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はじめに
二〇〇九年九月の政権交代が日本の政治史の中で画期的な意味を持つことは、どれだけ強調しても、誇張にはならないであろう。政権交代によって始めて可能になった情報公開、政策転換もいくつか達成された。社会福祉政策の拡充、事業仕分けによる官僚の既得権への切り込みなどは、自民党政権では思いつかれもしなかったろう。これらの政策や改革の意義はきわめて大きいことを、ここで改めて確認しておきたい。鳩山政権がどんなに落ち目になっても、政権交代は日本政治にとって画期的な意味を持っていた。
もちろん、鳩山政権のリーダーシップの弱さ、政治家たちの脆さ、政権運営をめぐる戦略の欠如などによって、千載一遇の好機を逃したという悔いは大きい。しかし、今必要なことは、政権の欠陥やリーダーの質の悪さをいたずらに嘆くことではない。この政権交代が何を目指すべきであったのかをもう一度確認したうえで、本来の目的を達成できなかった理由を厳しく究明することこそ、政治学者の任務である。
政権交代可能な政党政治の確立は、日本政治にとって百年単位のプロジェクトである。最初の政権交代に試行錯誤はつきものである。重要なことは、錯誤を自ら認識し、これを修正することができるかどうかである。鳩山政権という一つの政権の命運や帰趨を超えて、政権交代にともなう政策転換をいかに進めるかを、失敗に基づいて批判的に総括することこそが、現下の急務である。最初の民主党ができてから一五年間にわたってこの党を軸とする政権交代を説いてきた者にとって、鳩山政権の敗因を論じることは大変辛い作業である。しかし、そのことなしに日本の政党政治の深化はありえない。本稿では政権交代とは何であるべきだったのか、改めていかにしてそれを実現するかについて、考えてみたい。
1 政権交代とは何であるべきだったのか
民主党政権の誕生は、日本で政党政治が始まって以来、歴史的な出来事であった。日本政治史の碩学、坂野潤治の表現を借りれば、福沢諭吉以来、一部の知識人が唱えていた民意・選挙による政権交代と、昭和戦前期に無産政党が議会に進出して以来課題だった、社会民主主義政党と穏健保守勢力の結集という二つの課題を、一度に実現したようなものである。坂野は近代日本政治について、次の二つの問題を指摘していた。
福沢はイギリスを範として、「平穏のうちに政権を受授する」ことを政治の理想と考えた。しかし、民主化を要求した自由民権運動は、直接行動による政権奪取を夢想するルソー的ロマン主義に影響され、福沢のような「政権交代のある民主政治」を求める議論は、有力にはならなかった。
一九二〇年代に普通選挙制度が導入されて、無産政党が進出した。一九三〇年代に無産政党と反軍国主義的色彩が相対的に濃かった民政党が提携することに成功していたら、政党政治の崩壊、ファッショ化を防ぐことができたかもしれない。しかし、民政党は参加手続きに関する民主化には積極的であったが、社会経済的平等化には冷淡で、無産政党との提携は選ばなかった。無産政党の中には平等化という課題について軍と近づく勢力も出た。
民主党による政権交代はこの二つの課題を一挙に実現した。第一の課題については言うまでもない。第二の課題についても、結果論ではあるが、穏健保守と社会民主主義の提携が実現したということができる。民主党は自民党に劣らず、右から左まで雑多な政治家を抱えていると言われてきた。労働組合を支持基盤とする旧社会党、旧民社党勢力も存在するが、多数派ではない。九〇年代の政治改革以後に政界に入った中堅、若手の中に社会民主主義的理念をもつ者も存在するが、少数である。しかし、民主党は「生活第一」という社会民主主義路線を掲げて政権を取った。
