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法務官僚の言い
なりになった
七月二十八日、千葉景子法相の死刑執行命令書へのサインによって、二人の死刑囚の死刑が執行された。昨年九月の法相に就任するまでは死刑廃止議員連盟とアムネスティ議員連盟に所属していた千葉による死刑執行は、死刑廃止運動に対するとてつもない裏切りであり、許しがたい背信行為だ。満身の力を込めて抗議する。
政権交代にともなって昨年九月十六日に法相に就任した千葉に、それまで法務官僚の「死刑のベルトコンベアー」化路線でハイペースの死刑執行に歯止めをかけ、そして死刑廃止に向けた社会的提起と議論の喚起を開始することが期待された。
しかし、「足利`冤罪a事件」や「志布志`冤罪a事件」の発覚や冤罪の高い可能性が指摘される「袴田事件」の再審を求める世論の高まりという「死刑廃止に向けた社会的議論」を開始する絶好の機会に、千葉は「死刑執行命令書にサインをしない」こと以外何もしなかった。そして、「サインをしない」ことと引き換えに、千葉自身が求めていた代用監獄の廃止や「取調べの可視化」についても何一つ前進させようともせず、一方ではほとんど議論のないままに拙速に決められた「時効制度の廃止」に一切の異議を唱えることもなく、ズルズルと法務官僚の言いなりとなっていった。
そして、前回の死刑執行から丸一年となる七月二十八日の二人に対する死刑執行である。千葉は、死刑執行に際して自ら立ち会い、そして「死刑に関する根本的な議論が必要だとあらためて思った」などと記者会見で述べて見せた。そして、法務省内に「死刑存廃を検討する勉強会」を設置することと、東京拘置所の刑場をメディアに公開することを法務省に指示したという。
政局をにらんだ
菅政権の右傾化
千葉が死刑執行に立ち会ったことをもって、「私たちの力不足で千葉一人に十字架を背負わせてしまった」、「千葉一人を責められない」とするような空気が、死刑廃止運動に関わる人々の一部にあるようだ。しかし、この千葉による死刑執行は、そんな「美しい話」ではない。
そもそもが今回の死刑執行は、支持率下落傾向に歯止めがかからない菅政権による「右傾化ポピュリズム」に迎合した「支持率アップのための政治パフォーマンス」執行である。この死刑執行の前日の二十七日には、菅の私的諮問機関「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」が民主党連立政権となって一度は中断させた与那国島など南西諸島への自衛隊配備をあらためて求め、そして「集団的自衛権」の解釈や「武器輸出三原則」の見直しを求める報告書をまとめている。
菅政権は、前鳩山政権の「リベラル的装い」をすべてかなぐり捨てて「現実主義」をアピールすることで大衆迎合的に支持率のアップを図り、そして「ねじれ国会」の運営を円滑化しようとする政治的意図が丸出しの死刑執行だと言わざるを得ない。そこにはまた、先の参院選で落選したにもかかわらず、千葉が法相を続投することへの批判を死刑執行によってかわそうという狙いも明白である。千葉とおなじく、死刑廃止派だった福島瑞穂や亀井静香が内閣から去ってしまったことによって千葉が孤立したことも、今回の死刑執行を後押しすることにもなった。
また、自ら死刑を執行しておきながら、「死刑に関する根本的な議論が必要」などと語るのも噴飯物の妄言だと言わざるを得ない。法務官僚の連日の「説得」という名の恫喝で千葉自身の「信念」とやらは崩壊したのかもしれない。しかし、たとえば今日の政府や死刑存置を支持する論拠に、かつてのような「犯罪の抑止力としての死刑の必要性」はほとんど語られなくなっている。それは、死刑廃止運動の提示したデータや論理によって徹底的に論破され、「死刑存置の論拠」として破綻した結果である。そして今日では、「被害者家族の感情」挙句には「日本人的な死生観」などというそれ自体非論理的な「論理」にすがりつかなければならないほどに、実は死刑存置派は追い詰められてきたのだ。
