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大塩平八郎の乱
http://www.youtube.com/watch?v=6xq6kY0sXow
経緯http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E%E3%81%AE%E4%B9%B1
前年の天保7年(1836年)までの天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。
大坂でも米不足が起こり、大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩(この頃は養子の格之助に家督を譲って隠居していた)は、奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書数万冊を全て売却し(六百数十両になったといわれる)、得た資金を持って救済に当たっていた。しかしこれをも奉行所は「売名行為」とみなしていた。
そのような世情であるにもかかわらず、大坂町奉行の跡部良弼(老中・水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みずに、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。
このような情勢の下、利を求めて更に米の買い占めを図っていた豪商に対し、平八郎らの怒りも募り、武装蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。
一方で大坂町奉行所の不正、役人の汚職などを訴える手紙を書き上げ、これを江戸の幕閣に送っていた。決起の日を、新任の西町奉行堀利堅が、東町奉行の跡部に挨拶に来る二月十九日と決め、同日に両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てた。
決起
ところが決起直前の当日になって、内通離反者が出てしまい、計画は奉行所に察知されてしまった。跡部を爆死させる計画は頓挫し、完全な準備の整わぬままに2月19日(西暦換算で同年3月25日)の朝、自らの屋敷に火をかけ決起した。
現在の大阪市北区天満橋の大塩邸から難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となり、「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、いたずらに火災(大塩焼け)が大きくなるばかりで、奉行所の兵に半日で鎮圧されてしまった。
大塩は養子・格之助と共におよそ40日余り、大坂近郊各所に潜伏した。せめて先に江戸に送った告発文が幕府に届くことを期待したのである。だが告発文は箱根の関所で発見され、押収されてしまう。
失意のまま大坂に舞い戻った大塩は、美吉屋五郎兵衛の店(靱油掛町)に匿われたが、出入りする奉公人によって、大坂城代土井利位(古河藩主)に通報され、土井とその家老鷹見泉石らの率いる探索方に包囲された末、火薬を使って自決した。遺体は顔の判別も不可能な状態であったと伝わる。
事後
大塩の挙兵は失敗に終わったものの、幕府の役人だった大塩が反乱を起こしたことは、江戸幕府の要人達に、また幕政に不満を持つ民衆達に大きな衝撃を与えた。 この乱後に全国で同様の乱が頻発し、その首謀者達は「大塩門弟」、「大塩残党」などと称していた。最期の状況から「大塩はまだ生きている」「海外に逃亡した」という風説が流れた。身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また同年アメリカ合衆国のモリソン号が江戸湾に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説まで流れた。これに、大塩一党の(遺体の)磔刑をいまだ行っていなかったことが噂に拍車をかけた。