このことは、小沢一郎が代表に就任したから可能となった。彼はもともと自己責任型社会を作ることを目指していた。しかし、二〇〇五年の郵政民営化をめぐる解散総選挙で、新自由主義路線をとる自民党が圧勝した時以来、民主党が政権を取るためには社会民主主義的なアジェンダを立てるしか道は存在しなくなった。本来新自由主義路線への親近感を持つ前原誠司が二〇〇六年三月にいわゆる偽メール事件で代表を退いたことで、民主党は政権交代への道を歩み始めることができる環境に置かれた。党のどん底状態で代表を引き継いだ小沢はそのことを理解し、政権獲得への道を合理的に選択した。そして、生活第一というスローガンの下に、本来の社会民主主義のグループと、保守を接近させて、小沢体制の基盤を築いた。新自由主義的構造改革によって荒廃した社会において、生活第一路線は魅力的なスローガンとなった。
もちろん、生活第一路線が深い理念的な論争から形成されたものではなかったことも、事実である。そのことは政権獲得後の民主党に大きな影を落としている。その点については後で論じる。ともあれ、民主党が生活第一路線で政権を取ったことで、社民勢力と穏健保守の協力により、本格的な福祉国家を整備する好機が形成されたことは確かであった。
民主党政権が本来目指すべき理念は、三つのポストによって表現することが可能であった。第一は、ポスト冷戦である。その中身は、アメリカの一極主義的な軍事行動への追随を見直し、アジアにおいて平和を作り出すという方向性である。鳩山政権は、核軍縮への積極的な姿勢、東アジア共同体構想、普天間基地の海外移転など、この方向のアジェンダを打ち出した。
第二は、ポスト物質主義である。その中身は、成長の限界を踏まえ、持続可能性を鍵に経済のパラダイムを組み換えることである。鳩山首相は温室効果ガスの25%削減を打ち出し、この方向に踏み出すことを公約した。
第三は、ポスト権威主義である。その中身は、市民の能動性を強化し、開放的な多文化社会を作ることである。民主党は、これまで夫婦別姓や市民活動の支援などを唱えてきた。
ここで簡単に紹介したように、これらの理念に関して、当初は民主党も的確な方向感覚を示した。鳩山首相の所信表明、施政方針演説には、そうした理念が表明されており、それ以前の首相の演説とは異なるメッセージ性が込められていた。国民が鳩山政権の誕生に大きな期待を寄せたのは、そうした政策の根本にある理念を刷新することを望んだからであったろう。同時に、これらのビジョンは旧時代との訣別を打ち出すものであり、冷戦時代や権威主義を懐かしむ側からは強い反対を受ける。そこでこそ、政府与党の指導者の確信の度合いが問われることとなる。
政治学の世界では、「中位投票者の仮説」というのがある。左右の軸において世論が正規分布していることを前提に、小選挙区において政党・候補者は、最大多数を占める中間的な投票者の選好に接近し、政党間の差異がなくなるという仮説である。しかし、二〇〇九年の政権交代にはこの仮説は当てはまらなかった。この仮説は十年ごとに政権交代を起こすヨーロッパの政治社会には当てはまるのかも知れない。しかし、日本において自民党政権を倒すことはレジームの転換であり、政権交代を訴える民主党は自民党には絶対できない政策を掲げることとなった。その意味では、民主党が重要視する政策には、鋭い党派的対立を惹起するものが含まれていたのである。
演説において新しい理念を示すことは容易である。政治家、政権の真価は、対立する勢力から批判や攻撃を受けた時に、それに的確に反論し、自らの政策を推進することができるかどうかにかかっている。残念ながらこの点でも、民主党の信念は不十分であり、反対に遭うとぶれが目立つこととなった。また、大局的な理念を具体的な政策につなぐ知恵や戦略にも欠けていた。そうした限界について、分析しておきたい。
2 統治手法における失敗
民主党政権の失速の原因については、政権・与党の運営システムに関する過誤と、政策理念に関する弱さの両面が指摘できる。
まず、政権・与党の運営システムにおける誤謬から見てみたい。第一に指摘すべきは、政治主導の空転である。民主党は、官僚支配からの脱却、政治主導の実現を強調してきた。しかし、官僚支配にしても、政治主導にしても、その意味を十分考察したうえでの議論ではなかった。
