と共存するライフ
http://now.ohah.net/earth/ecology/index1.shtml?soil/1.shtml

広島市の下水道事業(自治体からみた包括委託事業) - 環境ビジネス.jp
http://www.kankyo-business.jp/water/water_business_05.html

日本で動き始めた外資の狙い、ヴェオリア・ウォーター・ジャパン - 環境ビジネス.jp
http://www.kankyo-business.jp/water/water_business_02.html

広島平和研究所
http://serv.peace.hiroshima-cu.ac.jp/

汚い爆弾の起源 ─米軍と放射能兵器 by Robert Jacobs - 広島平和研究所(全1頁)
http://serv.peace.hiroshima-cu.ac.jp/dletter/n3006.pdf

注目箇所「」

しかしながら2007年10月、AP通信の軍事記者ロバート・バーンズが、こうした兵器の使用を過去に誰が検討してきたかを明らかにする記事を発表した。
バーンズは、「敵地一帯の汚染や軍の基地・工場・部隊の攻撃」や「軍部・民間の指導者といった重要人物」の暗殺をも行う為に「原爆の製造で出た放射性物質」を使用するという、
「陸軍の最上層部が承認した」1948年の米国の極秘計画について語っている。

このメモは1948年7月付で、広島と長崎への原爆投下から3年も経っていない。
この間に米国は、日本の両都市において、放射線被爆が人間に及ぼす影響を調べる原爆傷害調査委員会(ABCC)を設立している。
広島・長崎への原爆投下の翌年、米国は南太平洋のビキニ環礁で核兵器実験を行っている。

(略)

1947年に書かれたビキニ実験の公式な極秘評価資料から、米軍がこの爆弾を放射能兵器として再評価していたことや、バーンズが見つけたメモの出発点が見えてくる。

「爆弾を水中爆発させた場合、死の残留放射能の方が、爆発によって起きる物的損害よりも重要となる。(中略)
都市に近接する水域で爆弾が爆発すれば、放射線の影響は非常に大きくなる。
これによって環状雲が発生し、核分裂生成物に汚染された水の粒子が風に運ばれて広範囲に拡散し、直ちに死を齎すのみならず、
放射性粒子が堆積して建造物を汚染することにより、長期に及ぶ危険ともなるのである」

これを理由の一つとして、「原爆は、人命並びに大都市や工業地域の活動に対して使用するには優れた兵器である」との結論が出されている。
そして報告書は、放射能を兵器として用いることの有効性を、心理面から次のように鮮やかに描いている。

「原爆による攻撃で放射能の霧に包まれた近代都市にどんな複合的な災害が起きるか、それを適切にイメージすることは不可能だ。
汚染地域の生存者の中には、原爆症で数時間後に死ぬ運命にある者もいれば、数日後、数年後の者もいる。
だが、こうした地域は、風や地形によって作られる場合もある為、広さや形に決まりがなく、目に見える境界線がない。
生き残った人間で、自分は死ぬことにはならないと確信出来る者はいない。故に何千人もが、その時点での恐怖に加えて、死への恐怖、そしてその時がいつ来るかという不安に襲われることとなる」

「何千、いや何百万人もの避難民がパニック状態で町から逃げ出すと、未だ残っている交通機関の機能も停止し、幹線道路は渋滞し、逃げる過程でまた新たな命の危険が発生する。
さしあたって避難民は他と区別がつかないが、衣服や持ち物が汚染されている者も多く、それが危険な放射能への恐怖を他の者に起こさせ、独特な心理面の危険を生み出す可能性があるのだ」

イエスズ会、フランシスコ・ザビエルと8月15日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB

http://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8815%E6%97%A5

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AF%8D%E3%81%AE%E8%A2%AB%E6%98%87%E5%A4%A9

注目箇所「」

聖母の被昇天(ひしょうてん)とはカトリック用語で、聖母マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという信仰、或いはその出来事を記念する祝い日(8月15日)のこと。1950年、当時のローマ教皇ピウス12世によって、正式に教義として宣言された。
元来は、正教会の生神女就寝が6世紀ごろに西方に伝わったものだが、信仰の内容はその後、西方独自の発展を遂げた。

正教会では、8月15日(ユリウス暦の場合はグレゴリオ暦の8月28日に相当)に生神女就寝祭を祝う。
これは「聖母の被昇天」とは違い、マリヤの死を「就寝」「眠りにつく」とし、原世の肉体でそのまま天にあげられたとは看做さず、むしろ魂のみが天にあげられ、来世の栄光の体を与えられたとする。またマリヤ信心は、信仰のうちに自ずとくだされる私的啓示として理解されるものであり、教義として理屈抜きで信じるべき内容ではないと考える。

【聖母被昇天の祝日に起きた主な出来事】

イエズス会結成(1534年)、
アスンシオン(パラグアイ共和国の首都。名前は“聖母の被昇天 Asunción de María”に由来)建設(1537年)、
フランシスコ・ザビエルら、日本到着(1549年)、
イエズス会が京都に建設した聖母被昇天教会、通称「都の南蛮寺」の献堂ミサが行われる(1576年)

神道とカトリックとの関連について:平成天皇はカトリック教徒?- バルセロナより愛を込めて 2005年1月2日
http://www.asyura.com/0411/bd38/msg/373.html

天皇家とキリスト教など - MILLENNIUM
http://www.path.ne.jp/~robcorp/cgi-bin/home.cgi

注目箇所「」

宮内庁はイギリス聖公会の信者が多いそうで、どちらにしろ、皇室はキリスト教贔屓であることは確かなようです。宮廷の半数をクリスチャンで固めているとも聞きます。
事実、天皇家の人選は、クリスチャンに偏っています。

今上天皇が皇太子だった頃、家庭教師にヴァイニング夫人というクエーカー教徒を選んでいますし、お后には雙葉、聖心と一貫してキリスト教系の学絞で学ばれた美智子様を選んでいます。
三谷隆信侍従長、浜尾実、杉井侍従、入江侍従、村井長正など、侍従にはクリスチャンが多く、常陸宮は無教会派のクリスチャン村井侍従の影響でクリスチャンになったといいます。
田島道治宮内庁長官、前女官長の松村淑子、現女官長の井上和子はクリスチャンです。美智子さまのご結婚を推進なさった東宮参与の小泉信三も、臨終洗礼を受けたといいます。

浜尾実侍従の弟・浜尾伺郎は現在バチカン市国の大司教をしており、かつて天皇陛下にラテン語のご進講をしました。
浜尾実氏は、「私自身、20歳のクリスマスに洗礼を受けています。宮内庁入りする6年前のことだし宮内庁は全て知った上で、私を入れたわけですから、クリスチャンであることは一向に構わなかまわなかったわけですね」と述べました。

現在の皇太子の音楽教師も、カリスマ派のクリスチャンが務めていました。昭和天皇は美智子妃がクリスチャンだということで迫害したという話がありますが、それも誤解であることがわかっています。
昭和天皇自ら、入江侍従を通じて鈴木東宮大夫にこうお伝えになったそうです。
「このようなことは事実でないばかりか、心に思ったことさえなかった。こういう問題がむし返されて時々出てくるので、美智子が可哀相なので念の為に・・・・」

明治天皇の側近には、オランダ系米国宣教師フルベッキがおり、明治天皇の和歌には信仰がなければ歌えない歌が数々あると言われています。
昭和天皇、今上天皇皇后両陛下は、牧師を招いて聖書講義を受けています。

「天皇のロザリオ」:宮中深く侵襲するカトリック勢力 - 株式日記と経済展望 2006年7月4日
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/f3101178c8ea3ee61102449ac81ad405

小和田雅子研究所〜皇室典範改正問題を語る前に知っておくべきこと ※小和田恒・優美子夫妻と創価学会(大鳳会)、江頭 豊と水俣病、他
http://ameblo.jp/imperialfamily/


◆   ◆   ◆


(27頁へ続く)

(26頁からの続き)


■ウラン残土がレンガ(放射能レンガ)に化けて(政府主導で)販売されていることについて 、検証 その1


【参考資料】

YouTube - ウラン残土がレンガに化けて販売! 放射能レンガ TBS「報道特集」2010年5月29日放送分(1-2)[10分51秒]
http://www.youtube.com/watch?v=QsmuXPDANek

YouTube - ウラン残土がレンガに化けて販売! 放射能レンガ TBS「報道特集」2010年5月29日放送分(2-2)[10分52秒]※江田五月氏も登場
http://www.youtube.com/watch?v=DOcVfPJhR1I

放射線を出すレンガ・・・・そのワケは? - 報道特集 2010年5月29日放送
http://www.tbs.co.jp/houtoku/onair/20100529_2_1.html

独立行政法人日本原子力研究開発機構人形峠レンガ加工場で製造されたレンガの利用について - 文部科学省 2009年5月25日
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/05/1267483.htm

「本レンガは、平成18年の文部科学大臣、鳥取県知事、三朝(みささ)町長、日本原子力研究機構理事長の合意に基づき、
鳥取県湯梨浜町(ゆりはまちょう)におけるウラン探鉱活動により生じた残土から製造したものです。
文部科学省は、この合意の一員として、本レンガに対する一般の方々の理解を深めていただく為、日本原子力研究開発機構とともに、この度、率先して利用を行うことと致しました。
具体的には、新庁舎2階と旧庁舎1階のエントランスにおいて、室内花壇などとして利用します。
尚、本レンガについては、日本原子力研究開発機構が、第三者機関である(財団法人)原子力安全技術センターに依頼して物性確認試験を行っており、
昨年9月、一般に使用するにあたり安全上の問題はないとの確認を得ています」

ウラン残土処理でれんが搬入始まる - 山陰中央新報 2010年7月12日
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=520770005

「ウラン残土製れんがは、今年5月末現在で88万個が製造され、一般市民への有償頒布や、同機構の拠点で花壇、道路の舗装などに利用されている」

ウラン残土れんがでモニュメント 鳥取・三朝町 - MSN産経ニュース 2010年8月2日
http://sankei.jp.msn.com/region/chugoku/tottori/100802/ttr1008020351000-n1.htm

人形峠製レンガの頒布のお知らせ(一般への販売) - 独立行政法人日本原子力研究開発機構(JAEA)
http://www.jaea.go.jp/04/zningyo/brick/index.html

独立行政法人日本原子力研究開発機構(JAEA)
http://www.jaea.go.jp/

全国10の原子力機構事業所を残土の処分場にする鳥取県方面のウラン残土レンガ問題 - 市民ネット・岐阜のHP
http://www5b.biglobe.ne.jp/~renge/index.htm


◆   ◆   ◆


(28頁へ続く)

(27頁からの続き)


■ウラン残土がレンガ(放射能レンガ)に化けて(政府主導で)販売されていることについて 、検証 その2


【参考資料】

ウラン残土がレンガに - 高世 仁の「諸悪莫作」日記 2010年5月29〜31日

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20100529

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20100530

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20100531

注目箇所「」、注釈≪≫

29日、TBS「報道特集」で人形峠の「ウラン残土がレンガに」の特集が放送された。
僅かだが放射線を出すレンガが、日本で既に64万個使用され、来年半ば迄には100万個生産され、原子力研究開発機構から売り出されて全国に散る予定になっている。
レンガの原料は、人形峠の「ウラン残土」だ。機構のホームページには「人形峠製レンガの頒布のお知らせ」が載っている。

http://www.jaea.go.jp/04/zningyo/brick/index.html

使用促進の宣伝と思われるが、農水省、文科省や参院議長公邸などの花壇にも使用されている。
江田五月参院議長の去年7月6日のブログには、
「10時半から、日本原子力研究開発機構の石村理事、庄子東京事務所長らが来られ、先日購入した人形峠のレンガで花壇を作りました」とある。

http://www.eda-jp.com/katudo/2009/7/6.html

何故こんなことが起きているのか・・・・。人形峠と言っても若い人は知らないだろうが、ここは日本の原子力開発の「原点」だ。

≪53年、米国は「アトムズ・フォー・ピース」という方針を打ち出し、軍事用だった原子力の平和利用に舵を切った。
翌54年、日本では、改進党代議士だった中曽根康弘元首相※が旗振り役になって、初めて原子力関連予算が成立した。≫
「原子力平和利用研究費補助金」が2億3500万円と、ウラニウム資源調達費1500万円。前者の金額は、ウラン235にひっかけている。

[※Roentgenium:中曽根康弘―原発利権、三菱重工―D・ロックフェラー―正力・ナベツネ・与謝野―MRA―松下政経塾、松下幸之助―統一教会、国際勝共連合―MI6]

≪bucknumber2009 『「MRA(道徳再武装)」、「松下政経塾」、「統一教会」、「CSIS」等について検証』2010年6月改訂版≫
http://kyosukeyamashina.blog62.fc2.com/blog-entry-383.html#commenttop

