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http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100729/215632/?P=1
暑い日が続く。
こう暑いと、つい極端なことを考える。
たとえば、温暖化は最終段階に来ていて、地球はもう危ないんじゃないか、とか。
あるいは、人類はそろそろおしまいなんではなかろうか、とか。
要するに、そういう甘美な考えに浸らないとやっていけないわけです。
ん? どこが甘美だと?
いや、人類滅亡というのは、どこかうっとりさせる幻想なのですね。私にとっては。自分だけがたった一人で死ぬことと比べれば。だから、気勢が上がらない時には、なるべく自己の滅亡ではなくて、人類の滅亡を思い浮かべることにしている次第です。まあ一種の健康法、ないしは暑気払いです。巻き込まれる人類の皆さんには申し訳ない話ですが。
暑さのせいなのか、ひどい事件が目立つ。
児童虐待のニュースが続発していたり、鬼畜系を自称していたライターさんが読者に刺されて亡くなったり。
もしかして本当に人類は長くないのかもしれない。
だと良いのだが。
なーんて鬼畜なご発言を弄するのはやめておく。偽善と偽悪はいずれも立派な態度ではないが、より有害なのは偽悪だ。酔ったふりをしている人間は、じきに本当の酔っ払いになる。というよりも、酔ったふりをしているつもりでいるその男は、既に酔っているからそんなことをしているのだと思う。用心せねばならない。
猛暑の日々のある夜、テレビのスイッチを入れると、仮装をした大勢の大人が、汗だくで三輪車をこいでいる。
ふらふらになった男が泣きながら走っている。
で、それを見て、スタジオ中の人々が涙を流している。
なるほど。
恒例の温暖化企画だ。
「FNSの日26時間テレビ2010 超笑顔パレード絆〜爆笑!お台場合宿!!」
「絆」というのが今年のテーマであるらしい。
私は15分ほど眺めてテレビの電源を落とした。
私が視聴をやめた後も、彼らは走っていたはずだ。
私のために走っていたわけでもないんだろうから。
絆。
これは、21世紀の新しい流行なのであろうか。
どちらを向いても絆だとか仲間だとか友愛だとかそういう暑苦しい話が聞こえてくる気がするのは、私の脳細胞が温暖化しているせいなのだろうか。
いや、仲間が信頼し、友達が集い、朋輩が結束を確かめ親睦を深める機会を持つことは、たぶん、素晴らしいことなのだと思う。
私自身、天涯孤独を願う者ではない。
ただ、仲間同士がお互いの絆や友情に感動することは当然なのだとして、それを眺めることになる人間も、やはり一緒に感動せねばならないものなのだろうか。というよりも、仲間が仲間であることを、仲間以外の人間にアピールすることがエンターテインメントとして成立するはずだという判断は、いったいいつから公式化されたんだ?
どうしてあの人たちは毎年、同じタイミングで似たような騒ぎをやらかしているんだ?
個人的な感想を述べるなら、私は薄気味が悪かった。
仲間が仲間を尊重するのはかまわない。あえて妨害しようとは思わない。
でも、どうして君たちの内部的なパートナーシップをオレに向かってアピールするんだ?
君らが泣く姿を見て、オレが泣くはずだという、そういう思い込みで番組を作ることが、どうして君たちには可能なんだ?