幕府としても元役人で、武士でもあり、遺体の状況をも鑑みた上での処置であったろうが、そのため余計に生存説が拡大してしまった。仕方なく幕府は事件一年後に磔を行うが、それは塩漬けにされて人相も明らかでない遺体が十数体磔にされる、という異様な風景で、当然大塩本人の遺体の真贋判断などできるわけではなく、さらに生存説に拍車をかけることとなってしまった。
大塩の発した檄文は、幕府に反感を持つ庶民の手で、取締りをかいくぐって、筆写により全国に伝えられ、越後国では国学者の生田万が、柏崎の代官所を襲撃する乱を起している。
また、京都が大坂に近いということで2月25日に京都所司代松平信順から光格上皇及び仁孝天皇に対して事件の報告が行われ、以後大塩の死亡まで度々捜索の状況が江戸幕府から朝廷に報告され、一方朝廷からは諸社に対して豊作祈願の祈祷が命じられ、また朝廷の命により幕府がその費用を捻出している。尊号一件などで大政委任を盾に朝廷に対して強硬な姿勢を示していた幕府が朝廷の命令をそのまま認めたことは、幕末期に向かい朝廷の権威上昇を見ることが出来る。
備考
大塩が幕閣に送りつけた告発状の中には大塩自身が文政12年(1829年)から翌年にかけて行われていた与力弓削新左衛門らを仲介者とした武家無尽に関する告発が書かれていた。武家及びその家臣が無尽に関与することは禁じられていた(『御仕置例類集』第一輯)が、財政難で苦しむ諸藩は自領内及び大都市で無尽を行って莫大な利益を得ていた。これを大塩が大坂で行われていた不法無尽を捜査した際にこの事実を告発したが、無尽を行っていた大名たちの中には幕閣も多くおり、彼らはその証拠を隠蔽して捜査を中断させてしまった。大塩はその隠蔽の事実を追及したのである。大塩が告発した幕閣の中には水野忠邦や大久保忠真ら事件当時の現職老中4名も含まれていた[1]。
告発状が箱根で取り押さえられた背景には、皮肉にも当時の社会の腐敗が飛脚にまで及んでいたことによる。大塩の告発状が入った書簡を江戸に運んでいた飛脚が、その中に金品が入っていると思って箱根の山中にて書簡を開封したところ金品が無いと知るや書簡ごと道中に放り捨ててしまい、それを拾った者によって書簡が韮山代官江川英竜の元に届けられ、内容の重大性に気付いた江川が箱根関に通報したことによるものであった。更に3月には今度は江戸幕府から朝廷に対して大塩追跡の状況を知らせた文書が同じ箱根山中で同様の被害に遭い、事情を知った関白鷹司政通が武家伝奏徳大寺実堅を通じて京都所司代に対して抗議したことが、同じ武家伝奏の日野資愛の日記に記されている(ただし、資愛自身は事件当時は江戸滞在中で帰京後に聞いた話によるものである)[2]。
脚注
^ 藤田覚「一九世紀前半の日本 -国民国家形成の前提-」(初出:『岩波講座日本通史 15』(岩波書店、1995年) ISBN 978-4-00-010565-1/改題「近世後期政治史と朝幕関係」所収:藤田『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年) ISBN 978-4-642-03353-4 序章
^ 藤田覚「大塩事件と朝廷・幕府」(初出:『大塩研究』28号(大塩事件研究会、1990年)/所収:藤田『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年) ISBN 978-4-642-03353-4 第七章
檄文(大塩平八郎)http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/jpn/oshio/geki.html
(以下の本文・口語訳は「大日本思想全集」第十六巻〈昭和6年。先進社内同刊行会〉による)
四海困窮致候者永禄永くたへん、小人に国家を治しめば災害並び至と、昔の聖人深く天下後世、人の君、人の臣たる者を御戒術置候故、
東照神君も「鰥寡孤独におゐて、尤あはれみを加ふべく候、是仁政の基」と被仰置侯。然るに、茲二百四五十年太平の間、追々上たる者、驕奢とて、おごりを極、大切の政事に携候諸役人共、賄賂を公に、授受とて、贈貰いたし、奥向女中の周縁を以、道徳仁義存もなき拙き身分にて、立身重き役に経上り、壱人一家を肥し候工夫而已に智術を運らし、其領分知行所の民百姓共に過分の用金申付、是迄年貢諸役の甚しきに苦む上、右之通、無体の儀を申渡、追々入用かさみ候故、四海困究と相成候に付、人々上を怨ざるものなきよふに成行候得共、江戸表より諸国一同、右之風儀に落入、