ウラン鉱床探しが本格化し、55年、鳥取・岡山両県に跨る(またがる)人形峠でウラン鉱床の露頭が見つかった。
ウランは夢の新エネルギーとして持て囃され、「ウラン節」なる歌まで作られて盛んにウラン採掘が行われた。
結局、日本のウラン鉱床はコストに合わず、ウランは海外から調達することになり、87年採掘は終わった。

ウラン採掘の過程では大量の土砂が掘り起こされ「残土」として鉱山の傍に置かれていた。
それが88年8月15日の「山陽新聞」が「放射性物質含む土砂放置/民家近く20年間」との見出しで、周辺土壌の30倍の放射線が出ていると報じたことから、「残土」は社会問題になっていく。

鳥取県の旧・東郷町の方面(かたも)地区の住民が、残土撤去を要求。
ここは残土置き場が住民の土地で、その住民らが土地の使用契約の更新を拒否した為、残土は違法に土地を占拠する形になった。
当時の「動燃」(今は独立行政法人・原子力研究開発機構)は残土撤去を約束するも、その約束は守られ、時間ばかりが過ぎて行った。

理由の一つには、住民側が「動燃」(98年、核燃に名称変更)の人形峠事業所(現・人形峠環境技術センター)に残土を運び込むよう要求したのに対し、
当時の岡山県知事が、「鳥取県で危ないと思われるもの」を岡山県が受け入れるなどということは出来ないと強硬に反対したこともあった。
ただ、この間、国、自治体、「動燃」の間で、住民の切り崩し工作を含め、相当の「暗闘」があったと関係者は言う。

≪00年、住民側は裁判を起こした。異例なことに鳥取県知事がこの裁判を支援し、訴訟費用を県と町が肩代わりした。
当時の県知事とは片山善博氏(現・慶應大学教授)である。≫

04年、1審、2審、最高裁と全て住民側の勝訴に終わった。
しかし、時間が過ぎるのに受け入れ施設を用意出来ず、撤去出来ない。制裁金は1日当たり75万円!最終的に、総額1億4000万円にも膨れ上がった。おそるべき無駄金である。

独立行政法人・原子力研究開発機構の人形峠環境技術センターでは、ウラン坑道を見学出来る。「夜次(よつぎ)南2号坑」で、中に溜まったラドンガスを換気してから中に入る。

坑道の両脇、闇の中にぼーっと緑の光が見える。ウラン鉱床である。幻想的で美しい。
ウランは紫外線にあたると緑に光る性質を利用し、見学者用にブラックライトを当てているのだ。私のあまり性能の良くないカメラでも何とか写った。

さて、方面(かたも)の残土である。

≪問題になった残土は、計3000立方メートル。うち290立方メートルは放射線レベルが高く、「準鉱石」として米国に送られた。ウランが抽出された後、米国で処理されたという。
残りの約2700立方メートルはどうするか。撤去が遅れ巨額の制裁金が加算され、国も機構も追い詰められていた。
そこに、残土をレンガにするという奇策が出た。案を出したのは、当時の文部科学大臣、小坂憲次氏。これが鶴の一声でたちまちそれに決まったという。≫

結局、残土が撤去されたのは06年11月。残土は、岡山県が搬入を拒否する中、岡山県側にある人形峠センターには搬入出来ない。
そこで、センター直ぐ傍の鳥取県側の土地に残土を運び込み、レンガ加工場を建てた。

4月末、この加工場に入った。

レンガの工法は焼くのを含めいろいろあるそうだが、ここでは「セメント固化方式」を採っている。
先ず、はじめは残土の「ブレンド」作業から始まる。放射線レベルの高い部分の土は、低い土とブレンドして均一化する。これにセメントを混ぜてレンガに成型される。
ブレンドの結果、レンガから出る放射線が0.22マイクロシーベルトになるよう調整されている。

去年4月から一個90円で頒布が始まった。この価格は平均かやや高めくらい。但し、このレンガ製造の為に新たに加工場を建設し、それは来年半ばには製造が終われば用済みになる。
20年近い撤去騒動の過程でかかった費用は、制裁金をはじめ莫大な額になる。原子力機構は、計算をしていないというが、とんでもないコストがかかっているはずだ。

既に64万個が全国各地で使用されているという。多くは原子力機構の関連施設に引き取られて行ったが、21万個は一般に売られたという。
原子力機構は、室内で花壇などに使っても大丈夫という。気になるのは安全性である。

ウラン残土を原料とする人形峠製レンガ。その放射線のレベルは人体に危険なのか。
原子力機構はホームページで、残土レンガと他の一般に使われているものとの放射線量の比較を載せ、レンガの放射線量は微量で「留意すべきことはない」と言う。

≪人形峠の近くには、名物のラドン温泉があり、こういうところは放射線レベルは高い。むしろこの高さをウリにしてきた。
これを裏付けようという研究もある。微量の放射線は体に良い効果を齎す「ホルミシス効果」があるとする説もある。

一方、反対に、法令で定める値は便宜的なもので、被曝に安全ということはない、いくら微量でも被曝のおそれのあるものは人体に近付けてはならないという主張も当然ある。
微量の放射線の危険性については、未だよく分からないようだ。≫

≪安全性の議論は別として、残土の処理に困ってレンガにして売り出すという処置が、壮大な無駄であることは間違いない。≫

実は、人形峠ウランの採掘で出た残土の堆積場は、今も鳥取・岡山両県に22ヶ所残っている。
ウラン残土が問題化した時には、残土の管理の仕方は規制されていなかったが、翌年の89年、鉱山保安法が改正され、残土置き場への立ち入り制限と、放射線量の管理が義務付けられた。

写真は、岡山県鏡野町・中津河(なかつごう)の残土堆積場。残土は別の土で表面を覆う「覆土」(ふくど)処理がなされ、周りを有刺鉄線で囲んである。

残土撤去の大騒動は、方面(かたも)地区だけで起きたもので、3000立方メートルという量は、残土全体の極々一部に過ぎない。
それですら、レンガに加工するなどという苦し紛れの奇策と言ってもよい方法でしか「処理」出来なかったのである。

原発は、残土問題に見られるように、その入り口のウラン採掘でも、また高レベル、低レベル廃棄物という形で、出口でも、解決すべき様々な問題を積み残している。

経済産業省などは、発電量1キロワット時あたりの発電コストを、原子力 5.3円、石炭 5.7円、石油 10.7円と評価した(04年)。
しかし、政府の原発に対する財政支出、原発の立地・運転・使用済み核燃料の処理費用などの情報を加味すると、原子力 10.68円、火力 9.9円、水力 7.26円となり、
更に、原発の夜間の電力を利用する揚水発電のコストを含めると、原子力は12円にもなり、非常に割高になる。これは先日、ある研究者(立命館大学の大島堅一教授)が発表した試算だ。

温暖化ガス25%削減が発表され、海外への原発輸出が促進される中、
原発が一躍脚光を浴びているが、もし、原発を推進するとするならば、それに付随するリスクとコストへの「覚悟」が我々に求められるだろう。


◆   ◆   ◆


(29頁へ続く)

(28頁からの続き)


■ウラン残土がレンガ(放射能レンガ)に化けて(政府主導で)販売されていることについて 、検証 その3


【参考資料】

ウラン残土レンガとラドンガス発生タイルで良いのか、ウラン残土の後始末(原発の入り口の後始末) - れんげ通信ブログ版 2010年2月16日
http://rengetushin.at.webry.info/201002/article_4.html

注目箇所「」、注釈≪≫

週刊誌『AERA』 が【ウラン汚染れんが「百万個」が来るスクープ 原発の起点「人形峠」発】というタイトルの記事を掲載していました。
長年放置してきた、鳥取県湯梨浜町(旧東郷町方面)のウラン残土を、レンガに加工して販売したり、原子力機構の施設で使わせる計画が、動き出しています。
私たちから見た、ウラン残土レンガの経過は「鳥取県方面のウラン残土問題」に。資料などもアップしています。

全国10の原子力機構事業所を残土の処分場にする鳥取県方面のウラン残土レンガ問題 - 市民ネット・岐阜のHP
http://www5b.biglobe.ne.jp/~renge/index.htm

ウラン残土レンガは文部科学省、参議院議長公邸、農林水産省などに搬入されました。
文部科学省は花壇にしていますが、花壇の花は『造花』ばかりだったと知人が報告してくれました。
せっかくの花壇に何故、造花を飾るのか。レンガの提唱者である文部科学省のこの対応が、このウラン残土レンガの本質を示しています。

その他に、岡山県鏡野町(旧上斎原村)の人形峠にもウラン残土があります。
このウラン残土は、原子力機構がラドン温泉と同等のラドンが出るように技術開発!?(放射能の高い部分と低い部分を混ぜ合わる等してあまりに高い値を避ける?)して、
「Doll-Stone」を『開発』し、(株)人形峠原子力産業が製造し、

http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/001/253/27/N000/000/000/126628117203516320586.jpg

画像は2008年4月の原子力機構 産学連携推進本部のパンフ「研究成果を未来産業へ」の2ページです。「人形峠の贈り物」とは!白雪姫に出てくる魔女のリンゴのようです。

独立行政法人日本原子力研究開発機構(JAEA)
http://www.jaea.go.jp/

人形峠で発生したウラン残土はラドンを放出する、素焼きのタイルにして、東京その他で、実際に使われています。
愛知県田原市では、「マザーリーフサロン」・・ホルミシス臨床研究会会員のラドン温浴サロン 独立行政法人日本原子力研究開発機構の監督のもとで人形峠原子力産業株式会社の開発によるテラコッタタイルDOLLSTONE」をセールスポイントにしています。


ホルミシス臨床研究会の医師が認めたラドン温浴サロン:マザーリーフサロン - 有限責任中間法人ホルミシス推進協力会
※「独立行政法人日本原子力研究開発機構の監督のもとで人形峠原子力産業株式会社の開発によるテラコッタタイル DOLLSTONE」を使用している。
http://www.motherleaf.ne.jp/hpa.html

ウラン残土レンガにしろラドンガス発生タイルにしろ、事業が立ちゆかなくなったり、別のはやりものに変えるなどいずれは廃棄物として捨てられてしまいます。
ウランの寿命を考えた時、こうして拡散することが、原子力利用の後始末として許されるのでしょうか。

タイルは、ラドン温泉相当の放射能を発生させるので、レンガより放射能は高い値だと思います。

<余談>

超深地層研究所の地下120m〜180mは月吉ウラン鉱床の外れにあたり、超深地層研究所の掘削で掘り出したウランを含むズリを、事務所の裏に積み上げています。

研究坑道掘削工事に伴う環境管理測定状況 C堆積場における空間放射線量率測定値 平成18年6月20日撮影
http://www.jaea.go.jp/04/tono/an_miuradio/4.html

いずれ(期日は不明)超深地層研究所を埋め戻す時に埋め戻すことになっています。
こうした状況から、原子力機構の超深地層研究所事務所で写真にあるタイルを表紙にしたパンフレットを見つけた時、
「超深地層研究所のウランズリもタイル等にして捨てるのでしょうね」と知人に話しかけたら、側で聞いていた原子力機構の職員が「私たちはそんなことしません」とすかさず答えました。
同じ原子力機構です。信用しません。

私たちはとりあえず管理して、研究が終わり次第、地下水から隔離して、埋め戻すしかないと思っています。運び出して、拡散させることは出来ません。
しかし、高レベル放射性廃棄物、TRU廃物の処分場、研究所等廃棄物などは、決して受け入れません。


◆   ◆   ◆


(30頁へ続く)

(29頁からの続き)


■NHKスペシャル『封印された原爆報告書』で取り上げられた内容について、検証 その1


【参考資料】

封印された原爆報告書 - NHKスペシャル 2010年8月6日
http://www.nhk.or.jp/special/onair/100806.html

http://navicon.jp/news/8890/?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed%3A+navicon-news+%28%E3%83%8A%E3%83%93%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%80%80%EF%BC%8D%E3%80%80%E7%B7%8F%E5%90%88%E3%80%80%29

NHKスペシャル『封印された原爆報告書』 - PANDORA.TV ※視聴制限がありますので、登録されている方しか視聴出来ませんが、一応紹介。
http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=fx_keaton&prgid=38786361&categid=all&page=1

NHKスペシャル『封印された原爆報告書』 - 飛耳長目 国際紛争の心理 2010年8月7日←大まかですがキャプチャーで内容紹介されています。
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/32727787.html

NHK「シベリア抑留」(8月8日放送)と「封印された原爆報告書」(8月6日放送) - 四丁目でCan蛙 2010年8月10日←注目点が要約し紹介されています。
http://d.hatena.ne.jp/cangael/20100810/1281430192

NHKスペシャル『封印された原爆報告書』 - tnfuk [today's news from uk+] 2010年8月13日←詳細な番組内容が紹介されています。
http://nofrills.seesaa.net/article/159307947.html

入市被爆人体実験の疑い:2例 - 六価クロムによる健康被害を考える会 2010年8月10日
http://shono.blog.so-net.ne.jp/2010-08-11-5

米国の原爆投下はやはり人体実験 - 朝鮮歴史館 2008年8月7日
http://ameblo.jp/campanera/entry-10124826574.html