その理由をぜひ教えてほしい。
ということで、今回は「絆」について考えてみる。絆。友情。仲間意識。パートナーシップ。マウンティングとプレゼンティング。関係とそれにともなう感情について。
友情は大きな主題だ。
少年ジャンプを見ると、展開されているページのおおよそ半分は、友情の物語で占められている。この傾向は昔からあまり変わっていない。私が子供だった時代から、少年漫画誌の誌面はいつも友情の物語で熱く燃えたぎっていた。ライバル。親友。仲間。相棒。少年はいつでも友情を求め、友情を語り、友情を生きている。それはおそらくこの先も変わらないはずだ。友近在にタムロしてあり、また喜ばしからずや。
思うに、ティーンエイジャーが友情を必要とするのは、成長過程における必然的な段階だ。
人が子供から大人になり、親離れして独立するためには、両親や家族との蜜月をいったん離れて、別種の世界との間に新しい紐帯を結び直す必要がある。だから、思春期の少年少女は、仲間と共に過ごす時間をとても切実に求めている。
私自身、中高生の頃は、いまにして思えば、ずいぶんとベタベタした友達付き合いをしていた。
中学の三年生だった一時期、とても仲良くしていた友達がいた。毎日学校で会っているのに、帰ってから長電話をして、親に叱られたりしていた。うむ。いったい何を話していたのだろう。思い出せない。日曜日にはわざわざお互いの家に遊びに行ったり、待ち合わせをして一緒に出かけたりした。
不思議なのは、そんなに仲の良かったその男と、卒業以来一度も会っていないことだ。
機会が無かったと言ってしまえばそれまでだが、それにしても、あんまりな話ではないか。
さよう。中高生の友情は熱烈である一方で、非常にテンポラリーであったりもする。
去る者は日々に疎し。猿ほどの情もあらねば。
そういえばそんなヤツがいたっけなあ、と30秒ほど思い出してそれでおしまい。たぶん、会ってもたいしてうれしくない。むしろ困るかもしれない。結局、あの年頃の人間は、自分の話を聞いてくれる鏡みたいな対象が必要だということで、相手はある程度誰でも良かったということなのであろうな。奇態な話だが。
二十歳を過ぎる頃になると、男にとって、友情の持つ意味は、ティーンエイジャーだった頃と比べて、ずっと小さくなる。
いや、誰もがそうなるわけではない。
二十代を熱い友情の中で過ごす人々もいる。あるいは半数ぐらいの男たちは、相変わらず仲間との付き合いを第一に日々を暮らすものなのかもしれない。幸か不幸か私はそういう組ではなかったが。
それでもさすがに三十代になると、ほとんどの男は仲間とつるまなくなる。結婚したり仕事が忙しくなったりして、事情が許さなくなるということもある。が、なにより会っても間が持たないからだ。
実際、30歳を過ぎた男同士が、二人で会って2時間を話し通すことは、ほとんど不可能に近い。
久しぶりに会った友人ということなら、談論風発も可能だろうが、恒常的に会う関係の人間だと、まず話が続かない。
「どうだ?」
「どうだって何が?」
「いや、特に何がってこともないんだけどさ」
「……ま、アレだ。何であれ、どうってこともないってことだよ」
「だよな。一事が万事。多かれ少なかれ。どっちにしても」
「そう。世はなべてこともなし、だよ」
「……酒……ないのか?」
三十男の会話は、アルコールを介在させないと維持できない。あるいは麻雀でも良いが。
いずれにしても、中年期にさしかかった男たちは、お互いの存在だけではお互いの興味をつなぐことができない。だからオッサンは酒を飲み、卓を囲み、あるいはパドックに出かける。そうしないと殴り合いを始めることになるからだ。
若い人たちは違う。
酒が無くても、麻雀牌が無くても、下宿の卓袱台や喫茶店のテーブルを間に挟んでいるだけで、いつまでも話していることができる。
それだけ、お互いにかかえているものが大きい。
というよりも、彼らは仲間が無いと生きていけないのかもしれない。
どうしてなのかはわからないが、昔からそういうことになっている。若者にとって、友情は酸素みたいに不可欠なものなのだ。
大人になっても相変わらず仲間でツルんでいる人々もいる。
たとえばやくざがそうだ。
彼らは、常に徒党のうちにあり、同胞のために生き、郎党のために死ぬことを理想としている。
別の言い方をするなら、やくざという人たちのうちに、ひとつだけ良いところがあるのだとすると、それは仲間を大切にする一面なのである。
しかしながら、やくざがやくざの仲間を大切にすることは、われらやくざでない者には、当然のことながら、何の利益ももたらさない。
