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「私の8月12日〔亡き先輩へのレクイエム〕 投稿者:渡邉良明 投稿日:2010年 8月10日(火)21時56分1秒
※渡邉先生のご投稿が下に行ってしまったので、副管理人が勝手に再アップしました。
(gigi様、並びに皆様へ 今回も、長文を、どうかお許し下さい。)
人には、必ず人生の先輩がいる。学校、職場、地域などの中に、様々な先輩がいよう。
私の忘れ得ぬ先輩は、小学生の頃の、色白の眉目秀麗な方だった。彼は、いつも笑顔を絶やさず、誰に対しても心優しい人だった。
5歳年長なので、特に親しく語り合ったことは無いけれど、少年の頃、私が、心から憧れた先輩である。彼の周囲には、常に幸せな雰囲気が漂っていた。それゆえ、少年時代の私は、彼を見る度に、心地よく感じた。
けれども、彼は、今はもう、この世にはいない。四半世紀も前に、亡くなってしまった。
今年も、あの「御巣鷹の日」が、間近に迫っている。1985年8月12日(日)、午後6時12分20秒、JAL123便(ボーイング747型機)は、大阪(伊丹)空港に向けて、羽田空港を離陸した。
同機の乗員・乗客数は、524名(他、赤ちゃん1名)。コックピット内の操縦席では、正面に向かって左側の機長席に、機長になるための昇格訓練(あるいは、試験)中だった佐々木祐(ゆたか)副操縦士(39)が座った。つまり、この時、同氏が操縦桿を握っていた。
また、教官の高濱雅己機長(49)が、彼の右に着席した。高濱氏は、海上自衛隊出身の熟達したパイロットである。さらに、ベテランの福田博航空機関士(46)も、後方のいつもの機関士席に座った。
客室では、12名の客室乗務員が、それぞれの持場についた。坂本九氏(43)を含む乗客者数は、509名(他、赤ちゃん1名)だった。
(実は、九ちゃんに対して、私には、特別な思いがある。小学6年生の頃の私にとって、彼は、まさに「ヒーロー」だった。私事だが、小学校の卒業文集に、同級生たちのように、絵を上手く描けなかった私は、一人だけ、「上を向いて歩こう」と書き遺した。
また、中学時代の私のアダ名は、「変人」の前に、実は、「九ちゃん」だった。ひときわ目立つニキビ顔だったからだ。それに、友達から、「九ちゃんと、笑顔が似ている」とも言われた。
その彼が、突然、不帰の人となった。その時受けた私のショックは、とてつもなく大きかった。日本で、九ちゃんほど、国民から愛されたキュートな歌手はいなかったと感じる。)
ところで、JAL123便が、伊豆大島の北を、下田市方面を目指して上昇中、これから水平飛行に移ろうとした途端、相模湾上で、突如、「トラブル」が発生―。
その時刻は、午後6時24分35秒。それは、離陸後、12分ほどの出来事だった。では、この突然の「トラブル」とは、一体何か?
事故調査委員会(略称「事故調」)は、圧力隔壁の破壊によって垂直尾翼が破損した、と発表―。つまり、彼らは、昭和53年(*同事件の7年前)6月2日の同機の「尻もち事故」直後、ボーイング社による修理ミスによって、亀裂(=金属疲労)が進行した、と主張した。
そして、それが、今回の「トラブル」につながり、結果、垂直尾翼を破壊したと“推定される”、と報告した。つまり、日本政府は、「急減圧原因説」と採る。
しかし、日航関係者や同事件の真相究明者からすれば、この説は、甚だ矛盾に満ちている。事実、これは、全くの“作りごと”だと思うのだ。
それは、まさに、ケネディ大統領暗殺事件に関する『ウォーレン報告書』や、9・11事件についての『9/11委員会報告書』同様、全くのフィクションだと思う。
事実、圧力隔壁の破壊は、同重大事件(=大惨事)の結果であって、決して、その”原因”ではない。この真実を、われわれは、直視すべきだ。
では、何が起こったのか? この時、高濱機長が叫んだ。「何か爆発したぞ!」と。
実際、この時、垂直尾翼が、大きく破損した。ほぼ5分の3以上を失った。これを評した著名な航空評論家の関川栄一郎氏が、テレビで述べた。「『無人標的機』が、ぶつかったのではないか」と。
関川氏は、当時、たいへん信頼され、かつ非常に定評のある航空評論家だった。だが、彼のこの言葉は、その後、公には報じられなかった。しかし、大惨事の初期報道にこそ、まさに事件の「真実」が潜んでいる。
同事件の真相究明者の中には、この「無人標的機」を、ファイアービーという人がいる。だが、他に、国産巡航ミサイルSSM−1の(爆薬を搭載していない)演習用ミサイルが、日航機の垂直尾翼を破壊したと主張する人もいる。
しかし、そのどちらにしても、軍事兵器が、垂直尾翼を直撃して、それを大部分破損させたことは、間違いない。
事実、6時18分時点(つまり、かなりの低空状態)で、或る飛行物体が同機を目がけて直進してくるのを、乗客の一人、小川哲氏は、自らのカメラに撮影していた。
つまり、高濱機長や佐々木副操縦士は、衝突が起こる6〜7分前には、この飛行物体を、じゅうぶん認識していたと考えられる。何故なら、この時間帯に、同機は、まるで何かから逃げるかのように、猛烈な急上昇をしていたのである。
では、一体、誰が、この飛行物体(=ミサイル兵器)を発射させたのか? それは、在日米軍による極秘軍事演習中の出来事なのか? それとも、日本の海上自衛隊に配属されたばかりの護衛艦「まつゆき」から発射(つまり、誤射)されたものなのか? あるいは、その誤射さえ、事前に、アメリカ軍によって仕組まれていたものなのか?