アトミック・ソルジャー Atomic Soldier - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC

「1945年〜1960年代にかけて核実験演習に参加し、キノコ雲への突撃行為等によって放射線に被爆した兵士たちのこと。
兵士たちには線量を測るフィルムバッジが付けられたが、被爆したアルファ線のみが測定された。
また、兵士たちは事前に筆記テストを通じて、放射線の影響は取るに足らないものであると学習させられていた。

南太平洋エニウェトク島での水爆実験では、纏まった人数の兵士たちが動員されていた。
水爆実験は年に数回、明け方に行われたが、兵士たちは整列した上で爆発に背を向け目を覆って立ち会わされた。

米国のみならず、英国、旧ソビエト連邦、中華人民共和国においても、
残留放射能の残る核実験場で軍事演習や除染作業を行い、多数の兵士を被爆させて医学的データ等を採取した過去がある」

YouTube - Atomic Bomb Test on human subjects(原爆人体実験の映像)[4分45秒]
http://www.youtube.com/watch?v=feohcR-FeW8

河井智康 著『原爆開発における人体実験の実相―米政府調査報告を読む』(新日本出版社 2003年8月刊行)
http://www.amazon.co.jp/%E5%8E%9F%E7%88%86%E9%96%8B%E7%99%BA%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%BA%BA%E4%BD%93%E5%AE%9F%E9%A8%93%E3%81%AE%E5%AE%9F%E7%9B%B8%E2%80%95%E7%B1%B3%E6%94%BF%E5%BA%9C%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E6%B2%B3%E4%BA%95-%E6%99%BA%E5%BA%B7/dp/4406030166

Michael Harris著,三宅真理 訳『ぼくたちは水爆実験に使われた』(文藝春秋 2006年7月刊行)
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%BC%E3%81%8F%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E6%B0%B4%E7%88%86%E5%AE%9F%E9%A8%93%E3%81%AB%E4%BD%BF%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB-%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9/dp/4167705273

鳥居 民 著『原爆を投下するまで日本を降伏させるな―トルーマンとバーンズの陰謀』(草思社 2005年6月刊行)
http://www.soshisha.com/book_read/htm/1408.html

注目箇所「」

「そして日本の多くの歴史研究者が見落としているのは、トルーマンとバーンズは都市に原爆を落とす実験を終えるまで、日本を降伏させなかったという単純な事実だけではない。
投下を終えた後に、トルーマンとバーンズが日本に対して行なった譲歩は、本当はポツダム宣言の草案から外した天皇の地位保全条項を加えただけであるにも関わらず、
そうとは気付かせないように企んだ策略、その巧みな隠蔽に騙されて、研究者たちは何も気付いていないのである」


『原爆を投下するまで日本を降伏させるな―トルーマンとバーンズの陰謀』を読んで - rieux2 Home Page
http://members.jcom.home.ne.jp/rieux2/atomicbomb.htm

1945年 日本が無条件降伏 - 理解する世界史 世界史年表5
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-5/ad1945a.htm

注目箇所「」

「同盟国のドイツは1945年(昭和20年)5月に無条件降伏した。
同年7月に、ドイツの戦後処理問題などを協議する為、米国のトルーマン大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリンが、ドイツのベルリン郊外にあるポツダムで会談を行なった。
≪この会談中の7月26日に、米国、英国、中国の3カ国の名前で日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表されたが、日本政府は天皇の地位を守ることが出来ないと判断して、
この宣言を無視し、国民に本土決戦を呼びかけていた。≫

米国は、8月6日に広島へ、8月9日に長崎へ原子爆弾を投下した。一方、それまで日本とは交戦していなかったソ連が、日ソ中立条約を破棄して8月8日に日本へ宣戦し、
日本が占領していた満州(現在の中国北東部)へ侵入し戦闘を開始した。8月20日には樺太(サハリン)南部へも上陸している。
≪8月10日、日本政府は、国体護持を条件としてポツダム宣言を受諾することを、中立国のスウェーデンとスイスを通じて英国、米国、ソ連、中国の4カ国へ伝えた。

8月14日、天皇も加わった最高会議で無条件でのポツダム宣言受諾を決定し、当日、スイスの加瀬公使から4カ国へ伝えられた。
8月15日、天皇の玉音放送がラジオを通じて流され、国民へ終戦が知らされた。軍隊は武装解除され、大きな騒乱を招くことなく連合軍の占領統治下に入った」

【図録】アジア各地における終戦時日本軍の兵数 - 社会実情データ図録 Honkawa Data Tribune
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/8050.html

ヒロシマとともに―原爆症研究の父・都築正男 - 神戸新聞Web
http://www.kobe-np.co.jp/chiiki/rensai/200508seiban/index.html

笹本征男さん 占領下の原爆調査が意味するもの(上) - 市民研←Roentgenium:都築正男についても詳細に述べられているので必見。
http://www.csij.org/archives/2007/02/interview5.html


笹本征男さん 占領下の原爆調査が意味するもの(下) - 市民研←Roentgenium:同上
http://www.csij.org/archives/2007/02/interview5_1.html

日本の原発奴隷:「日本の企業は、原子力発電所の清掃の為に生活困窮者を募っている」 - 美浜の会 2003年6月8日
http://www.jca.apc.org/mihama/rosai/elmundo030608.htm

「企業は、他の業者を通してホームレスと下請け契約をする。労働者の生まれや健康状態などを追跡する義務を企業が負わずに済むシステムの中で、それは行われている。
日本で起こっている事態の最大の矛盾は、
≪原子力を誤って用いた結果について世界中で最も良く知っている社会の中で、ほとんど何の抗議も受けずに≫、この悪習が生じているということである」

原発がどんなものか知ってほしい(頁一覧) - 原発震災を防ごう
http://genpatsu_shinsai.at.infoseek.co.jp/hirai/

米国における高レベル放射性廃棄物処分、処分事業の流れ - 原環センター
http://www2.rwmc.or.jp/overseas/briefing/usa/USA-Summary.asp

【特集・原発を考える】ローレン・モレ女史との対談(全15回、一番下Buck numberから) - JanJanNews
http://www.news.janjan.jp/world/0612/0612090174/1.php


◆   ◆   ◆


(31頁へ続く)

(30頁からの続き)


■NHKスペシャル『封印された原爆報告書』で取り上げられた内容について、検証 その2


【参考資料】

NHKスペシャル『封印された原爆報告書』 - tnfuk [today's news from uk+] 2010年8月13日←詳細な番組内容が紹介されています。
http://nofrills.seesaa.net/article/159307947.html

注目箇所「」、注釈≪≫ ※読みやすいように一部手を加えてあります。

米国、国立公文書館に保存されている被爆地調査の映像で、番組は始まった。ナレーションが番組の概要を説明する。


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【ナレーションの概要】

原爆投下直後から、20000人以上を対象に、原爆が人体に与える影響が徹底調査されていた。
日本の科学者によって行われた調査は、全181冊、10000ページの報告書に纏められていた。番組は今回初めてこの報告書の全てを入手した。

報告書には、学校の校舎内にいた子供たちがどこでどう死んでいたかを、校舎の見取り図に●印で示すなど、非常に詳細な記載がある。また、200人以上が標本として保存された。
日本の調査団が行ったこの調査の記録は、すべて日本人の手で英訳され、米国に渡された。「被爆者よりアメリカとの関係を優先した日本」(←ナレーションの書き取りそのまま)。
「唯一の被爆国」として「原爆の悲惨さ」を世界に訴えてきたが、その一方で被爆者は放置されてきた。


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ここでタイトルが入る。番組の最初のセクションは、被爆直後の広島での日本陸軍による調査についての説明と証言だ。このセクションは、現在の広島の空撮映像で始まる。
隙間もないほどびっしりと建て込んだ都会の中に、黒っぽいグレイの大きな建物がある。当時のまま残されている旧陸軍病院宇品分院の建物だ。最初の調査はここで行われた。

宇品分院では、2カ月半の期間に延べ6000人の被爆者を調査した。画面に出てくる記録写真では人々が単に床の上にほとんど隙間なく横たわっている。
「みな、むしろのような布団に寝かされていた」という。

番組で紹介された宇品分院での「むしろのような布団に寝かされていた」写真は、中国新聞の2005年の特集の記事の一つ、
「体も未来も焼かれて」に掲載されているものではないかと思う(確信は持てないが、こういう構図の写真だったと思う)。スクロールダウンして、ページの中ほどにある次のキャプションの写真だ。


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「船舶練習部ニ於(お)ケル兵傷者収容状況」 

爆心地から南東4.1キロの陸軍船舶練習部は臨時野戦病院、次いで広島第一陸軍病院宇品分院となり6000人以上が収容された。
練習部の敷地は現在はマツダ宇品西工場となり、建物は倉庫として現存する。


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番組のナレーションによると、陸軍医務局による調査が開始されたのは、原爆投下2日後の8月8日。
この時の調査結果は1冊の報告書に纏められた――『原子爆弾による広島戦災医学的報告』。放射線がいかに人体を蝕んでゆくのか、そのデータを詳細に記録したものである。

宇品でのこの調査対象となった男性を、番組は取材する。現在89歳の沖田 博さん。当時、爆心地から1キロの地点にある兵舎で被爆、急に具合が悪くなって宇品の病院に送られた。
しかしそこで沖田さんは「治療」を受けることはなかった。毎日検査だけが行われた。それについて沖田さんは「こいつはいつまで生きるのかを確認するためだと思います」と語る。

画面には報告書にある沖田軍曹の記録が映される。体温は40度くらい、白血球は1300と極端に少ない状態。
沖田さんは家族の看病で一命を取り止め、その後は回復の過程が記録された。抜けていた髪が生え、様々な検査が2カ月続いた。
その時のことを沖田さんはこう語っている。「お前モルモットじゃ、と言われた気分。クソ!と思ったが、態度には出せなかった」

この時期の調査について、広島平和記念資料館で2003年7月から12月まで開かれた企画展、「原子爆弾ナリト認ム」は、次のように説明している。


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■「はじめに」より:

原爆投下後、日本政府と軍はいち早く調査団を派遣します。これは、原子爆弾であることを確認する為に行なったものでした。

■「被爆直後から始められた被爆調査」より:

被爆直後、呉海軍鎮守府や似島陸軍船舶練習部など広島付近にあった軍の機関が、広島へ救護に入ると共にいち早く調査活動を開始しました。
これは、敵の新型兵器の威力を明らかにし、その対策を講じる為に行なわれた軍事的な行動でした。

原爆投下16時間後、アメリカは、原子爆弾を投下したことを世界に向て宣言(トルーマン声明)し、これにより日本政府・軍の幹部は原子爆弾であることを知るところとなりました。
政府と大本営は、原子爆弾であることを確認する為に日本の原子爆弾開発に携わった関係者を中心とする調査団を急きょ広島へ派遣しました。
また、陸海軍の各機関も、軍医や大学の研究者らを中心とする調査団を次々と派遣しました。

大本営調査団は、8月10日に広島で陸海軍合同検討会を開き原子爆弾であることを確認し、すぐさま中央に打電するとともに報告書を作成します。
これを受けて政府と軍は、海外に向かっては原子爆弾を投下した米国を非難し、国内に対しては原子爆弾であることを隠し戦争を継続させようとします・・・・。
・・・・国民に対し原爆投下の事実を公表したのは、終戦の前日の8月14日になってからでした。


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番組は次のセクションへと進む。

1945年だけで合わせて20万人以上が死亡した。投下直後に軍によって始められた調査は終戦で規模を拡大し、1300人の科学者・医師による国家プロジェクトとなった。
2年あまりの調査で人体への影響が細かく調べられ、纏められた。

それを、日本は全て英訳してアメリカへ渡していた。何故か。
番組のカメラは米国の国立公文書館に入る。そこに保存されている報告書の一枚に、"To Col. Oughterson" 「オーターソン大佐へ」とある。

彼はアシュレー・オーターソン。マッカーサーの主治医を務めた軍医で、アメリカ側の調査団の団長だった。

オーターソン大佐のこの調査団については、英語で書かれた文章がネット上で見つかる。例えばワシントン大学のサイトにある下記のもの。

THE ATOMIC BOMB--A Study of Aftermath
http://artsci.wustl.edu/~copeland/atomicbomb.html

この調査団の最も若い団員だったフィリップ・ロジさん(92歳)を番組は訪ねる。彼は報告書が米国に提供されたことについて、次のように語る。
「日本から、報告書を提出したいという申し入れが、到着後直ぐにあった。オーターソンは喜んでいた。投下直後からの調査は被爆国にしか出来ない。非常に貴重なものだ」

日本側の調査を率いていた小出策郎陸軍省医務局軍医中佐は、30代で医務局に入ったエリートだった。彼が率先して報告書をアメリカに渡した。何故か。

小出中佐は既に鬼籍入りしており、番組は、当時を知る三木輝男少佐(94歳)に話を聞く。父親が医務局長だった三木少佐は終戦時大本営にいた。
日本側は、占領軍との関係に配慮していた、という。「いずれ要求されるだろうから、早い方が心証がよかろうと、言われる前に持っていった」