執行は法相の
職責ではない
千葉の言動は、これらの死刑廃止運動の蓄積と成果を手前勝手かつ一方的に否定し、破壊し、洗い流すものであり、死刑廃止運動をも「死刑」にしようとするものである。そして、自ら死刑を執行しておきながら、「法務省内に勉強会を設置する」などとしても、そんなものは「死刑存置という先に結論ありき」のものにしかならず、死刑存置論者の主張を裏書きするだけだろう。
千葉が死刑執行の現場に立ち会ったなどということも、自らを慰め、今回の「政治判断執行」をパフォーマンスによって死刑廃止運動からの批判をかわそうという意図が見え見えだと言わざるを得ない。「立ち会った」からなんだというのだ。実際に、死刑囚に連れ添い、首に縄をかけ、ボタンを押し、亡骸を処理したのは、刑務官労働者たちではないか。この労働者たちに苦痛を押し付けながら、まるで一人「十字架」を背負ったそぶりを見せているだけである。まさに「グロテスク」の一言に尽きるというものだ。
千葉は、今回の死刑執行に関して「職責に定められたことをさせていただいた」などと述べている。しかし、死刑執行は法相の「職責」でもなんでもない。刑事訴訟法の四七五条は「死刑の執行は法務大臣の命令による」とされているのみで、「法相の義務」などと明記されているわけではない。しかもこの四七五条の但し書きには「判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない」とする一方で「上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない」としている。
ここ数年、再審請求中の死刑囚が、それにもかかわらず死刑執行される事態が続いているが、この点の歴代法相の「不履行」を死刑存置派が見過ごすのは、許しがたいダブルスタンダードだというものだ。千葉は、この程度の底の浅い「死刑存置正当化論」に屈服して、二人の生命を奪い去り、「根本的な議論が必要」などと語っているのだ。絶対に許すことは出来ない。なにより、二人の生命を「死刑論議」なるもののための人身御供にしてしまった点も許しがたい。そのような「政治の都合」で人間の生命を弄ぶことを拒否することこそが、死刑制度廃止を主張してきた原点ではないのか!
死刑存置派へ
のプレゼント
結果として、千葉の法相就任は、死刑を推進する法務官僚にとって、思いがけないプレゼントとなってしまった。裁判員制度によって「国民に死刑判決を出させる」ということを至上命題にしていた法務官僚たちは、なんとしても千葉にサインさせることで「死刑モラトリアム(猶予)期間」が一年以上になり、かつ「命令書にサインしなかった法相」として千葉が大臣の座から去ることをなんとしても阻止する必要があった。そして、「死刑廃止派に死刑執行のサインを書かせた」と法務官僚たちは、勝利の美酒に酔い、悪魔の哄笑を上げていることだろう。一方で、死刑廃止運動が受けた打撃はやはり深いものとなるだろう。
しかし、死刑廃止に向かう追い風は、強く吹き続けていることに確信を持とう。死刑存置国はもはや世界の圧倒的少数であり、昨年の死刑執行国は日本を含めてわずか十八カ国にすぎない。アジア地域でも、モンゴルが今年新たに死刑の執行の停止を宣言している。孤立し、必死にあがいているのは死刑存置派なのである。
確信を持って、大きな大衆的行動として死刑廃止運動をさらに広げていこう。(F)
〈追記〉
b今回死刑執行されたうちの一人は、目撃者をも殺害した死刑囚だった。すなわち、「逮捕されたら死刑になる」という恐怖心から、さらに凶行に及んだのだ。被害者は、言わば「死刑制度があるがゆえに殺害されてしまった」と考えるべきなのだ。
bノルウェーは、死刑はおろか終身刑も無期懲役もなく、懲役刑は最長二十一年。しかし、人口五百万のこの国では、殺人事件は年に一度あるかないか、なのである。
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