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2010年07月30日01:29
取り調べの可視化、やらない。夫婦別姓、議論の道筋はつけたとは言っているけれど、実質やらない。入国管理問題、やらない。 やったのは、死刑執行。
千葉景子法務大臣のことです。
日頃、わかりにくい言い回しの人だと思っていました。死刑執行についての記者会見もわかりにくかった。動画はこちらです。
http://www.news24.jp/player/wm/300k.html?m_url=20100728_0063
千葉法相の言葉を少し抜き書きします。
「いずれの事件もたいへん残忍な事案でもあり、それぞれの被害者や遺族の方がたにとってもたいへん無念の事件であったかとは思います。」
私の感覚がずれているのかも知れませんが、まず千葉法相は、死刑を執行された2人を呼び捨てにした、そこから異和感があります。呼び捨ては慣例かも知れませんが、殺されることで罪をあがなったことにされた人は、すでに罪人ではないはずです。罪人ではないのに呼び捨てにされるのはおかしいと、私は思います。
そして上記の、事件への論評というか、感想です。それは司法の場で取り上げられることであり、法務大臣という、司法の決定を受けて淡々と刑を執行することを職務とする行政の人間が、ことあらためて口を挟むべきことではないのではないか。被害者や遺族の心情への言及も、なんだか「私が無念を晴らしてあげました」みたいに聞こえて、嫌悪感がじわりと悪い汗のように噴き出ます。
ついでに細かいことですが、「事案でもあり」の「も」、「方がたにとっても」の「も」はどういう意味でしょうか。とくに後者、被害者と遺族を措いてもっとも無念である人などいないでしょうに、「も」と付け足りのように言及されては、わたしが当事者だったら、怒りに逆上するのではないかと思います。
そして「事件であったかとは思います」、なぜ「事件でした」と言わないのか。「あったかとは思います」は、主観だがあるいはそうとも言えるだろう、という程度の、現実とは一線を画した表現です。「か」に、「は」に、いらっときました。
「今回の死刑の執行にあたりまして、わたくしはみずからが命令した執行でございますので、それをきちっと見届けることも私の責任だと考え、本日の執行に立ち会ってまいりました。死刑の執行は適切に行われ、わたくし自身みずからの目でそれを確認をさせていただき、改めて死刑について深く考えさせられるとともに、死刑にかんする根本からの議論が必要だということを改めて強く感じました。そこで、今後の死刑のあり方について検討するために、法務省内に勉強会を立ち上げることにいたします。」
これが、死刑廃止推進議連やアムネスティ議連に名前を連ねていた人の言葉かと、耳を疑います。死刑を見たから死刑について考えさせられた、ですと? 議論が必要と感じた、ですと? 改めて? 死刑なんか見なくたって、考えることはできます。自分は死刑を見た、考えた、「そこで」勉強会を立ち上げる、とは。千葉サンは、死刑について深く考えてきたはずですから、勉強会なら法務大臣になったときに立ち上げるべきでした。
国会でも記者会見でも、何度も死刑について訊ねられ、そのたびに「国民的議論が必要」と判で捺したように答え、でも国民的議論を興すためにはなにひとつしてこなかったのが、千葉法相という人です。これでは、勉強会を立ち上げる口実として、2人の命が必要だった、人がくびり殺されるところを千葉サンが見学することが必要だった、としか聞こえません。
ご自身は、この5分ほどの会見がそのような論理によって組み立てられていることに気づいておられるのか、どうか。グロテスクで、吐き気を催す、なんて上品なことは言っていられません、反吐が出る。鳩山元法相の「ベルトコンベアー」も十二分にグロテスクでしたが、それよりもグロテスクです。
じつはこの前日の27日、法務省の記者会見で、千葉サンは死刑について問われ、こう答えていたそうです。「マガジン9」の「フリーランスライター畠山理仁の『永田町記者会見日記』(もとはこちら)から抜粋します。
http://www.magazine9.jp/hatakeyama/100728/
民間閣僚として死刑をどうとらえるか、という質問に、すでに24日、国会議員の任期が終わる直前に執行命令書に署名し、翌日には死刑執行があることを知っていた千葉サンは、こう答えたというのです。
「これは、あのー、基本的には、特段、変わるものではございませず、えー、大変、重い刑罰であるということを念頭におき、しかし、民間であろうが、そうでなかろうが、大臣としての、まぁ、職責であると、いうことは、認識をさせていただいていると、まぁ、いうことでございます。 」
大臣の職責ですか。死刑執行命令書にサインをする職責のある大臣ポストと知って就任を受諾したのなら、自分は職責を重んじると決意して大臣になったのなら、その瞬間にそれまでの死刑廃止論を捨てたということでしょうか。
どうもそうらしい、とは保坂展人さんの観察です。「千葉法相の(死刑廃止推進)議連退会届は私が受け取った。死刑賛成になったのではなく、立場が立場だから一時休むと。だが当時から、『執行するのでは』という気はした。法相になって『国民的議論を起こしたい』と言うので手伝おうとしたら、彼女は乗り気でなかった。議連の申し入れ時も、なかなか会いたがらなかった」(7月29日付東京新聞「こちら特報部」より)
千葉サンの死刑廃止論なんて、大臣の職責とやらの前には、羽毛のように軽いものだったのですね。信念を貫き、そんな職責は引き受けなければよかったのに。法相にしてあげると言われても、ならなければよかったのに、と思います
。同じ東新の記事に、宗教観から死刑執行をしないと言明し、撤回はしたものの、結局、執行しなかった杉浦元法相の述懐があります。官僚は、死刑囚のなかから執行しようとする人を選んで着々と準備を進め、「大臣ご署名を」と書類をもってくるけれど、杉浦さんはそれを別に圧力とも受けとめなかったそうです。
「千葉さんは信念に忠実ではなかったということだ」と言う杉浦さんは、裏を返せば、法務大臣の椅子に座れば当然つきつけられる死刑執行命令書に、信念でサインをしなかったということです。信念を大臣の職責とやらに、結果、優先させたということです。
みずからの政治判断で、時には法律にも官僚機構の営みにも抗ってみずからの理念をかたちにし、その結果判断を民意にゆだね、時には血祭りにあげられる覚悟で責任を一身に負い、そうすることで社会を変えていくのが、マックス・ヴェーバーの言う政治家の使命です。そうするだけの胆力のない者は、政治家になってはいけないということです。
これは時として危険な思想です。たとえば小泉サンの「殺されたっていい」発言は、この文脈では典型的といっていいほど正当なのですから。権力を行使する政治家とは危険な存在だということを、さじ加減をひとつ間違えば猛毒にもなる存在だということを、政治家自身が自覚しなければなりません。
そして杉浦さんは、マックス・ヴェーバーの言う意味での政治家として、覚悟のふるまいをしました。小泉サンのように、大向こうを意識して空しい大見えを切るのではなく、ひとり孤独に耐えながら重い決断をした。
たとえ死刑についての議論が盛んになったにせよ厭な感じがつきまとう、そんな悪い予感のする死刑執行と法務大臣の弁でした。頭がぐらぐらして、常にも増して文章がまとまりません。ご容赦。
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