記者が問う、「『心証がよく』というのは、何の為に」と。カメラは、前を向いたまま沈黙する三木さんをしばらく捉える。重い沈黙。

そして三木さんはようやく口を開く。「731のことなんかも、あるでしょうね」

小出少佐は陸軍の戦後処理を任されていた。ポツダム宣言では日本の戦争犯罪を追及していた。小出少佐には、「敵に握られるとまずい証拠は隠滅せよ」との指示が出されていた。
その時の陸軍幹部の動揺する様を、三木少佐ははっきり見ていた。

ナレーションは「戦争犯罪から逃れる為にも、戦後の日米関係を築く為にも」と言う。

三木少佐は言葉を続ける。新しい兵器を持てば(それがどのような影響を与えるかを)調べたい、と。「原爆のことは、かなり有力なカードだった」

カード。

「原爆の被害を受けた国」は、ほとんど「証拠」が残っていないらしい(2003年10月の、内閣総理大臣からの七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問に対する答弁書を参照)
戦争犯罪の加害国であった。

衆議院議員川田悦子君提出 七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問に対する答弁書
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b157024.htm

その「加害」という負のカードを、「被害」という正のカードで埋める。番組のナレーションは、「原爆を落とした国と落とされた国の利害が一致した」と言った。

「戦争」とか「紛争」と呼ばれる事態が、大きな視点から語られる時、
実際にその事態によって血を流したり命を奪われたり、精神的・物質的な苦難を強いられたりする人々がその語りでは見えなくなることがよくある。

近年の戦争でいえば、日本語メディアではどうなのかよくわからないが英語メディアでは、イラク戦争は米国や英国という情報社会の大勢力が当事者である分、
まだ「影響を受ける当事者の語り」がよく記録され、伝えられているほうだと思う。

(同じく米英を当事者としていても、アフガニスタンでの戦争はイラク戦争ほどには伝えられていない。その一因として、イラク戦争は国連安保理の決議なしで強行された、
国際法上「不法」な戦争だということを追及する力が大きく働いているが、アフガンは安保理決議のある武力行使で、追及の力も今ひとつ強くない、ということがあるかもしれない。)

しかし、例えばソマリアでの紛争、イエメンでの紛争、或いはチャドやDRCでの紛争については、極たまにBBCなど大メディアに特集記事のようなものが出るが、継続的な報道はほとんどない。
スーダンのダルフール紛争などは、一時期は「反中国」の思惑もあって米メディアなどが盛んに取りあげていたが、既にほとんど語られなくなっている。

そういうことのバックグラウンドにあるのが、「伝えられる国・場所での一般的な人々の関心の薄さ」にあることはもちろんだが、
もう一つ、実際に被害を受けている人々を事実上不在にしてしまう「国(政府)」という高いレベルでの「(外交上の)カード」という要因もあるだろう。
そしてそれが「カード」であるのが明らかになるのは、常に、ある程度の時間が経過してからである。

番組は次のセクションに進む。

原爆投下から2カ月後、米調査団が現地入りする。小出中佐に代わって、都築正男帝大教授が日本側の調査を率いる。

この時期の調査について、広島平和記念資料館で2003年7月から12月まで開かれた企画展、「原子爆弾ナリト認ム」は、次のように説明している。


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■「占領下の被爆調査」より:

8月30日に連合国軍最高司令官マッカーサーが厚木基地に到着すると、アメリカを中心とする連合国の占領政策が本格的に動き出しました。
原子爆弾を開発した研究機関の調査団であるマンハッタン管区調査団が広島に入るにあたり、連合国最高司令官総司令部(GHQ)から日本政府へ調査協力の指令が出され、
日本側の協力を得ながら調査を行ないました。


▲▲▲  ▲▲▲  ▲▲▲  ▲▲▲  ▲▲▲

(32頁へ続く)

(31頁からの続き)


今回のNHKの番組では、「GHQからの調査協力の指令」があったから日本が協力した、とは言っていない。この点が、この番組が戦後65年経過して明らかにしていることの最も重要な点だ。
つまり、日米それぞれの調査の当事者が語る、日本による、いわば「思いやり」(例の「思いやり予算」的な意味で)。

更にもう少し広島平和記念資料館の企画展より、「占領下の被爆調査 原子爆弾災害調査研究特別委員会と日米合同調査団」から。


▼▼▼  ▼▼▼  ▼▼▼  ▼▼▼  ▼▼▼


・・・・広島で調査活動中であった陸軍本橋少佐及び東京帝国大学都築正男教授は東京に呼び戻され、調査団に同行・協力することとになります。
調査団は9月7日空路岩国に到着し翌8日に広島に入り、日本軍や行政各機関の協力を得ながら調査を行ないました。

9月8日、(アメリカの調査団団長の)ファーレル准将一行のグループは、厚木飛行場から飛行機6機で広島に向かいました。
広島に着いた一行は海軍鎮守府が用意したバスで中国軍管区司令部に行き、第二総軍司令官の出迎えを受けた後、調査を開始します。
一行には、東大都築教授、軍医学校本橋少佐などが同行し、彼らを案内するとともに、これまでの日本側の調査・研究結果を報告しました。

・・・・文部省は9月14日、原子爆弾の被害を総合的に調査する為、
学術研究会議に「原子爆弾災調査研究特別委員会」の設置を決定し、15日通達「原子爆弾災害調査研究ニ関スル件」を出します。

通達によると、広島長崎の実情を「我が国科学の総力を挙げて」調査し、調査の性質については「本調査研究は純学術的なもの」であるとしながら、
研究成果は「判明次第関係方面に速やかに報告し」「地方民生の安定に」活用するものとしています。

・・・・9月22日東京帝国大学医学部で、アメリカ側軍医関係者と東京帝国大学医学部長宮猛雄教授らが会合し、アメリカ側は医学面での協力を要請しました。
その結果、「日米合同調査団」(アメリカ側は「合同委員会」と呼んでいます)が結成されます。

日本側参加調査団のメンバーは、主として都築教授によって選ばれました。
東京帝国大学医学部の各教室から36名の研究者と医学部生21名、理化学研究所から村地幸一氏、これに、陸軍軍医学校、東京陸軍病院のメンバーが協力しました。
日本とアメリカの調査団からなる合同調査団の広島班(アメリカ側メイソン大佐以下10名、日本側37名)は10月12日に広島に入り、
広島第一陸軍病院宇品分院を本拠として調査を始めました。

合同調査団のアメリカ側医師と日本側医師は共同で被爆者の検診を行ないました。
アメリカ側の第一次調査は、1946(昭和21)年9月に終り、収集した資料は米国へ持ち帰ります。

この合同調査団の調査内容については、アメリカ側は合同委員会の報告書1946(昭和20)年11月「日本における原爆の医学的効果」として、
日本側は、学術研究会議の「原子爆弾災害調査報告集」の中でそれぞれ報告しています。


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都築教授と陸軍が協力して作成した報告書番号14。原爆の破壊力についての報告だ。
(手元のメモに「都築教授と陸軍が協力」と書いてあるので番組のナレーションでそう言われていたのだろうし、そのまま記載するが、この時点での「陸軍」は戦後処理、
主に復員の為に存続していたもので、11月には陸軍省は廃止・解体される。)

この報告書では、子供たちの死亡をソースとして、原爆がどのくらいの範囲で何人殺せるものなのかを示している。

1945年8月6日は月曜日で、原爆が投下された朝8時15分には学徒動員されていた子供たち(国民学校の児童たち)は纏まって同じ場所にいた。そのことで、ある意味「指標」として利用された。
子供たちは、殺傷力を確かめる為のサンプルとなった。

具体的には、この報告書は広島の70カ所で子供たちが何人死んだかをマッピングしている。爆心地から何メートル地点では何人中何人死亡、というように。
「爆心地から1.3キロでは132人中50人が死亡」、「0.8キロでは520人中520人全員が死亡」・・・・。

番組では言葉にしていなかったが、この子供たちは非戦闘員だ。

むろん、非戦闘員の大量殺戮を行ったのは原爆だけではない。都市に対する大規模な空襲は例外なくそうだし、日本軍が行った先で村ごと住民を殺していたこともそうだ
(12日の夜のNHKの番組で、「アジア解放」の理念で南方戦線に赴いたが実際にやってたことは婦女子を含む村人の皆殺しだったと語っていた戦争経験者がおられた)。

ただ、原爆は威力がケタはずれである。そして「新型兵器」だった為に、その威力を計量的に確認したいという探究心があって、それで子供たちがこんなふうに「数字」として取り扱われている。

番組は、調査対象となった第一国民学校にいた佐々木たえこさん(77歳)を取材する。被爆時は1年生だった。
原爆投下時、学校では「建物疎開」の作業中で、屋外作業をしていた175人が被爆した。

報告書には「死亡:108人、重傷(負傷かも?):67人」と記載されている。

佐々木さんの隣りにいた親友も死亡した。国民学校から小学校となった現在も、学校の敷地には殺された学童たちの名を刻んだ碑が立つ。
雨の中、傘を差してその碑の前に立つ佐々木さんは「8月にまた来るからね」と碑に声をかける。「帰るときに姿もないようでは、あまりにもむごいですよ」


都築教授の調査の背景には、米国からの要請があった。オーターソン大佐がこのデータに関心を示していた。

カメラはワシントン郊外、米陸軍病理学研究所へ行く。

「原爆の医学的効果」という6冊の論文に纏められていた1万何千人の子供たちのデータから求められたのが、「死亡率曲線」だ。

原爆の殺傷力を示したこのデータが、冷戦時代の米軍の核戦略の礎となった。
このデータを元に、ソ連の都市の壊滅に、広島型原爆何発が必要かが計算されていた。モスクワは6発、スターリングラードは5発、というように。

米国側でオーターソン大佐を引きついだのが、ジェイムズ・ヤマザキ大佐だった。94歳になったヤマザキ大佐のバックグラウンドは一切説明されなかったが、名前と風貌から日系人であろう。
彼は取材に対し「まさに革命的だった revolutionary」、「広島の子供たちの犠牲がなければ原爆での死亡率曲線は得られなかった。日本の協力 association の賜物だった」と語った。

第一国民学校で被爆し、親友を殺された佐々木さんは、友人たちの死が日本人によって調べられ、アメリカの核戦略に利用されていたことを初めて知った。
「バカにしとるねー、言いたいです。手を合わせるだけです、何も出来ません」深い沈黙と合掌。


「日本が国の粋を集めて行った調査」(ナレーションより)に参加した一人が、山村秀夫さん(90歳)。医師になって2年目で、都築教授の帝大調査団に参加した。
彼は「調査は全てアメリカの為であり、被爆者の為という意識はなかった」と語る。「日本で公表することもダメだし、持ち寄って相談することも出来ませんから」

報告書番号23に、山村医師の論文。被爆者にアドレナリンを注射して反応を調べるという「検査」を行った。(「検査」というより「実験」だ。)
12人中6人が僅かな反応しか示さないという結果が得られた。

このように、治療とは関係のない検査を毎日行った。調べられることは何でも調べるという方針だった、と山村医師は語る。

死者もまた調査対象となった。仮説の小屋で次々に解剖が行われた。(ここで、医師が遺体を解剖する様子を遠めから撮影した映像が流された。マスクの医師の右手が動く様子。)

解剖されたのは200人余り。14冊の報告書に纏められた。

報告書番号87、子供の解剖結果が記載されている。長崎で被爆した11歳の女子、オノダマサエさん。

彼女の遺体はどのような経緯で提供されたのか。番組取材陣はマサエさんの甥にあたるヒロユキさんを訪ねる。既に世にない父カズトシさん(マサエさんのお兄さん)から話は聞いていた。
ヒロユキさんが机に置いているマサエさんの写真は、「ワカメちゃんカット」のような髪型をした、目鼻立ちのくっきりした可愛い女の子だ。

被爆したマサエさんは長崎市中心部にある救護所に運ばれていた。既に高熱で衰弱しきっていた。「兄ちゃん、家につれて帰って」が最後の言葉だった。
カズトシさんがマサエさんを連れて帰ろうとした時、医師たちが「将来の為に、妹さんを解剖に預けていただけないか」と言った。
一度は断ったが、「将来の為に」という思いで渡したのだ、と。被爆者の為に役立ててほしいとの思いだった。

しかしマサエさんの遺体はその後どうなったのか。実は家族には何も知らされることなく、報告書とともにアメリカに渡されていた。
そして昭和40年代になって、研究が終わった後に日本に返還された。現在は広島と長崎の大学に保存されている。

11歳でなくなったマサエさんは、肝臓や腎臓などを摘出され、5枚のプレパラート標本になっていた。標本が保存されている長崎大学医学部にヒロユキさんは向かう。

ヒロユキさんは自宅から持ってきたマサエさんの写真を、木の枠に入った5枚のプレパラート標本(ピンク色に染色されている)に添えて、じっと見つめる。
そして「はぁー」と深い溜め息を何度かついて言う。「これがおばさんですか。こんな形でお会いするとは、思ってませんでした」