それどころか、彼らが自身の身内だけをひたすらに大切にすることは、多くの場合、社会にとって害を為すことになる。なんとなれば、彼らの「絆」は、独善であり、排他共有制御であり、反社会的紐帯であり、権力志向そのものだからだ。
いつだったか、当欄で、フランスの小説家、ジャン・ジュネが、やくざについて「彼らは要するに子供なのだ」と言った話を引用したが、やくざが大人にならないということは、彼らが個人として自立しないということでもある。そう。やくざは、組織の一員であることによってのみ一個の男としてのアイデンティティーを持ちこたえている半端な存在だ。まあ、戦士というのは往々にしてそういうものなのだが。
だから軍人もやくざと似ている。芸人や劇団員が作る「軍団」も。
要するに彼らは、個人である前にメンバーであり、自分である前に誰かの仲間なのである。
であるからして、結局、男の集団は、「軍団」化する。そういうことだ。
以上の状況からして、大人の男たちの「絆」は、多くの場合排他的な色彩を帯びる。
でなくても、彼らの団結のありようは、傍目から見ればひとりよがりだ。
私がテレビを見ていて薄気味悪く感じたのは、たぶんこの点だったのだと思う。
紳助を中心にまとまっているあの「ヘキサゴンファミリー」と呼ばれているタレントたちの関係性は、中にいる者にはどうなのか知らないが、少なくとも液晶画面のこちら側から見ている限り、およそ北朝鮮ライクな人間ピラミッドに見えた。
将軍様と喜び組。シンスケ翼賛体制。紳様ユーゲント。みんなで手を握って泣いている。自己啓発研修の最終日みたいな絵面。なんという薄気味の悪さ。
「絆」は、内部の人間には、美しく見える。
だから、「ファミリー」のウチにある人々は絆を強調し、絆について語り、互いの絆を確認しながら、涙を流し、抱き合い、倒れ込みながら声をあわせて歌う。それはそれで、彼らにとっては自然な態度であったのだろう。
でも、同じファミリーに属していない人間にとって、見も知らぬ男女の絆を見せつけられることは、贔屓目に見てもちょっと気持ちが悪い経験なのである。そこのところはぜひ理解していただきたい。そして、できれば、来年からはファミリーの合宿はファミリー内で済ませてもらいたい。絆も。オレらを巻き込まないでほしい。君たちの絆は、外部の者にとっては、やっかいなロープに過ぎないんだから。
「絆」は、万人向けに100%美化できる概念ではない。
というのも、「絆」は、独善をはらんでいるからだ。それが強すぎる場合、社会にとって有害なものになる。
「絆」は、時に、社会の常識や世間の掟を超えた価値として、成員の行動を極端な方向に跳ね上がらせる。
たとえば、親分のために命を張る子分は、対立する組の構成員の命はもちろん、通行人の生命財産も委細構わずに蹂躙しにかかる。
「仲間が助けを求めているのに、悠長に制限速度を守って走れというのか?」
うむ。
道路交通法程度の法規なら、コトと次第によっては、無視せねばならない場合もあるだろう。
でも、彼らは、あらゆる法規を無視する。昂然と。むしろ誇らしげに。モーセの十戒すら。
それでも、「絆」の物語は、若い人には、やはりどうしてもアピールする。
なにしろ彼らは、友情が三度の飯よりも好きな年頃だから。
「三国志」が時代を超えて若者に人気なのも、あの長大な小説が根底のところで友情の物語である部分に負っている。
いや、友情というより、任侠の物語かもしれない。漢と書いてオトコと読ませるみたいな。
男は、仲間のために命をかける。
自分の命を投げ出すだけではない。任侠のイディオムにおいては、仲間に不利益をもたらすすべての人間の命はこれを殲滅せねばならない。そういうことになっている。
であるから、任侠道は市民社会の規範とは並び立たない。当然だ。なんとなれば、任侠は、社会の道徳よりも、「身内」の利害を第一に考える「軍」の思想だからだ。
ウチの人間には献身的であり人間味溢れる接し方をする彼らも、「ソト」の人間に対しては、一転、どこまでも冷酷になる。そうすることが「軍」にとっては一番の強さになる。
ここから先は余談だが、ポールサイモンの歌に「母と子の絆」(Mother and child reunion)というタイトルの歌がある。
この歌が発売された当時、私はこの歌を、母子の情愛を歌った歌なのだと思っていた。
LPレコード(←なにしろ1970年代の話だからね)に付属していた歌詞カードにも、母と子の悲劇的な絆について、象徴的で難解な日本語訳が掲載されていた。
ところが、発売から二十年以上が経過して、ある時、私はとあるウェブサイトを見ていて、この歌が「母子再会」という名前の中華料理(「卵と鶏肉を一緒に炒めたレシピ」らしい)について歌われた歌であることを知ることになる。
びっくりした。
絆じゃないのか?