正直、私には、「事」の実態(あるいは、真実)は、分からない。しかし、それでも、JAL123便が、日米両国による準軍事行動の犠牲になったというのが、私の偽らざる確信だ。 実は、私には、かつて日航でパイロットをしていた知人がいる。彼の言によれば、日航などの民間航空機が米軍や自衛隊によって、航行中、仮想の「敵機」と目され、度々、軍事訓練の“目標”にされることがあったという。
同事件のあった相模湾上は、まさに様々な航空機が飛び交う、航空路の“銀座”とでも呼ぶべき密集地域だ。そんな空域での軍事演習など、まさに人命軽視の蛮行である。腹蔵なく言えば、悪魔の所業だ。
実際、この”重大事件”を隠蔽しようと画策し、123便の横田基地への着陸を拒否し、2機の自衛隊機を発進させ、遠く御巣鷹(=地元)の尾根まで同機を誘導させた、その命令権者としての中曽根元総理は、当日、一体、何を考え、何を命令したのか?
2機の自衛隊機が、ミサイルで123便を撃墜したという説(池田昌昭氏)もある。また、二つの原爆の様な「きのこ雲」が湧き立つのを見たという、多くの目撃証言もある。
さらには、墜落した123便の機体後部(尾翼付近)に、ミサイルAIM4(オレンジ色の機体)が突き刺さっていたという証言(佐宗邦皇氏の言)さえもある。
実際、ご遺体の識別や鑑識に関わった医師や歯科医師が、「単なる墜落事故の遺体とは思えない」と語っているのを、われわれは、すでに聞いている。
それゆえ、私は、正直に問いたい。
中曽根元総理、あなたは、あの日、防衛庁、とりわけ航空自衛隊に対して、一体、如何なる命令を下されたのか?!
何故、あなたは、墜落後の乗客の早期救出を命じられなかったのか? 事実、墜落直後、数十名の生存者がいたというではないか。
そればかりか、早期救出に向かおうとした数名の自衛隊員が、待機命令違反というだけで、なぜ、射殺されなければなかったのか?!
加藤紘一氏(当時の防衛庁長官)、当日、あなたは、当時の中曽根総理から、一体、如何なる命令を受けられたのか?!
第一、あなたは、事故当夜、現場の上空まで行っていたというではないか! 一体、何をしに行ったのか? 遭難者を救助する前に、自衛隊が、「大事件」の証拠物件を搬出するのを見届けに行ったとでも言うのか?!
当時の極秘情報を深く知悉していた後藤田正晴氏や藤波孝生氏が亡き今日、あなた方ご両者には、25年前の、あの大事件の真実を、われわれ日本国民に語る義務があるのではないか!
520名(厳密には、赤ちゃんを含めた521名)の死者―。
余りにも多い数だ。だが、単に数の多さだけでなく、その御一人御一人の方々に、それぞれの人生が有り、希望が有ったはずだ。それが、あの大惨事によって潰(つい)えてしまった。その、すべての犠牲者の無念な思いは、想像するに余りある。
乗客のK氏を始め、多くの方々が、すでに6時30分の時点で、遺書を書いておられる。尾翼の破損後、間もなく、機内は深刻な事態に陥っていたことが察せられる。トラブル発生から墜落までの32分間、乗客の驚愕と絶望感は、われわれの想像を、はるかに超えている。
だが、そんな絶望的な状況の中、コックピット内のクルーや客室乗務員(当日、非番で、一般乗客として搭乗していた落合由美さんを含めて)の最期までの健闘・献身には、心から
感動する。彼らは、最後の最後まで、乗客のために尽くされた。
しかし、垂直尾翼の大半が破壊されたことで、そこを通っていた4本のハイドロプレッシャー(油圧系統)が全壊し、同機は、全くの操縦不能に陥った。この事態を人間にたとえるなら、突然、大動脈が切断され、大量出血した状態だ。
ダッチロール(航空機が激しく横揺れしながら首を振り、8の字を描くように飛行する状態)とフゴイド運動(航空機が急角度での上昇と下降を繰り返す状態)に悩まされつつも、高濱機長たちは、羽田への帰還を求めた。だが、それは、叶わなかった。
しかし、このような人知を超える極限状況の中で、高濱機長、佐々木副操縦士、それに福田機関士たちは、それぞれの持場で、まさにベストを尽くされたと思うのだ。
実は、この時、操縦桿を握っていた佐々木副操縦士こそ、少年の頃、私が、心から憧れていた先輩である。まさに、「事実は、小説よりも奇なり」である。
佐々木先輩のご母堂は、彼の没後、私の母に、こう語られた。「息子は、戦死しました」と。今、私には、この言葉の意味が、よく分かる。今日、そのお母様も、もう、この世におられない。
今夏、佐々木先輩のご実家の裏庭には、青紫色のガクアジサイが、実に美しく咲いていた。その余りの美しさに、私は、しばし、心を奪われた。今は、ピンク色のサルスベリの花が美しい。
あれから、25年―。
けれども、ご遺族の方々にとっては、どれほど年月が経とうとも、あの大惨事は、決して過去の出来事ではなく、今も変わらぬ“現実”なのである。
これら無辜の人々を犠牲にして、一体、何が国家か! 何が政治か! そして、一体、何が「日米軍事同盟」か! 【了】 」
http://9123.teacup.com/uekusajiken/bbs/6747
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