「将来の為に」と提供された11歳の少女の遺体は、結局、被爆者の為に生かされることはなかった。


番組は次のセクションに進む。

原爆投下直後から行われていた国の調査。その内容が被爆者に明かされることはなかった。一方で被爆者訴訟が行われていた。

齋藤紀医師は報告書の中で、ある手記に注目する。

報告書番号58、門田(もんでん)よしときさんという19歳の医学生(当時)が書いた「私の原爆症」という手記だ。

門田さんは投下4日後に広島に入った。直接被爆していないのに、39度を超える高熱、喉や歯茎の痛み、出血班など、直接被爆した人と同じ症状がその手記には記されていた。
8月30日、門田さんは新聞で被爆者の症状についての記事を読んで「私の症状とまったく同じだ。私も原爆の被害者になってしまった」と書いていた。

門田さんは「入市被爆」していた。それを克明に記したこの報告書がありながら、長年、国は、入市被爆による人体への影響はないとして、原爆症の認定を拒否してきた。

今回、この報告書を見た斎藤医師は、「65年埋もれていた、埋もれさせられてきた」と語った。

「入市被爆」については2年前にやはりNHKスペシャルで報じられている。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/080806_2.html


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見過ごされた被爆〜残留放射線 63年後の真実〜

原爆投下から63年。原爆の放射線による原爆症の認定基準が今年、大きく変わった。

見直しの特徴は、原爆投下後市内に入った「入市被爆者」と呼ばれる人達に対して、原爆症と認定する道を開いたことだ。
これまで国は初期放射線の被害は認めてきた一方、放射線を帯びた土などが出す「残留放射線」の影響はほとんどないとして、11万人いた入市被爆者の原爆症認定の申請は、
ほぼ却下してきた。

被爆後、広島や長崎市内に入った入市被爆者は、直接被爆していないにもかかわらず、放射線の影響とみられる急性症状が現れ、その後、白血病やガンなどで亡くなった。
当時、いたる所で放射性物質と化した土砂や建物、死体から強い残留放射線が発生したことなどにより、相当量の被ばくをしていたと見られる。

昨年、発見された資料では、アメリカは1950年代に残留放射線の調査を始めながら「科学的に役立たない」と中止していたことがわかった。
その後も調査は行われぬまま、入市被爆者は病気になっても国から「原爆症」と認められず、援護のカヤの外に置かれてきた。・・・・


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この文脈では今回の「封印された原爆報告書」の意味は、長年否定され続けてきた挙句、
63年も経てようやく認定基準で「入市被爆」が認められた後、更にその事実を示す証拠があったということが重ねて示された、ということになる。

番組は最後のトピックとしてこの「入市被爆」を取り上げる。3年前に亡くなった斉藤やすこさんは、投下5日後に親戚を探す母親に連れられて広島に来た。当時4歳。
59歳で大腸がんになった。90歳を超えた母親は「連れて行かなければよかった」と後悔している。

やすこさんが被爆者としての認定を求めた裁判で、国は「被爆はしていない」と言い続けた。最後の訴訟で「国は私のような入市被爆者の実態をわかっていません」と述べた。
そしてやすこさんが亡くなって数ヵ月後に出た判決で、やすこさんは勝訴した。

自身の入市被爆を綴った門田さんの報告書の存在がもっと早くわかっていれば、存命中に勝訴していたのではないか。

その門田さんは現在も存命で、岡山県にいる。84歳になっている。
齋藤医師は同じ医師として話を聞きたいと訪問する。腎臓、心臓などを悪くして、現在、門田さんは自宅で寝たきりの生活だ。

門田さんは、自分が日本語で書いた日記が英訳されてアメリカにあるとは知らなかった。日記は、広島から山口に戻ってから都築教授に書くように勧められたという。
「(都築教授が、私の通っていた)山口医専まで来て、細かく訊かれ、今から日記をつけるようにと言われた。例のオーターソンというアメリカの医師が私の手記を熱心に求めていることも知った」

手記には最後に「もしこれが役立つなら幸せである」と書いてある。これを見た門田さんは「懐かしいですね」と口にする。
「僕が残しておかないと、誰が残すんだ、という思いがありました」


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(33頁へ続く)

(32頁からの続き)


■NHKスペシャル『封印された原爆報告書』で取り上げられた内容について、検証 その3 ※批判を込めた意見


【参考資料】

『封印された原爆報告書』:国民を売った天皇、軍、政府と医学者。米軍占領下の原爆調査 - 試稿錯誤 2010年8月10日
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2010-08-10

注目箇所「」、注釈≪≫ ※読みやすいように一部手を加えてあります。

≪何度も見た結論として言えるのは、この番組は、
「米国立公文書館に、日本が原爆被害の実態を調べた181冊の報告書が眠っている。何故、報告書はアメリカに渡され、被爆者の為に活かされなかったのか?その真相に迫る」
と番組案内で唱っているが、<何故、報告書は米国に渡されたのか、誰の命令で渡されたのか>ちっともその真相に迫っていないということである。≫

原爆が投下されるまでのニッポンは誰の眼にも敗戦が明らかとなり、
連合軍からポツダム宣言受諾要求への対応を迫られており、天皇と軍部、政府は敗戦後予想される連合軍からの厳しい戦争責任処断への対応を考えていた。

軍部は10日にポツダム宣言受諾を(国体維持、すなわち天皇の処刑を回避するという条件で)海外向け放送で伝えた。国民には知らされていない。
(世界にとって、日本降伏は8月10日)

8月15日敗戦の意味 - 郡 司「これでよいのか!日本」
http://www.ne.jp/asahi/osaka/korishou/jse30.htm

≪9月2日、正式に大日本帝国政府が降伏文書に調印した後、52年にGHQから(沖縄を除いて)日本に連合軍(GHQ)から施政権を返還されるまでは、
日本は二重権力状態(GHQvs日本政府、天皇)にあった。この間、新憲法が発布され、極東軍事裁判=東京裁判があった。

新憲法成立までは、日本を規制したのは大日本帝国憲法だったのである。
天皇を頂点とする旧勢力が(どの組織の、誰が中心となって)どのように戦争責任追及を免れようとしたか、を調査しない限り、原爆調査・報告の疑問には答えたことにならない。≫

広島に原爆投下直後の8日から軍部が<新型爆弾>の調査を行ったことは既知の情報である。しかも軍部は広島における数日の調査で原爆の性格を的確に見抜いていた。
8月10日、政府は<新型爆弾>使用は国際法違反であるという抗議を中立国スイス経由で米国に伝え、同じ抗議を赤十字国際委員会に提出した。

当時の新聞(朝日、8月11日付)によれば、「国際法規を無視せる 残虐の新型爆弾 帝国、米政府へ抗議提出」

広島市への原子爆弾投下 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B


大本営調査団の8月付調査結果には、
「本爆弾ノ主体ハ普通爆弾又ハ焼夷爆弾ヲ使用セルモノニ非ズ、原子爆弾ナリト認ム」とあり、原爆と認定した理由を五項目挙げている。

笹本征男 著『米軍占領下の原爆調査』(新幹社 1995年10月刊行)※以下、本書を『原爆調査』と略記する。
http://www.amazon.co.jp/%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%B8%8B%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%88%86%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E2%80%95%E5%8E%9F%E7%88%86%E5%8A%A0%E5%AE%B3%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E7%AC%B9%E6%9C%AC-%E5%BE%81%E7%94%B7/dp/4915924653

P.18〜19。特に項目4:


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「外傷はさして顕著ならざるも一日乃至二日後死亡せる者あり、又調査の結果中心部附近の土砂の放射を続行しあるもの、人員にして著しく白血球の数少なくなりたるものあり、
これは放射線の影響と判定せらる」(原文カタカナ。笹本さん著書から孫引き)


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日本において原爆研究が独自に為されていたことを伺わせる報告である。

敵の兵器の性能を調査するのは戦争中でなくても当然のことだ。
しかし問題は、笹本が『原爆調査』P.21以後(第一章、第三節「敗戦後の原爆調査」)で述べているように調査の指揮関係である。
8月15日、天皇は降伏を宣言したが、その後も軍が調査を仕切っていたのではないか、ということだ(原爆調査という軍事行動)。

引用する:


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8月15日、昭和天皇は日本陸軍に対して停戦命令を出した(更に8月18日、陸軍に復員命令を出し、日本軍は連合国の降伏を受け入れる体制に入っていた)。
それにも関わらず何故、陸軍軍医学校軍医を中心とする原爆被害調査という軍事行動を止めなかったのであろうか。

この点に関して、後に陸軍軍医学校校長だった井深健次・軍医中将は、8月15日以降の動きについて次のように説明している。

「調査研究の方針も変化し、傷者に対する診療の普及ならびに充分なる医学的調査に重点を置くようになった。
けだし、これは最早戦争が継続せられぬ故、落着いて惨害を被った傷者を診療することが我等の任務となり、
また、原子爆弾のような特殊の兵器に因る戦傷の研究をすることは、我々医学者としても軍医としても最大のご奉公と考え、また殉職せる同僚を弔うことにもなると考えたのである」(1952年)

ここには後からの辻褄合わせがある。
≪先ず、日本軍は敗戦後「傷者を診療する」命令を発したのか?もしそうだとすれば、8月15日の第二総軍司令官の救護の指揮解除命令(●注)はどうなるのか?≫
私は未だ、敗戦後に日本軍がそのような救護命令を出したという資料を発見していない。

戦時中であれば「原子爆弾のような特殊の兵器に因る戦傷の研究」は日本軍としては当然の研究である。
しかし、原子爆弾に因る戦傷の研究は、原子爆弾を使った敵軍が占領した中で行われたのである。つまり、敵軍と協力することなしに戦傷の研究を行うことは出来なかったのである。(中略)

更に、井深健次が校長であった陸軍軍医学校は、中国の民衆に残虐の限りを尽くした細菌戦部隊の731部隊を統括しており、
731部隊の生体実験の資料は陸軍軍医学校に送られ、まさに軍事研究されていたことを忘れてはならない。
このように他国の民に苛酷極まりない軍が、敗れたからといって、掌を返すように「同胞」に救いの手を差し延べたという論理はそのままでは納得し難い(以下略)」


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上記の(●注)8月15日の第二総軍司令官の救護の指揮解除命令とは以下の件を指す。
順序が前後するが、笹本の著書、第一章、「初期調査と原爆被害利用」、第一節「救護と原爆被害調査の関係」から引用する:


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1945年8月6日、アメリカ軍機による原爆攻撃を受けた広島市では、直後から日本軍を中心とする原爆被害調査と救護活動が開始されていた。

簡単にその動きを観ると、第二総軍司令官・畑 俊六元帥が廣島救護の総指揮を取り、
その指揮下に中国軍管区司令部、船舶司令部、呉海軍鎮守府、及び広島県、広島市の民間救護団が入り、救護復旧体制が取られた。
更に近県からも救護部隊が広島市に派遣され、救護と復旧の任務についた。広島市に対してこのように軍を中心とする救護復旧体制が敷かれたのは、ひとえに戦争を継続する為であった。

しかし、8月15日、第二総軍司令官・畑 俊六元帥は、
「戦災応急処理の為、中国軍管区司令官、船舶司令官、中国憲兵司令官、中国地区鉄道司令官及中国地方総監、広島県知事、広島市長に対して一時採りたる予の指揮を解く」(原文カタカナ)、という命令を発した。


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≪この命令は極めて重要である。というのは、第二総軍は大本営直属の本土防衛部隊であり、畑元帥の命令は大本営命令であり、つまり、“昭和天皇の命令”である。
日本陸軍はこの8月15日を期して広島市への救護対策を放棄したのである。更に言えば、このことは「大日本帝国が広島救護を放棄した」ことを意味する。≫

それにも関わらず、従来の広島の記録は「8月15日、終戦となって第二総軍司令部は戦災応急処理の指揮を解除したので、以後は県・市が行うことになった」と記している。
変わらず今から考えれば、あれだけの大量の死傷者を県と市だけの救護体制で救護出来なかったことは明らかである。国が放棄した救護責任を、県と市が背負うことも不当である。

≪敗戦国の被害者に対する責任放棄こそが問われるべきであろう。
番組によれば、終戦と共に、調査の規模が一気に拡大、「国の大号令で全国から医師、研究者が召集された。調査は巨大な国家プロジェクトとなった」。≫

驚くべきは、最初に米国に手渡した報告の作成者が陸軍となっており、報告書の日付が、1945年11月15日であることだ。英訳された報告書の表紙には、

 Medical Report of The Atomic Bombing in Hiroshima
 (Authored by) Army Medical College, The First Tokyo Army Hospital (陸軍医学校、第1陸軍病院)
 Nov. 30, 1945

とタイトルが表記されている。岩波書店発行の1985年発行、英文原爆レポート:The Impact of The A-Bomb(Hiroshima and Nagasaki, 1945-85)の年表によると、

 November 30:
 Special Committee for Investigation of A-bomb Damages(Scientific Research Council) presents first report (at Tokyo Imperial University).
 GHQ issues directive requiring prior permission for A-bomb research.

