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2010年07月31日(土)
日本を変えられない日本人
メディアが過度に発達した時代において、民主主義という面倒な政治システムを制する方法は、どうやら「観客民主主義」を最大限、利用するしかないようだ。
そうでなければ、マスメディアにこっぴどくたたかれ、ほうほうの体で権力の座から逃げ出すしかない。
世論調査という不確かなものでも、観客である一般大衆に喝采を浴びていると感じるうちは、メディアは権力者側につく。
メディアが持ち上げるから、国民も納得し、満足し、権力者は人気の好循環に入るが、そのうち社会に毒がまわっていても誰も気づかない。
「自民党をぶっ壊す」と大向こうをうならせた千両役者、小泉純一郎は、メディアを味方につけ、自民党内の反対議員を「抵抗勢力」と罵り、有無を言わせぬ太刀さばきで、悪名高き市場原理の政策をやってのけた。
人気のさめぬ間に幕を引いた小泉劇場のあとに残ったものは、非情な競争社会と、借金の山と、弱者のうずくまる姿だった。
幻想からさめた国民の前に突きつけられた現実は、厳しさだけが際立った。「自民党をぶっ壊す」という約束だけは守られ、抜け殻のようになった自民党は、小泉人気の相当量だけ不人気の反作用を受けた。
そこに登場した「政権交代」の謳い文句が国民をひきつけたのは自然の理であった。
政権選択の舞台が、自民党の総裁選から、国政選挙へ移った初めての機会。有名無実化していた国民主権が、初めて実質の重みをともない、投じられたそれぞれの1票。
その結果誕生した民主党政権に、この国の国民は1年も経たないうちにさじを投げたのだろうか。
今日の朝日新聞「天声人語」は初っ端からこう書いた。
「おとといの民主党両院議員総会の有り様に、この党を見限った人もおられよう」
誰でも醜い争いを見るのは嫌なものだ。「責任を取れ」「辞めろ」と詰め寄る姿は決して美しいものではない。
しかし、この両院議員総会をネットでも、テレビでも中継し、国民の前にさらしているからこそ、われわれは政治の実態を知ることができるという側面も忘れてはならない。
そこには、仕掛けられたものは何もない。劇場でも何もない。強いていえば、楽屋裏をのぞいているようなものだ。
ここに価値を見出すのか、小泉劇場のような、かっこよさを政治に求めるのか。それこそが国民に突きつけられた命題だ。
良い政治をクリーンでさわやかなものだと考えるのは、ある程度のところでとどめておかねばならない。「正義の味方」など、この世に存在しないということをわきまえていなくてはならない。
政治はもともと、利害と権力欲のからんだ醜悪なもの、という成熟した認識から出発しなければ、些細な政治資金収支報告書の記載不備でさえ、あたかも贈収賄事件のごときイメージでとらえる過剰反応が起き、メディアの集団ヒステリーにあおられる始末となるのである。
せっかく国民自身の手で勝ち取った「政権交代」は、こうして国民自らによってその価値を貶められる。
そして、まだやり慣れない「政治主導」の失敗をあげつらい、非難することによってやがていっそう、官僚支配が磐石さを加えてゆくことになる。
その証拠に、鳩山政権の「政治主導」がうまく機能せず、普天間問題などをめぐる官僚の画策によって、メディアと世論に追い詰められたことに恐れをなした菅首相は、財務省に操られ、官僚依存に逆戻りするかのごとき道を選んでしまった。
小沢一郎が菅を批判するのは当然のことであろう。小沢、鳩山、菅のトロイカ体制で、財務省主導の増税路線について合意がなされたことはなかったはずだし、民主党の「静かなる革命」に赤信号が灯っているように映る現状に、苛立ちをおぼえていても不思議はない。
ただ、天声人語の言うように「この党を見限る」のは簡単だが、見限ったあとはどうするのかが肝心だ。
それが描けなくて、ただ飽きたからポイ捨てするようでは、それこそ日本人は、再び焼け野原にならない限り、永久に根本を変えることはできないだろう。
新 恭 (ツイッターアカウント:aratakyo)
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