親子丼だったのか?
なんでもポール・サイモンが偶然立ち寄ったニューヨークの中華料理屋のメニューの中にその言葉があったのだという。
そう思ってあらためて聴いてみると、歌詞は、ニワトリのママが卵たちに語る述懐そのものだったりする。
「まさかこんなところであんたたちに会うとは思わなかったよ」
「なんとまあ奇天烈で悲劇的な日であることじゃないか」
「あたしゃ、こんなに低いところに寝かされたことはないよ」
ついでなので、ポール・サイモンの歌について、もうひとつ誤解していた旨を報告しておく。
「母と子の絆」が入っているのと同じアルバムの中の一曲「Everythings put together falls apart」という曲の中の、別れた妻なのか友達なのか、とにかく昔の相棒に向けて言う辛辣な台詞の部分だ。
Watch what you're doing
Taking downs to get off to sleep
And ups to start you on your way
After a while they'll change your style
M-m-m, i see it happening every day
歌詞カードでは、だいたいこんなふうに訳されていた。
自分のしていることを、見てごらん
眠るためにダウンタウンの自宅に戻り
アップタウンで自分の仕事をはじめる
でも、やがて仕事は君の生き方を変えてしまう。
そういう人を僕は毎日見ているんだ
私は、この解釈を鵜呑みにしていた。
なるほど。深い、とか。
ところが、母子再会の謎を解いていた同じサイト(←いまはもう無い。おそらくJASRACの横やりが入ったのだと思う)ではこんなふうになっている。
自分のやっていることをよく考えてごらん
眠るために鎮静剤を飲み
興奮剤を飲んで自分を取り戻す
でも、そうしているうちに、薬は君のスタイルを変えてしまう。
それは毎日起こっていることなんだ
なるほど。なんという明快な解釈。
私はどうやら二十数年にわたって、肝心なところを誤解していた。
歌の、結論は、こんなふうになっている。
Everything put together sooner or later falls apart
There's nothing to it, nothing to it
You can cry
You can lie
For all the good it'll do you,You can die
But when it's done,And the police come, and they lay you down for dead
Uh, huh, just remember what i said
寄せ集められたものは、遅かれ早かれバラバラになる。
それはどうしようもないことさ。
君は泣くことができる。
嘘をつくこともできる。
いざとなったら死ぬことだって可能だろう。
でも、その時が来て、警官が君の死体を運び出すことになったら、
僕の言ったことを思い出すと良いよ。
うむ。
寄せ集められたものはいずれ離れ離れになる。
この言葉をヘキサゴンの仲間たちに贈りたいと思う。
ん?
既に一人欠けている、と?
とするとペンタゴンということになるが。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
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島田 紳助をコテンパンにけなしているところは笑えました。 アハハ。
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