とある。この二つの報告(或いは表記の差)はどう関連しているのだろうか?或いは全く無関係に同じ日付で偶然に報告が為されたのか?
もし同一であるならば、米国に提出することのみを目的として実施された調査とその報告であることを、岩波英訳本は全く伝えていないことになる。

≪番組で興味深かったのは、8月15日に、陸軍の戦後処理を任された一人である小出中佐に出された極秘命令文書を曝露していることだ。
「敵に証拠を得られることを不利とする特殊研究はすべて証拠を隠滅せよ」≫

「戦争犯罪の疑惑から逃れる為にも、戦後の新たな日米関係を築く為にも原爆報告書を渡すことは当時の国益に適うものだったといいます」。
こう軽々しくナレーションで語るところが NHKのNHKたる所以である。

しかし、原爆調査の作成が、戦犯容疑から逃れることを唯一の目的とした天皇と軍部首脳の意志であり、
その欺瞞の日米政府間了解で成立した「東京裁判」が、以後のニッポンを規制している(新しい日米関係!)ことを言い表して妙である。
今日まで連綿と続く、米国への大股開き(開け!と要求されてもいないのに)と、擦り寄り、その記念すべき第一号はこの調査報告であった。

当時の内情を知る元陸軍軍医少佐・三木輝雄(90歳)が番組に登場した。父は医務局長を務め大本営に属していた。
三木輝雄は報告を手渡した背景には、占領軍との関係を配慮した<日本側>の意志があったという。

三木輝雄元少佐とのインタビュー:


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「いずれ要求があるだろう、と。その時はどうせ持っていかなければならない。早く持っていった方がいわゆる心証が良いだろう」

心証を良くする、とは何の為ですか?(NHKインタビュア)

「731(部隊)のこともあるんでしょうね・・・・。新しい兵器を持てばその威力を誰も知りたいものですよ。カードで言えば有効なカードは余り無いんで。
原爆のことは、かなり有力なカードだったんでしょうね」

(ナレーション)自ら開発した原子爆弾の威力を知りたいアメリカ。戦争に負けたニッポン。原爆を落とした国と落とされた国、二つの国の利害が一致したのです。


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二つの<国>の利害? 日本については、この<国>に、原爆で焼かれた一般市民は入っていない。一般市民は戦争に負けたことを歓迎したのだ。
敗戦に続く、戦争犯罪追求を最も怖れたもの達が、予め(あらかじめ)連合国(米国)の歓心を引くことを仕組んだのである。
軍を統帥するのは天皇である。国体護持、天皇の地位保全が最も重要な課題であったこの時に、軍が天皇の意向を確認せずに動く訳がない。

9月になってGHQが日本に進駐した後、それまで調査指揮に当たった陸軍小出中佐に代わって指揮を執ったのが東京帝国大学の都築正男教授(海軍軍医少将)である。
都築は当初から陸軍とともに調査に当たった。

都築正男と加藤周一 - 去来山荘
http://homepage2.nifty.com/mark-iwai/philosophy/luke%20kato.htm


(34頁へ続く)

(33頁からの続き)


GHQが日本に進駐後も原爆調査は拡大され、治療目的でなく、患者をモルモットとしての調査、標本作りは2年間も継続された。
召集された医師・研究者は、この調査が対米報告のみを目的とすることを承知していた。例外もあったろうが、患者を治療するという医師の魂を売り渡した哀れな姿を曝したのである。
敗戦国の医師が、患者を治療するのでなく、モルモット・標本として扱い、自国権力者の戦争犯罪追求、延命取引の為、戦勝国の武器効果を調査し、
戦略目的の資料作成に2年も精を出すという、恐らく世界史上希な出来事が発生したのである。

[Roentgenium:原爆傷害調査委員会(ABCC)は、治療せずに放置した場合の自然経過のデータを採集する為に、あえて患者を治療しなかったと考えるのが、自然である]

1995年に『米軍占領下の原爆報告』を出版した笹本征男は、2005年に重要なインタビューを行っている。

笹本征男さん 占領下の原爆調査が意味するもの(上) - 市民研←Roentgenium:都築正男についても詳細に述べられているので必見。
http://www.csij.org/archives/2007/02/interview5.html

笹本征男さん 占領下の原爆調査が意味するもの(下) - 市民研←Roentgenium:同上
http://www.csij.org/archives/2007/02/interview5_1.html

 笹本征男 著『米軍占領下の原爆報告』目次

 第1章 初期調査と原爆被害利用
 第2章 日本の降伏、占領―初期日米調査協力
 第3章 CACとABCCの設置と予備調査
 第4章 ABCC・予防衛生研究所体制
 第5章 日本政府、GHQへ「原爆傷害調査計画」を提出
 第6章 原爆報道とプレス・コード
 第7章 歴史の再考
 第8章 原爆加害国になった日本


番組後半に、現在闘病中の元・山口医学専門学校学生、門田可宗(もんでん・よしとき)氏が登場する。

彼は原爆投下後4日目に広島市中心部に入った(当時19歳)。彼は15日、40度の高熱、17日、歯茎と喉の痛み、19日、身体中に斑点状の多数の皮下出血という自身に発生した症状から、
「これは6日、原爆を被爆者と同じ症状ではないか!私は、6日には確かに広島にはいなかったではないか!しかし、ああなんと言うことだ、私も原爆被害者になったのか」と慌てた。

彼を山口医学専門学校に訪れ、日記を書くように勧めたのが都築正男である。
彼の書いた手記は本人の知らぬ間に英訳され、GHQへの報告書の一部となったのだ。いわゆる間接被爆、或いは<入市被爆>の医学生による症状自己観察である。

番組や番組に登場した医師は、「門田さんの手記は、入市被爆者に原爆症の症状は出ない、と見解をとり続けた国への重要な反証である」と言う。

しかし、8月6日8時15分に何処にいたかについてはアリバイがあり(つまり、広島市以外の場所)、その後、親戚捜しに市内に入り、数日後原爆症に似た症状を第三者が確認している、
という例は山ほどある筈である。医学生の手記であるが故に第三者確認がなくても信用される、ということがあってよい筈がない。

私が不思議なのは、調査に当たった述べ数千人の医師、研究者たちは当然、入市被爆者(間接被爆者)の症状を知っていたのではないか、と言うことだ。

大門さんのGHQレポートがなければ入市被爆者の症状も認定されないのか、という疑問。
入市被爆者の裁判闘争は何十年も継続しており、その主張を大門さんやこれらの医師は知らなかったのか?或いは、知っていても黙っていたのか(記憶の封印)?
忘れたのか(調査時に受けた被爆による健忘症)?

敗戦するや、勝者に擦り寄る天皇と軍部、政府。権力者にすり寄り、医師の使命のかけらも持ち合せなかった研究者、医師たちの存在が、この番組から浮かび上がる。

[Roentgenium:原爆傷害調査委員会(ABCC)は、治療せずに放置した場合の自然経過のデータを採集する為に、あえて患者を治療しなかったと考えるのが、自然である]

笹本征男が15年前に『米軍占領下の原爆報告』を出版した当時、
何故、資料を多数保有している筈のNHKが直ちに、未だ多数が生存していたはずの関係者(加藤周一も含まれる)から証言を求めなかったのか?

GHQに手渡した報告の機密は米国で、とっくの昔に解かれている筈である(731部隊と同じ。米国は一旦没収した資料は全て日本・当時の防衛庁に返還したと言っている)。
関係者が死に絶えた頃になってやっと腰を上げるNHK。米国が65年間も封印を命じたのではない、権力者に尾もねって勝手に自主規制しているだけではないか。

[※Roentgenium:日本と米国それぞれで政権交代が起きたことに因する影響も多少はあるのかも知れない。核密約の件同様に・・・・]

私は加藤周一についてブログ記事を何件か書いたが、終戦時の広島における調査について加藤がほとんど書いていないことは、一つの疑問であった。
加藤ならば、この調査が天皇の直接間接の命令に発することは容易に推測した筈である。

前記の笹本征男インタビューから関連部分を引用しておく:


▼▼▼  ▼▼▼  ▼▼▼  ▼▼▼  ▼▼▼


聞き手(上田昌文):

─引き合いに出して、御本人は辛いかも知れませんが、加藤周一さんが『羊の歌』で─当時は東大の血液学教室の助手だったかな─その記述が少し出てきますね。
命令を受け、派遣されていった、調査の中で没頭する日々があったという記述が2ページ位にわたって出てきたと思いますけれども、
それだけ読んでも、原爆調査が誰が何を意図して行なったのかについては触れないままで、その時の印象しか語られていませんね。
それでもその記述は極めて例外的な、本当に稀な例だと思いますが、きっと彼のような立場の人は膨大にいて、今仰ったように本当はわかっていた、わかっているが故に口を噤んでいる、
という構造がずっと続いているのだと思うんです。

笹本征男氏:

僕は本で加藤周一さんのことを書いていますから、僕の本が出た後、恐らく何人もの人が加藤さんに接触を試みているでしょう、加藤さんは会うことを全部拒否している筈だけどね。
余り個人のことは言いたくないんですけど、せめて加藤さんしかいないんですね、原爆調査に従事した人でああいう風に語っている人は。

今年の3月10日の朝日新聞夕刊の連載「夕陽妄言」で加藤さんが、いわゆる米軍の東京大空襲の時の随筆で、当時を回想していた。
その記事を強烈に覚えているんですが、加藤さんは医者として書くんですね。

当時、米軍の空襲で戦災者が傷つけられて来ると、私は医者だから治す為に治療するんだと書いているわけですが、突然8月6日の話になり、加藤さんは調査と観察の為に広島に入ったと書いていた。
治療の為に入ったとは書かないんですよ。彼には僕の本を送っているから読んでいると思うんですよ。それで尚且つ、調査と観察の為に行ったと書くんです。
国から命令されたと何故書けないのか。何故そこまであなたを国が縛るのですか、と僕は言いたいです。

加藤さんでもそうなんです。これが原爆調査問題の底深さです。そこには個人がいなかった。個人の自由がなかった。
ならばそれを認めなさいよ、もう。思想の自由も学問の自由もなかったんだから、あなたは一つの部品として動いたんでしょう、と。でも部品ではなく人間なんだから、もう声をあげて下さい・・・・。
僕の加藤さんへの思いは、こういうことです。

だから僕は、原爆調査に関わった人間の名簿を作って本に入れた。あれは報告書を元にして作った名簿です。
実際に参加した人間はあの数倍いますよ、或いは数十倍はいますよ。延べにすれば何万人ですよ。現地の陸海軍の兵士なんて入っていないからね、看護婦さんとか全部入ったら・・・・。

繰り返しになりますが、原爆被害国日本が何故、ここまで敵国アメリカ、原爆投下国アメリカに対して国家をあげて調査協力したかという問題は、
60年経っても70年経っても語り継がなきゃいけない問題ですよ。
それまで日本帝国が行った全ての植民地支配、中国などへの海外侵略の総仕上げなんですよ、これは。その歴史があるから、この原爆調査を日本側は本気でやったんですよ。

あの原爆被害者の姿を見ていたら、敵が使うのをわかっていて報告書を作って、果たして敵軍に渡せるものなのか。
米軍が来て、報告書を出せと言われたが、渡さなかったので米占領軍の軍事裁判にかけられた人間がいた―といったような話が一つでもあれば、僕はこんな本は書かないですよ。
でも、そうした日本側の抵抗は本当に皆無なんです。


▲▲▲  ▲▲▲  ▲▲▲  ▲▲▲  ▲▲▲


この番組の取材協力者の筆頭に、笹本正男の名前がある。笹本正男は今年3月に亡くなっている。

尚、笹本の著書の副題<原爆加害国になった日本>は分かりにくい表現である。<原爆加害者になった日本政府と科学者たち>とするのが適切だろう。
原爆加害国に擦り寄って資料を売り渡し、自国の被害者を救出するどころか見捨てる役割を果たしたことを<加害国>というのは、問題をはぐらかす。

戦争(犯罪)は国家が市民に加害する<国家悪>なのであり、国家間取引により、罪を相殺させてはならない。
戦争犯罪は、加害者(政府) 対 市民犠牲者の枠組みで、戦争の勝敗とは無関係に裁くべきである。

番組は、「米国に渡された1万ページ・181冊に及ぶ原爆調査報告は、原爆被害者の治療の為に使われることはありませんでした」のナレーションで締め括られる。
しかしこれは結論ではなく、問題の出発点である。


アトミック・ソルジャー Atomic Soldier - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC

「1945年〜1960年代にかけて核実験演習に参加し、キノコ雲への突撃行為等によって放射線に被爆した兵士たちのこと。
兵士たちには線量を測るフィルムバッジが付けられたが、被爆したアルファ線のみが測定された。
また、兵士たちは事前に筆記テストを通じて、放射線の影響は取るに足らないものであると学習させられていた。