そもそも官僚支配とは何だろうか。官僚が政治家の前に立ちはだかり、政治家が進めようとする政策を力ずくで阻止するという意味での官僚支配は、日本国憲法のもとではありえない。法律と予算を決定するのは国会だけである。国会議員の多数が一つの意思表示をすれば、官僚がそれを否定することなど不可能である。地方分権や歳出の優先順位の変更など、官僚が自ら進んで取り組もうとしない政策について、政治家が一元的な意思を形成できないから、官僚支配が発生するのである。言い換えれば、与党の政治家がまとまって意思を共有できれば、政治主導、官僚支配の打破は瞬時に実現する。
考えてみれば、政治主導とは奇妙な言葉である。この言葉には、政治家という主語と、主導するという動詞は存在するが、動詞の目的語は存在しない。政治家が決めると叫んでも、何を決めるのかという認識が与党の政治家に共有されていなければ、政治主導は実現されない。現状の政治主導は、自分は大人になったと錯覚した子供が、父親の洋服を着て外へ出たものの、見てはいられない情景である。はらはらしているうちに、余ったズボンの裾を踏んで、自ら転んだというべきか。
第二の問題は、政府与党一元化をめぐる錯覚である。民主党は政権交代ののち、政府与党の一元化と称して、政策調査会を廃止した。自民党政権において、族議員が政務調査会を拠点に独自の議論を行い、時として政府と対立し、政策決定がデッドロックに陥ったことへの批判がその根底にあった。しかし、政調の廃止は、民主党と政権に大きな問題をもたらした。自民党の政調が政策決定の分断や腐敗をもたらした理由について分析を欠いていたために、的外れの組織変更を行うこととなったのである。自民党の政調会が利権政治と官僚支配の温床となったのは、政調の部会を単位とした議論がすべて官僚に依存していたからであった。政治家の自律的な政策論議の場とすることができれば、政調は与党政治家の政策能力を向上させ、本来の政治主導を進める推進機関となれるはずである。
しかし、民主党は政調を廃止したため、政務三役以外の大量の与党議員が、活躍の場を失うこととなった。また、地域や各種の組織・団体から出てくる要望や情報のフィードバックについても、与党は受け止めることができなくなった。
実際に政策形成を進めるうえでは、外部からの要望の受容も、与党全体にわたる調整も不可欠である。そのことに後で気づいた民主党は、幹事長室でフィードバックも調整も一元的に行うこととなった。しかし、それはいわゆる小沢幹事長による独裁体制をもたらしたのである。
また、政権交代の後も、国会における議論のあり方が旧態依然であったことも、民主党に対する期待をしぼませる一因となった。民主党は野党時代に、当時の自民党がまともな審議に応じない、質問に答えず数の力で法案を成立させるだけという批判をしてきたはずである。しかし、自分たちが政権を獲得すると、かつて批判したはずの自民党と同じような国会運営を引き継ぐだけであった。そのことの弊害は、政治と金をめぐる疑惑が政治の争点になった時、顕著になった。鳩山、小沢両首脳の政治資金をめぐる疑惑について世論の批判が高まった時、民主党は野党の要求を無視して、国会における質問、追及に応じなかった。仮に民主党が日本の民主政治の刷新を本気で実現したいなら、自分たちのスキャンダルについても隠ぺいせず、批判を受けるとともに、自ら情報開示を進めるべきである。
また、稚拙な国会運営のせいで審議日程が詰まってくると、会期末に強行採決を行って法案成立を図るという手法を繰り出した。これも、野党時代にはさんざん批判してきたはずである。政治の変革を期待した市民も、既視感にとらわれた。政権交代にもかかわらず、議会政治には何の進化も起こっていないと総括せざるを得ない。
3 政権交代至上主義と選挙至上主義
次に、政策面での失敗の原因について見ておきたい。
最大の問題は、マニフェストの欠陥にある。民主党はマニフェストに基づいて新政権の政策を展開することを繰り返し強調してきた。しかし、基本になるはずのマニフェストに大きな欠陥があった。英和辞典を引くと、マニフェストという言葉には二つある。本来のmanifestoは、communist manifestoのそれであり、人々を鼓舞する政治的宣言である。その根底には、理想、思想が存在する。もう一つのmanifestは、積荷目録という意味である。民主党のマニフェストは、積荷目録と言わざるを得ない。様々な項目は並んでいるが、脈絡はない。そして、温暖化対策の大胆な展開と、揮発油税減税や高速道路無料化など、明らかに矛盾する政策が並んでいる。こうした矛盾をもたらした原因を遡れば、政策体系を導く、あるいは政策の優先順位の基準となる、理念の不在という現実に行きつく。