天子は、足利家以来、別て御隠居御同様、賞罰の柄を御失ひ候に付、下民の怨何方え、告愬とて、つげ訴ふる方なきやふに乱候に付、人々の怨天に通じ、年々、地震、火災、山も崩れ水も溢るより外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成候、是皆天より深く御誠の有がたき御告に候へども、一向上たる人々心も付ず、猶、小人奸者の輩大切之政事執行、唯下を悩し金米を取立る手段計に相懸り、実以、小前百姓共の難儀を、吾等如きもの、草の陰より常々察、怨候得ども、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなければ、徒に蟄居いたし候処、此節米価弥高直に相成、大阪の奉行並諸役人、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸之廻し米をいたし、
天子御在所の京都にては、廻米の世話も不致而已ならず、五升壱斗位の米を買に下り候もの共召捕などいたし、実に昔葛伯といふ大名、その農人の弁当を持運び候小児を殺候も同様、言語道断、何れの土地にても人民は、
徳川家支配の者に相違なき処、如此隔を付候は、全奉行等の不仁にて其上勝手我儘の触れ等を差出、大阪市中遊民計を大切に心得候は、前にも申通り、道徳仁義を不在拙き身分にて、甚以、厚かましき不届の至、且三都の内、大阪の金持共、年来諸大名へ貸付候利徳の金銀並扶持米を莫大に掠取、未曾有之有福に暮し、町人の身を以、大名の家へ用人格等に被取用、又は自己の田畑新田等を夥敷所持、何に不足なく暮し、此節の天災天罰を見ながら、畏も不致、餓死の貧人乞食を敢て不救、其身は膏梁の味とて、結構の物を食ひ、妾宅等へ入込、我は揚尾茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑も同様にいたし、此の難渋の時節に絹服をまとひ候かわら者を妓女と共に迎ひ、平生同様に遊楽に耽候は、何等の事哉、紂王長夜の酒盛も同事、其所之奉行諸役人、手に握居候政を以、右の者共を取締、下民を救ひ候も難出来、日々堂島相場計をいじり事いたし、実に禄盗に而、決而天道聖人の御心に難叶、御赦しなき事と、蟄居の我等、もはや堪忍難成、湯武之勢、孔孟之徳はなけれども、天下之為と存、血族の禍を犯し、此度有志のものと申合、下民を苦しめ候諸役人を先誅伐いたし、引続き驕に長じ居候大阪市中金持の町人共を誅戮におよび可申候間、右之者共穴蔵に貯置候金銀銭等、諸蔵屋敷内に置候俸米、夫々分散配当いたし遣候間、摂河泉播之内、田畑所持不致もの、たとへば所持いたし候とも父母妻子家内の養ひ方難出来程之難渋ものえは、右金米等取分ち遣候間、いつにても、大阪市中に騒動起り候と聞伝へ候はゞ、里数を不厭、一刻も早く、大阪へ向馳参べく候、面々え右金米を分遣し可申候、鉅橋鹿台の金粟を下民え被与候趣意に而、当時の饑饉難儀を相救遣し、若又其内器量才力等有之ものは、夫々取立、無道之者共を征伐いたし候軍役にも遣ひ可申候。必一揆蜂起の企とは違ひ、追々年貢諸役に至る迄軽くいたし、都て中興
神武帝御政道之通、寛仁大度の取扱にいたし遣、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改、質素に立戻り、四海万民、いつ迄も、
天恩を難有存、父母妻子をも養、生前之地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遺し、尭舜、
天照皇太神之時代に復し難くとも、中興の気象に、恢復とて、立戻し可申候。