南太平洋エニウェトク島での水爆実験では、纏まった人数の兵士たちが動員されていた。
水爆実験は年に数回、明け方に行われたが、兵士たちは整列した上で爆発に背を向け目を覆って立ち会わされた。

米国のみならず、英国、旧ソビエト連邦、中華人民共和国においても、
残留放射能の残る核実験場で軍事演習や除染作業を行い、多数の兵士を被爆させて医学的データ等を採取した過去がある」

YouTube - Atomic Bomb Test on human subjects(原爆人体実験の映像)[4分45秒]
http://www.youtube.com/watch?v=feohcR-FeW8


◆   ◆   ◆


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■現在も(医学界・製薬業界で)暗躍する731部隊について、検証 その1


【参考資料】

731部隊 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A

YouTube - 731部隊(生物化学兵器部隊)・石井四郎の野望・元部隊員の証言(1-8)[7分25秒]
http://www.youtube.com/watch?v=-qOV2saI5kQ

YouTube - 731部隊(生物化学兵器部隊)・石井四郎の野望・元部隊員の証言(2-8)[7分03秒]
http://www.youtube.com/watch?v=8iJXN50hhQQ

YouTube - 731部隊(生物化学兵器部隊)・石井四郎の野望・元部隊員の証言(3-8)[8分14秒]
http://www.youtube.com/watch?v=Bn6PWPh6iFg

YouTube - 731部隊(生物化学兵器部隊)・石井四郎の野望・元部隊員の証言(4-8)[7分59秒]
http://www.youtube.com/watch?v=85vYCh-nNrM

YouTube - 731部隊(生物化学兵器部隊)・石井四郎の野望・元部隊員の証言(5-8)[7分42秒]
http://www.youtube.com/watch?v=s9B420p0bf0

YouTube - 731部隊(生物化学兵器部隊)・石井四郎の野望・元部隊員の証言(6-8)[7分51秒] ※何故、731部隊関係者は裁かれなかったのか?
http://www.youtube.com/watch?v=sm_5sQpmrK4

YouTube - 731部隊(生物化学兵器部隊)・石井四郎の野望・元部隊員の証言(7-8)[7分25秒] ※マッカーサー・GHQと石井四郎の戦犯免除をめぐる交渉、亀井貫一郎
http://www.youtube.com/watch?v=mD4NmE9A8HQ

YouTube - 731部隊(生物化学兵器部隊)・石井四郎の野望・元部隊員の証言(1-8【最終回】)[3分16秒] ※国立予防衛生研究所とフォート・デトリック(731部隊のデータを保管)
http://www.youtube.com/watch?v=lOBfcbpjAew


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■現在も(医学界・製薬業界で)暗躍する731部隊について、検証 その2


【参考資料】

731細菌部隊の全貌←下記に引用した文章の他に、実験内容の詳細や部隊の内部編成の詳細があります。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~dev2ec82/index.htm

注目箇所「」

731部隊とは大日本帝国陸軍の関東軍防疫給水部本部の事。関東軍管轄区域内の防疫・給水業務を行うことを目的に設置された。
細菌・化学戦研究の為に生体解剖などを行ったとされている。初代部隊長の石井四郎(1892年〜1959年、陸軍軍医中将)に因んで石井部隊とも呼ばれる。

細菌戦の研究・遂行の為に、中国・満州(中国東北部)のハルビン([Harbin] 黒竜江省の省都で、19世紀末にロシア人が建設し、鉄道交通の要地として発展した松花江中流の南岸に位置する都市。哈爾浜とも書く)郊外に、
満州事変が勃発した翌々年の1933(昭和8)年8月に創設した特殊部隊の略称。

秘匿名、満州第731部隊、正式名、関東軍防疫給水部本部。部隊の設置にあたっては、大日本陸軍命令(大陸命)が出された。

1939(昭和14)年に平房(ピンファン)付近(現在の黒竜江省平房区)に6キロ平方メートルにわたる広大な敷地に移転した同本部は、
総務部、第1部(細菌研究)、第2部(実戦研究)、第3部(濾水〔ろすい〕器製造)、第4部(細菌製造)、教育部、資材部、診療部で構成され、
大規模な各種研究実験施設、細菌製造工場、常時80〜100人を収容可能な特設監獄、死体焼却場、実験用のウサギ、モルモット、ネズミ、ノミなどを飼育する動物舎、
その他、鉄道引込線、発電所、宿舎群、更には飛行場まで整備されていた。

施設は特別軍事区とされ、機密性保持の為、その上空は日本軍機の飛行さえ禁じられた。

部隊には、東京大学や京都大学を初めとした国立大学医学部・医科大学の優秀な教授・医師、それに民間研究所の研究員らが軍属・技師として競って赴いたが、
その数は2600余人であった。

菊池 斉(ひとし)を部長とする第1部の役割は、細菌兵器としての猛毒の細菌を開発で、ペスト、赤痢、脾脱疽(ひだっそ)、コレラ、チフス、結核の各研究班は、
生体実験により細菌戦のデータを集め、ウイルス、リケッチア・ノミの各研究班は中国東北部の風土病(流行性出血熱など)を生体実験で研究、

昆虫班は、どの種の蚤(ノミ)がペスト菌の伝播(でんぱ=次々に伝わって広まること)に適しているどうか、また繁殖方法や散布方法などを、
凍傷研究班は、冬季における細菌戦や凍傷治療の有効方法を生体実験、病理研究班は、生体解剖や死体解剖、組織標本作製を担当していた。
血清研究班は、伝染病への対症療法やワクチンの開発、薬理研究班は、速効性、遅効性の毒物、化学薬品を生体実験し、敵要人暗殺用の特殊兵器を開発していた。

また、生体実験の為に送り込まれた捕虜は、女性や子供を含む中国人、ロシア人を中心とするモンゴル人、朝鮮人、少数のアングロ・サクソン系白人で、マルタ(丸太)と呼ばれた。
彼らは1000種類以上の生体実験、あらゆる生体解剖に使用されたが、その数は、1939年から1945年だけで3000人以上と言われている。

石井四郎は、敗戦が濃厚となった1945年8月13日、証拠隠滅の為に施設の完全破壊を命令、施設は尽く(ことごとく)破壊され、残されていた捕虜は全員が毒殺などによって虐殺された。

戦後、石井ら幹部は、GHQ(連合国最高司令部)と取引し、東京裁判での戦犯追及を免れることと引き換えに、細菌兵器の資料を米軍に渡し、
部下には、「秘密は墓場まで持って行け」と厳命した。

そして、731部隊の幹部たちは高額の退職金を手にして、官公庁、国立大学(東大、京大、阪大、大阪市立大、防衛大学、金沢大などの医学部教授)、
薬学研究所、病理学研究所、製薬会社(武田製薬)、自衛隊などに再就職をするのであった。

その数年後の朝鮮戦争で中国義勇軍の反撃に遭遇した米軍は、朝鮮・中国国境地帯に帯状に細菌戦や毒ガス戦を展開したが、
それは731部隊の悪夢が朝鮮半島で復活したことを意味した。

また、1948(昭和23)年8月、世間を震撼とさせた帝銀事件で当初警視庁は、使われた毒物が731部隊で製造されたものであるとの情報を根拠に内偵を進めていたが、
上層部からの政治的圧力で、731部隊追求の捜査は一切中断させられる。その為、一人の画家が犯人とされ、世紀に“冤罪”がここから生まれた。

尚、731部隊で石井を全面的に支えたのが、戦後、日本ブラッドバンク(後のミドリ十字―1998年吉富製薬と合併し、吉富製薬となる。2000年ウェルファイド株式会社に社名変更、2001年ウェルファイド株式会社と三菱東京製薬株式会社が合併し、三菱ウェルファーマ株式会社が誕生する。2007年三菱ウェルファーマ株式会社と田辺製薬株式会社が合併し、田辺三菱製薬株式会社が誕生し現在に至る)を創設する内藤良一(京都大学医学部卒)や同社の取蹄役に就任する北野政次らであった。

言うまでも無くミドリ十字は、非加熱製剤によるHIV感染(薬害エイズ問題)を事件を引き起こした企業である。

つまり、ミドリ十字ら血液・薬品産業は、731部隊の生き残りによって創設され、売血・薬品で発展し、後年、薬害エイズを生み出す土壌を生むにいったのである。
日本軍部の組織的犯罪が、現在も脈々と生き続けている一つの証左である。

問題を起こした企業・・・・株式会社ミドリ十字(薬害エイズ)、田辺三菱製薬株式会社(薬害肝炎)

このように、部隊の生き残りの部隊員からの情報資料を元に、現在でも人体実験が実際に行われていると思われます。
更に石井四郎が米国に対して戦犯を逃れる為に渡した実験資料を元に、米国で同じ人体実験を行っていることも考えられる。


◆   ◆   ◆


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■現在も(医学界・製薬業界で)暗躍する731部隊について、検証 その3


【参考資料】

731部隊の“闇”を振り返る 「国策としての731部隊」 - 全日本民医連
http://www.min-iren.gr.jp/ikei-gakusei/igakusei/zi5_medi/mw-close/mw-close-38.html

注目箇所「」

「731部隊が何故つくられたか、についてから話します。
第一次世界大戦では毒ガスが作られましたが、その後、毒ガスの使用は国際的に禁止しようと1925年に国際連盟で決まりました。ところが日本は批准しなかったのです。
石井四郎という軍医はその論議を見ていましてね、禁止しなきゃならん程の兵器ならば非常に有効な武器なんだという風に彼は逆に判断したわけです。

実は日本はその時既に毒ガスは作っていたんですが、「生物兵器」については全くノータッチだったわけです。
石井は31年から32年にかけて欧米に留学しています。その過程で各国の細菌戦・化学戦の研究を見てきて、細菌兵器を作ろうと考え、陸軍軍医学校に「防疫研究室」を作りました。
更に「基礎的実験は軍医学校で出来るけれども、人体実験その他については日本では出来ない。だから満州でやろう」と決意し、
32年に準備を始め、33年にハルピンの近郊に最初の部隊を作ったわけです」

「端的に言うと細菌爆弾を作ることです。どういう細菌を使うと一番たくさん人を殺せるか。ペスト・コレラ・チフスなど色々ありますが、炭疽菌とペストが一番効果的だと判断しました。
最終的にはペストノミ(ペストに感染したノミ)に焦点を合わせていたようです。細菌そのものを撒いても直ぐ死んでしまうからです。また単純に爆弾で落としたって、熱で細菌は死んじゃいます。
どういう風にして敵の陣地にばら撒くか、ばら撒くにも効率的に人を殺すような散布の仕方をどうするか、それを研究していました。

中国人捕虜(当時は“マルタ”という差別用語で呼ばれていました)に様々な方法でペスト菌を感染させて、例えば発病5日目にどの臓器に感染したかを観る為に解剖する。
そういう実験を約3000人の中国人に対して行いました。それを10年間に渡ってしてきたわけです」

「膨大な予算も必要になります。平房の731部隊本部だけでも3600人ぐらいの大部隊ですからね。
当然、大本営(戦時・事変中に設置された大日本帝国の最高司令部)の許可、言ってみれば天皇のサインがないと出来ないわけです。
しかし、国際条約に違反する事をするわけだから、最初は「東郷部隊」という偽名まで使いました。他の重要な幹部軍医も偽名です。

実験中に“マルタ(人体実験の為の捕虜)”が暴動を起こして4〜5人逃げ、その後中国の八路軍(当時)が攻撃を仕掛けてきたわけです。
その為、石井はもう少し安全な所ということで、ハルピンの中心から25kmほどの平房に新たな実験場を作りました。6km四方ですから相当大きなものです。
飛行場も農園も、それから鉄道引込み線もあるような大きな部隊研究室を作りました」

「少なくとも日本の医学界の中枢は、731部隊で行われていた医学犯罪の内容を知っていたと思います。当時の京都大学の医学部長も教授も何回もハルピンに行っているんです。
そこで何が行われていたか知っていた筈だと思います。昭和14・15年には石井四郎が京大に来て生体実験の内容の一部を映写機で写しているんです。
当時京大の助手としてそれを見た日野原重明先生が、2005年12月5日付の朝日新聞に投稿しています。

投稿の内容は、

「私が京都大学の医局で学んでいた時、大学の先輩でハルピン特殊部隊の石井四郎中将が現地の様子を納めた写真フィルムをもって母校を訪れました。
そこには捕虜たちの生体実験が映っていました。腸チフス・ペスト・コレラなどを感染させてから死亡するまでを収めたものです。見るに耐えられないものであり、今でも鳥肌が立ちます」

というものでした」

「国は「731部隊があった事実は認めるが、そこで行われたことに我々は関知していない」という考え方で、それは今でもそうです。
第二次世界大戦が終戦したのを契機に1949年に45カ国が集まって「世界医師会」が出来た。
731部隊やナチスのような残虐行為に対し反省するという意味で、つまり世界医師会からは日本とドイツに反省してほしいという要望がありました。