民主党の中堅政治家は、政策通を自任している者が多い。それらが手分けして、いろいろな分野で政策を起草した。マニフェストはそうした個別政策をホッチキスで束ねた程度のものである。それぞれの政策を見れば、それなりの意味はあるのだろうが、全体として民主党政権がどのような社会を目指すのかという目標、理念が伝わってこない。
この点は、予算編成や税制改正の中で露呈し、政治の混乱の原因となった。鳩山首相が温暖化サミットや国連で、二〇二〇年までに二酸化炭素の排出量を一九九〇年比で二五%削減すると宣言した時、多くの国民は感動し、既存の経済構造にどっぷり浸かっている経済界は反発した。ポスト物質主義のパラダイムを切り開く民主党としては、鳩山イニシアティブを梃子に、交通、エネルギー、産業、農林業などの政策を体系的に組み換えるべきであった。そうなれば、化石燃料の消費を促進するような揮発油税減税などという政策が出てくる余地はないはずである。また、実現不可能だという経済界からの反発に対して、自らの理念に基づいて堂々と反論することも必要であった。さらに、子ども手当や高校無償化などの政策に対して、「ばらまき」という批判が浴びせられた時、明確な理念を示して、これからの政策の目指す価値観を訴え、国民を説得することもできたはずである。
しかし、理念や価値観を欠いたマニフェストを金科玉条にするという発想は、支離滅裂な政治をもたらした。価値観の部分に関する確信が政府与党の指導層に共有されていないため、政策論議がぶれるという印象を与えることになった。
この点は、小泉政権と著しい対照をなしている。小泉政権の場合、政策内容の評価は別として、民営化、新自由主義路線に対する強いコミットメントがあり、それを推進するために経済財政諮問会議という権力中枢の仕組みが整備され、官邸による情報管理やメディア対策も周到に行われた。前者では竹中平蔵が、後者に関しては飯島勲秘書官が、総理からの明確な指示と支持を受けて、政策形成や政局運営の軸となった。総理大臣がいかに人気者であっても、一人だけでは何もできない。方向性を共有したスタッフや側近が体制を整備してこそ、政策は実現する。二〇〇一年四月の自民党総裁選挙は、きわめて擬似的なものではあったが、旧式の自民党派閥政治から小泉政治への政権交代という印象と期待を国民に振りまいた。小泉は政権交代から派生する勢い(momentum)をフルに活用して、政策転換を推進する体制を作った。郵政民営化という小泉政権最大のプロジェクトに関しては、当初民営化の意味を十分理解していなかった世論も、次第にこれを強く支持するようになった。
この点に関して、民主党の準備と戦略の不足は、致命的でさえあった。本来、政権交代は大きな政策転換を実現するための絶好の政治的資源である。一九九七年に誕生したイギリスのニューレーバーは、スコットランド、ウェールズの地方分権や、医療、教育予算の急増という大きな政策転換を実現した。二〇〇九年に発足したアメリカのオバマ政権は、曲折の末、医療保険改革を実現した。それぞれ、選挙で勝利する際に国民から負託(mandate)を勝ち取り、それに基づいて政策転換を実現したのである。
二〇〇九年九月の民主党も、それらと同様の負託を得ることはできたはずである。しかし、民主党は国民の支持を政策に関する負託に変換することができなかった。自民党政治が半世紀以上も続いた日本において、政権交代を起こすことはそれ自体目的であったのは、仕方ない現実である。しかし、政権交代によって新しくできた政府が国民にとって有益な政策を実現できなければ、政権交代の意義も霞んでしまうという現実もある。したがって、民主党が政権交代可能な政党システムを日本で構築しようと思うなら、政権交代を手段として位置づけ、新政権が推進する政策転換についてある程度の戦略を用意すべきであった。結果的に、民主党は政権交代至上主義に陥っていたというほかない。
