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文藝評論家・山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』
2010-07-25 23:18
西部邁の『小沢一郎は背広を着たゴロツキである。』を読みながら、西部邁が、もはや「死に体」の耄碌寸前であることを知った。
西部邁といえば「大衆批判」とか「衆愚批判」等でお馴染みだが、七十二歳にもなった今でも、馬鹿のひとつ覚えのように、政治家や選挙民を捕まえて、「大衆」だ、「衆愚」だ、「民主主義が政治家を真底まで腐らせた」と喚いているが、僕にはむしろ、西部邁こそ衆愚の代表のように見えるし、西部邁のような「評論家業者」に関して、「民主主義が評論家業者を真底から腐らせた」と思わないわけにはいかない。言うまでもなく、政治家や国民が「衆愚」だというのなら、そんな「衆愚」の連中など無視して、西部邁センセイごのみの高尚なお仕事に熱中し、「衆愚」をして、「ぎゃふん」と言わしめるような世紀の大傑作にでも取り組めばいいものを、相変わらず、衆愚が飛びつきそうな、雑文に毛の生えたようなもので誤魔化しているところを見ると、西部邁も、案外、無能な衆愚の一人なのかもしれないと思った次第である。この本で、西部邁は、小沢一郎を、マスコミや検察サイドが意図的に垂れ流す「政治とカネ」問題を真に受けて、「背広を着たゴロツキ」と呼んでいるわけだが、「ゴロツキ」とは、よく言ったものである。西部邁の批評的言説のレベルも、言うに事欠いて、とうとう「お前のかあさん、デベソ・・・」レベルに到達したものと見える。というのは冗談だが、要するに、西部邁は、小沢一郎やその他の政治家達を論じ、罵倒するのに、完璧に情報不足であり、情報難民であることがわかる。つまりテレビや新聞のマスコミ報道しか情報源はないらしいことが分かる。従って西部邁の目には、「検察の暴走」というテーマも、「情報リーク」というテーマも、そして「アメリカの影」というテーマも、まったく見えていないことが、この本から、わかる。幸せな人であでる。僕が、「耄碌寸前」ではなかと感じるのは、そこに根拠がある。さて、話をもとに戻すと、僕は、いささか、この「ゴロツキ」という言葉に、西部邁とは違って、思想的に深い思い入れがあるのだ。つまり、厳密に言うならば、「ゴロツキ」といういささか下品な言葉で、自分なりの基本哲学とも言うべき思想心情を、理論的に表象可能なのではないのかと思もったことがあるからだ。ゴロツキの哲学、ないしはゴロツキの精神とは、「葉隠」が言うところの、ただ「死に狂い」の「武士道の哲学」であり、常に殺すか殺されるかの瀬戸際に立つ、一種の「実存的決断の美学」を内包するものだからだ。僕が、「ゴロツキの哲学」なるものを初めて知ったのは、菅野覚明東大教授(倫理学、日本思想史)の『よみがえる武士道』と『武士道の逆襲』を読んだときであるが、菅野は、ゴロツキという言葉に含まれる荒々しいアウトロー精神を、キリスト教化され「明治武士道」とは異なる、いわゆる本来の戦国時代の武士道のそれになぞらえて論じていたと思う。おそらくそれは、別の言い方をすれば、佐藤優が、最近、書いているところの、「悪党」の精神に近いのかもしれない。佐藤優は、「小沢一郎よ、『悪党』になれ・・・」と呼びかけていたが、西部邁の立場とは決定的に異なる。西部邁は、もう「終わった人」である。昔の学生運動体験から、政治家達との「飲み食い」体験まで、自慢たらしく書いているが、いい恥曝しというしかない。こういう人が、保守思想家として保守論壇の中心にいたからこそ、保守論壇は真底から腐ってしまったのであり、西部邁等と酒を酌み交わしつつ、西部邁等の言説を真に受けた政治家達が自民党を自滅・自爆させたのだ、と言うべきだろう。
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