日本医師会は加盟するにあたり、「日本の医師を代表する日本医師会は、この機会に戦時中に敵国人に対して加えられた残虐行為を公然と非難し、また断罪され、
そして時として生じたことが周知とされる患者の残虐行為を糾弾するものである」と事実を認めていますが・・・・」

「当時の日本には国家総動員法による徹底的な軍国主義がありましたからね。命令されたからやったんだという考え方があります。

731部隊の幹部研究者で唯一戦後反省を公に表明された秋元寿恵夫先生は、
「命令に逆らったり解剖をしなかったりしたら、教授に破門されるか軍法会議にかけられる。だからやむを得ず行った」ということを言われています。そして反省して、あの時に抵抗すべきだったとも言っています。

別の医師(吉村寿人)は「満州の陸軍の技術援助をせよと命令された。私は断ったが、教室の正路教授から軍に入らなかったら破門するから出て行けといわれて仕方なく参加した」と言っている。
貴方が上官から命令されたら、嫌と言えますか?当時の731部隊の状況で言われたらどうですか?(略)
ニュールンベルグ宣言ってあるでしょ。第二次世界大戦後、ナチスの医学犯罪を国際軍事裁判所が裁いた法廷で起案された今の医療倫理の基礎ですが、
この宣言では「命令された場合でも善悪が判断出来る状況があれば執行した人に責任がある」と書かれています」

「ドイツとの対比で更に重要なことは、日本の政府が731部隊の問題を知りながら未だに無視している、日本医学界も無視している根源には米国の「免責」があるのです。
ちょうど冷戦が始まった時期で、米国は731部隊の持っている細菌戦の資料が早く欲しかった。
資料を寄こせば731部隊の責任は問わないという取引を行って、医学犯罪の免責が行われたのです。

それがその後の日本医学界が反省をしない、それどころか、人体実験に基づいた知識や技術を持つ元隊員たちが戦後日本の医学界をリードし、その人脈が受け継がれている要因です。
普通だったら日本の医学界から追放されるべき人が各学会のトップにいる主な理由が、この米国の免責にあるのです」


◆   ◆   ◆


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■現在も(医学界・製薬業界で)暗躍する731部隊について、検証 その4


【参考資料】

731部隊(アジアのアウシュヴィッツ・悪魔の部隊) - 田村のHP
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/731butai.htm

細菌戦部隊を支えた主な人物、戦後の就職先
http://www1.ocn.ne.jp/~sinryaku/731butaiseturitu.htm

http://www9.plala.or.jp/rescue/09-1.html

ミドリ十字 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%89%E3%83%AA%E5%8D%81%E5%AD%97

「輸血用の血液を補う人工血漿を製造する装置の特許を持った人がいて、それで朝鮮戦争の米負傷兵の治療のための輸血剤を大量生産して大儲けしたのが、ミドリ十字の始まりです。
で、その特許を持っていた人は731部隊の出身者だったわけですが、731部隊では「人間の血液のどれぐらいを生理食塩水で代替出来るか」とか、人体実験で人工血液の研究をしていたので、
この人工血漿装置にもそのノウハウが生かされています。のちにこの人口血漿から、血友病患者の為の治療薬が作られたわけですが、これが非加熱製だった為、ウィルスを含むことがあり、
それがHIVや肝炎の薬害を起こすことになりました」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313243133

731部隊とエイズとの関係 - 日本を守るのに右も左もない 2007年9月21日
http://blog.trend-review.net/blog/2007/09/000432.html

「第二次大戦中、731部隊、武田製薬、モンサント、ブッシュ、ロックフェラー、ファルベン、ヒトラー、メルクは、日米独のBC兵器ネットワークを形成していた」 - オルタナティブ通信 2009年5月27日
http://alternativereport1.seesaa.net/article/120286342.html  

三菱ウェルファーマ - Wikipedia---民主党(献金)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%9E

田辺三菱製薬株式会社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E8%BE%BA%E4%B8%89%E8%8F%B1%E8%A3%BD%E8%96%AC

長崎2区から出馬の福田衣里子について - 人は人 吾は吾なり 2009年7月23日 ※こういう意見もある、という参考。
http://blog.goo.ne.jp/shinji3000/e/a33e5767607a0feb13f3de1934f25203

ベトナム戦争における枯葉剤、他 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%AF%E8%91%89%E5%89%A4

「だが事件はそんな偶発的なものではなく、タイ軍部も関係した作戦行動に起因したものだったことが分かってきました。
つまり、このオレンジ剤はランチハンド(枯れ葉剤作戦のコード名)プロジェクトの一環として、本格的にベトナムで使用する前に、タイの森林でその効果を試す為に使ったものの一部らしいのです」
http://home.e06.itscom.net/chemiweb/ladybugs/kiji/t09103.htm

枯葉作戦とは何だったのか - 北海道AALA連帯委員会
http://ha6.seikyou.ne.jp/home/AALA-HOKKAIDO/kareha.htm

化学兵器ダイオキシン 第1回: 枯葉剤の原料は日本で作られていた - ヤパーナ社会フォーラム
http://homepage.mac.com/k.anno/jsf/environment/kazuaki/chemical_weapon_dioxin_1.html

「枯れ葉剤製造企業はダウ=ケミカル、モンサントがありますが、モンサントは四日市ぜんそく公害企業の三菱化学と合弁企業で被告となった企業であり、
ダウ=ケミカルは、水俣病公害企業チッソ系列正力派信越化学工業とシリコーンで取引しています。
731部隊は、有名国立大学医学部部長や内閣府機関の所長や北里研究所で研究している者達が戦後多く、リスパダール、ジプレキサ使用の神戸医大の前田医師や、
明石家さんまの平良医師もその関係に近い可能性が高く、神拳阪神ボクシングジム・ドーピング剤使用等の事件にも連なる可能性があり、
ワイン城増田氏(彼を犯人と言っている訳ではない)が、731部隊設立の薬害エイズ倒産企業ミドリ十字に入社していただけに、戦犯と取引した岸首相と自民党の人間関係を明らかにしなくてはならないと思います」
http://ameblo.jp/serayasuo/entry-10553208639.html

ジョンズ・ホプキンス大学、WTOの起源 - オルタナティブ通信 2008年1月16日
http://alternativereport1.seesaa.net/article/78818300.html

731部隊:元隊員5人が実名 「731部隊の真実」改訂版発刊/岩手 - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/area/iwate/news/20100810ddlk03040082000c.html


◆   ◆   ◆


(39頁へ続く)

(38頁からの続き)


≪BGM その2≫

YouTube - さだまさし - 「広島の空」&64年前の広島・長崎 閲覧注意[5分55秒]
http://www.youtube.com/watch?v=Wse3ydP7tWs

YouTube - Nick Cave - 「To Be By Your Side」
http://www.youtube.com/watch?v=Ny4izkgnX_k

YouTube - 青葉市子 - 「ココロノセカイ[剃刀乙女 収録]」
http://www.youtube.com/watch?v=l8jBYqUqhzQ

YouTube - 青葉市子 - 「腸髪のサーカス[剃刀乙女 収録]」
http://www.youtube.com/watch?v=tB-__OVKVL8

【Special interview】原田郁子、2ndソロアルバム『ケモノと魔法』完成! - CDJournal.com
http://www.cdjournal.com/main/cdjpush/harada-ikuko/1000000124

YouTube - 原田郁子 - 「ユニコーン Live at FUJIROCK 08[ケモノと魔法 収録]」
http://www.youtube.com/watch?v=bPoRW424G2o

「ユニコーン」歌詞(作詞:友部正人) - Yahoo!MUSIC
http://music.yahoo.co.jp/lyrics/dtl/KAA058972/AAA101901

YouTube - 原田郁子 - 「風色夏恋 Live at Ravenna 2010[たのしそう かなしそう収録]」
http://www.youtube.com/watch?v=cJvyN_FiB_4

 「風色夏恋」 Lyric by 原田郁子

 風にそよぐ 白いシャツ
 風にそよぐ 青い夏
 強い日差しが よく似合う
 風にそよぐ 君のシャツ

 風になびく スカート
 風になびく 恋の味
 強い日差しに 目が眩む
 風になびく 私のスカート

 風に揺られて 走る
 風に揺られて 二人は
 強い日差しを 浴びながら
 風に揺られて 夏を走る

 走る


YouTube - Clammbon - 「Re-雨[Re-Clammbon 2収録]」
http://www.youtube.com/watch?v=h9wgmwjgpBo

YouTube - Clammbon - 「雨(Live)[id収録]」
http://www.youtube.com/watch?v=uKGAAuuyqXA

「雨」歌詞(作詞:310/195) - Yahoo!MUSIC
http://music.yahoo.co.jp/lyrics/dtl/KAA029563/AAA413327/

 「雨」 Lyric by 310/195

 曇ったガラス 指でなぞると ちょっと
 山あいから 灰色の雲 そっと
 
 目を逸らさずに ここにいよう
 忘れていた 雨の色も 見えてくるよ

 西側の方 時報に寄り添うecho
 雨粒のdot 偶然鳴らしたchord
 あの歌はきっと 街に揉まれrit
 瞬き 一つの間に聴こえたoto

 耳塞がずに ここにいよう
 ふっと漏らした 溜め息さえ
 今ならきっと わかると思う
 前よりずっと わかると思うよ

 千早降る都の舞いはよしなし事を詠うばかり
 夢香る霞の空を行き交う人風のまにまに
 千早降る都の舞いはよしなし事を詠うばかり
 瀬をはやみ流るる日々もかえすがえす降る雨のやう

 目を逸らさずに ここにいよう
 ぼやっとしていた 視点が今 合ってゆくよ

 気が付けばもう 握ってたお茶は ちょっと
 

◆   ◆   ◆


(40頁へ続く)

(39頁からの続き)


≪おまけ資料 その1≫

神曲 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2

地獄の門 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%8D%84%E3%81%AE%E9%96%80

サタン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%BF%E3%83%B3

地獄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%8D%84

煉獄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%89%E7%8D%84


[Image Photo] Rodin's “Gates of Hell”
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&q=Rodin's%20%E3%80%80Gates%20of%20Hell&rlz=1R2GFRE_jaJP369&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1003&bih=567

http://web.me.com/bindinglogic/Binding_Logic/Blog/Entries/2009/11/5_Rodin%E2%80%99s_Gates_of_Hell__files/shapeimage_1.jpg

http://www.rodin-web.org/works/pix_nikon/kneeling_fauness_jarrasse_700h.jpg

http://www.rodin-web.org/works/pix/gates_ugolino.jpg

http://www.rwkotulski.org/images3/gatesofhell2.jpg

http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/rodin/

[Image Photo] Camille Claudel
http://4.bp.blogspot.com/_zOAxGMzhbJ4/RzLbeE7HeuI/AAAAAAAABT4/o1cSESa3qPc/s400/Claudel_cotillas_pared.jpg

http://www.bluetravelguide.com/photosBTG/00/00/04/97/ME0000049799_3.JPG

YouTube - Cap'24 - Camille Claudel au musée Rodin[2分49秒]
http://www.youtube.com/watch?v=5_CblWSYBNg


◆   ◆   ◆


(41頁へ続く)

(40頁からの続き)


≪おまけ資料 その2≫


[Image Photo] イスタンブール美術館&ベルヴェデーレ宮殿

Decorative Lycian sarcophagus from Sidon, Istanbul Archaeological Museum, c. 400 B.C.
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/f3/a68e04aadff464d68d24966ec522cade.jpg

http://www.kamit.jp/07_lycia/xsidon.htm

http://www.google.co.jp/images?hl=ja&q=Istanbul%20Archaeological%20Museum&rlz=1R2GFRE_jaJP369&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1003&bih=567

Sphinx in the baroque gardens of Belvedere Palace
http://www.geocities.jp/sonaiere/_gl_images_/DSCF8713.JPG

http://www.google.co.jp/images?hl=ja&q=Schloss%20Belvedere&rlz=1R2GFRE_jaJP369&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1003&bih=567

古代エジプトの墓に眠っていた動物たちのミイラ(猫のミイラ、他) - カラパイア 不思議と謎の冒険
http://karapaia.livedoor.biz/archives/51524020.html


◆   ◆   ◆   ◆   ◆

◆   ◆   ◆   ◆   ◆


(全41頁未完)

※Roentgenium:戦後の原発利権やロスチャイルドのことなどについてもこのテーマに纏めたかったのですが、一旦、41頁にて終了します。


P.S.

※山科ブログにも投稿しておきました。
URLリンクこそ5つまでと制限(それぞれ5つに絞っています)はありますが、デザインや活字体は、どな解放区より読みやすいと思います。

≪野蛮なテロ国家“米国”、広島・長崎の原爆投下の真相〜当時から現在へ受け継がれる問題、他(25〜41)≫
http://kyosukeyamashina.blog62.fc2.com/blog-entry-476.html#commenttop

 

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