政権交代至上主義は、小沢幹事長が進める選挙至上主義にも直結している。もちろん、代表民主主義において政党や政治家が選挙に勝利することを最大の目標に据えることは当然であり、非難するには当たらない。それにしても、政権交代を選んだ日本の有権者を相手にして、どうすれば選挙に勝てるかを考えることが民主党、特に選挙対策を仕切る小沢幹事長に求められている。
小沢は、政権獲得以来、自民党の息の根を止めることを自らの最大の使命としてきた感がある。そのために、二〇一〇年七月に予定されている参議院選挙において、政権党としての力をフルに発揮して自民党の支持基盤を切り崩すことを画策してきた。二〇一〇年度予算の編成に当たって、公共事業補助金の箇所づけに関する情報を民主党の地方組織経由で全国に流したことは、市町村長や地方議員に民主党政権の威光を見せつけ、以後民主党に恭順を尽くすよう求めたメッセージと見ることができる。また、土地改良予算を大幅に削減し、土地改良団体の代表であった野中広務に大きな屈辱を味わわせたのも、権力の在処がどこなのかを自民党を支持してきた団体に見せつけるというねらいの下で行われたデモンストレーションであった。さらに、歯科医師会から始まって、自民党を支持してきた各種の職能団体に揺さぶりをかけ、民主党支持への転向を求めた。
こうした辣腕を見せつけられると、国民は白けるばかりである。国民は、自民党政治に変わる新しいシステムを求めて政権交代を引き起こした。部分的に民主党が新しい政治を始めようとしていることは伝わってくる。だから、最初の事業仕分けが大きく報道された時、内閣支持率は上昇した。しかし、小沢幹事長が目指したのは、自民党政治が築いた権力構造はそのまま温存し、民主党がそれを簒奪するということだけだったのではないか。民主党がもう一つの自民党に見えるようになった時、内閣や党の支持率が低下するのは当然である。
4 党派対立における腰砕け
政権交代至上主義は、寄せ集め政党である民主党が結束を保ち、政権交代に行き着くためには不可避だったという評価もありえる。私自身は、イギリス労働党、アメリカ民主党の機能的代替物として、民主党に中道左派、あるいはリベラル派の路線を追求するよう提言を続けてきた。小沢一郎の下で生活第一路線を掲げ、この党は一応日本版の中道左派政党の路線を選んだ。しかし、民主党は英米の類似政党よりも、はるかに幅が広く、党を統合することにリーダーは苦労してきた。
小沢は代表就任以後、党の結束を守るために、憲法論議を棚上げにした。また、当時の自民党との対立構図を明確にするために、中道左派路線を取り、それを「生活第一」という誰も反対しないシンボルでくるんだ。そこまでは賢明な政治的判断であった。しかし、政権獲得以後は、そうした曖昧化の戦術では立ちゆかなくなる。仮に民主党が「生活第一」という軌道で政権運営を巡航速度に乗せることを望んだなら、経済財政諮問会議に匹敵する政策形成の司令塔を設置し、そこに竹中平蔵の対極に位置するような社会民主主義のブレーンと政局やメディアを担当する参謀役を配置して、政策形成の流れを作るべきであった。そして、与党の主立った政治家には社会保障、雇用、地域経済などに関して具体的な課題をあてがい、政策転換に向けて政治的なリーダーシップを競わせるという政策論議の空間を作ることが必要であった。政治家個人の思想とは関係なく、首相から割り振られた課題を実現することで政治家としての力量を示すという状況におかれれば、初めて政権に就いた政治家はその方向で努力したであろう。
しかし、実際に民主党が取ったのは、マニフェストを金科玉条とすることで党を束ねるという手法であった。マニフェストに書いてある政策項目を実行することは誰も反対できない正論であり、この方法により民主党を結束させることはできるように思えた。しかし、先に述べたように、理念を軽視したマニフェストを額面通り実行しようとすると、政策同士の間で齟齬が起こり、やはり政治的な紛争が発生した。そうした紛争を解決し、政権運営を一つの安定した方向に向けるためには、やはり基本的な理念や路線をめぐる議論と、政権のミッションに関する最低限の合意が必要だったのである。
政権を獲得すると、民主党は政策の価値軸をめぐる党派的な対立に対して、政権党として立ち向かうという初めての課題に直面した。先に述べたように、民主党の示したアジェンダは、党派的な意味での先鋭な対立を惹起するようなものを含んでいた。実際、『正論』などの右派メディアは、日米安保の見直しや社会福祉の拡大について、米共和党がオバマを批判したのと同じように、社会主義だとして攻撃していた。オバマと鳩山の最大の違いは、自らが追求するアジェンダについて、そうした党派的な攻撃に正面から反論し、自らの理念を語る勇気と政治的な力を持っていたかどうかである。
最後に、政権交代以後の政治の混迷と、政治学の責任について触れておきたい。この点に関しては、民主党の背後、あるいは周辺で政権交代に向けた理論を整備した学者の言説にも原因があると私は考える。特に、佐々木毅氏及び二一世紀臨調が政権交代至上主義を民主党に注入したことは重大であった。政権交代によって資源配分や外交戦略をどう変えるかという問いを一切捨象し、手続き制度に関する政治改革の文脈に政権交代を封じ込めたのは、二一世紀臨調の議論の最大の特徴である。
彼らの戦略は、党派性を否定し、超党派的な運動体にメディア、財界、労働界を巻き込み、あらゆる党派に対して等しく妥当する改革の命題を突きつけ、しだいに政権交代という結果に近づくというものだったと思われる。したがって、その議論は政党政治の前提ルールに向けられるだけであった。超党派的な議論を目指す以上、資源配分のあり方に踏み込むことはできないのが当然であり、この点は、呉越同舟政党としての民主党にとっても好都合であった。
政党に対してマニフェストを作れという説教はするが、どういうマニフェストを作れという議論は一切議論しない。また、北川正恭氏の悪影響で、マニフェストにおいて過度に数値目標が重視される一方、政策を統合する基本的な思想については何も語らないというきわめていびつな議論が横行した。民主党には官僚上がりの秀才タイプも多く、思想のない政策論議を好むという点では、この種のマニフェストが受け容れられる土壌があった。何度も繰り返したように、思想を共有しなかったことこそ、政策転換の過程で、政府、民主党が反対論に対して十分な反論、説得ができなかった最大の理由であった。
先日、『大杉栄評論集』(岩波文庫)を読んでいたら、「盲の手引きする盲」という文章に遭遇した。これは大杉が吉野作造を批判したものである。もちろん、大杉一流の噛みつき方で、吉野の議論を単純化した話ではあるが、大杉の吉野批判が当代の政治学者に対する批判としても当てはまるように思えた。大杉は言う。
「かく第一義的のものを看過して、第二義的なものに没頭するところに、学者先生、殊に社会科学の学者先生の本領があるのだ」(同書、一四七頁)
「政治の目的は分からない。何のためだか何人のためだか分からない。しかしとにかくその目的を達するための最も有効な方法があるというんだ。実に眉唾物の至りである。」(同書、一五七−一五八頁)
まさに、二一世紀臨調の議論は、大杉の言う「最も有効な方法」を示すものであった。今の政治論議に必要なのは、まさに目的を明示し、その根底にある価値観にコミットすることである。学者がこぞって民主党政権を応援する必要はない。それにしても、目前の課題に関して、いかなる選択を下すべきかを考え、民主党政権が掲げた理念に賛同するならば、政治の対決場に身を曝しても、民主党援護の砲列を敷くことこそ、政治を論じる者の責務である。
付記
脱稿直前に、普天間移設をめぐり社会民主党が連立を離脱した。これは、一時の自己満足(目先の選挙)のために、大局的判断を放棄する、日本左翼にありがちな玉砕主義の現れである。民主党政権をハト派の側に引っ張るという役割を放棄した社民党の誤りは、今後の日本政治に大きな弊害を及ぼすであろう。
(『現代の理論』2010年夏号)
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