此書付、村々一々しらせ度候得共、多数之事に付、最寄之人家多き大村之神殿え張付置候間、大阪より廻有之番人共にしらせざる様に心懸け、早々村々え相触可申、万一番人共眼付、大阪四ケ所の奸人共え注進致候様子に候はゞ、遠慮なく、面々申合、番人を不残打殺可申候。若右騒動起り候と乍承、疑惑いたし、馳参不申、又は遅参に及候はゞ、金持の金は皆火中の灰に相成、天下の宝を取失可申候間、跡に而我等を恨み、宝を捨る無道者と陰言を不致様可致候、其為一同へ触しらせ候。尤是まで地頭村方にある年貢等にかゝわり候諸記録帳面類は都て引破焼捨可申候是往々深き慮ある事にて、人民を困窮為致不申積に候。乍去、此度の一挙、常朝平将門、明智光秀、漢土之劉裕、朱全忠之謀叛に類し候と申者も是非有之道理に候得共、我等一同、心中に天下国家を簒盗いたし候欲念より起し候事には更無之、日月星辰之神鑑にある事にて、詰る所は、湯武、漢高祖、明太祖、民を吊、君を誅し、天討を執行候誠心而已にて、若疑しく覚候はゞ、我等の所業終候処を、爾等眼を開て看。
但し、此書付、小前之者へは、道場坊主或医師等より、篤と読聞せ可申候。若庄屋年寄眼前の禍を畏、一己に隠し候はゞ、追て急度其罪可行候。
奉天命致天討候。
天保八丁酉年 月 日 某
摂河泉播村々
庄屋年寄百姓並小前百姓共え
以上、原文。
以下、口語訳。
天から下された村々の貧しき農民にまでこの檄文を贈る
天下の民が生前に困窮するやうではその国も滅びるであらう。政治に当る器でない小人どもに国を治めさして置くと、災害が並び起るとは昔の聖人が深く天下後世の人君、人臣に教戒されたところである。それで、
徳川家康公も『仁政の基は依る辺もない鰥寡孤児などに尤も憐れみを加へることだ』と云はれた。然るに茲二百四五十年の間太平がつゞき、上流の者は追々驕奢を極めるやうになり、大切の政事に携はつてゐる役人共も公然賄賂を授受して贈り或は貰ひ、又奥向女中の因縁にすがつて道徳も仁義も知らない身分でありながら、立身出世して重い役に上り、一人一家の生活を肥やす工夫のみに智を働かし、その領分、知行所の民百姓共には過分の用金を申付ける。これ迄年貢諸役の甚しさに苦しんでゐた上に右のやうな無体の儀を申渡すので追々入用がかさんできて天下の民は困窮するやうに成つた。かくして人々が上を怨まないものが一人もないやうに成り行かうとも、詮方のない事で、江戸を始め諸国一同右の有様に陥つたのである。
天子は足利家以来、全く御隠居同様で賞罰の権すら失はれてをられるから下々の人民がその怨みを何方へ告げようとしても、訴へ出る方法がないといふ乱れ方である。依つて人々の怨みは自から天に通じたものか。年々、地震、火災、山崩れ、洪水その他色々様々の天災が流行し、終に五穀の飢饉を招徠した。これは皆天からの深い誡めで有がたい御告げだと申さなければならぬのに、一向上流の人人がこれに心付かすにゐるので、猶も小人奸者の輩が大切の政事を執り行ひ、たゞ下々の人民を悩まして米金を取立る手段ばかりに熱中し居る有様である。事実、私達は細民百姓共の難儀を草の陰よりこれを常に見てをり、深く為政者を怨む者であるが、吾に湯王武王の如き勢位がなく、又孔子孟子の如き仁徳もないから、徒らに蟄居して居るのだ。ところがこの頃米価が弥々高値になり、市民が苦しむに関はらず、大阪の奉行並に諸役人共は万物一体の仁を忘れ、私利私欲の為めに得手勝手の政治を致し、江戸の廻し米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米を致さぬのみでなく五升一斗位の米を大阪に買ひにくる者すらこれを召捕るといふ、ひどい事を致してゐる。昔葛伯といふ大名はその領地の農夫に弁当を持運んできた子供をすら殺したといふ事であるが、それと同様言語道断の話だ、何れの土地であつても人民は徳川家御支配の者に相違ないのだ、それをこの如く隔りを付けるのは奉行等の不仁である。その上勝手我儘の布令を出して、大阪市中の遊民ばかりを大切に心得るのは前にも申したやうに、道徳仁義を弁へぬ拙き身分でありながら甚だ以て厚かましく不届の至りである。また三都の内大阪の金持共は年来諸大名へ金を貸付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠取つてゐて未曾有の有福な暮しを致しをる。彼等は町人の身でありながら、大名の家へ用人格等に取入れられ、又は自己の田畑新田等を夥しく所有して何不足なく暮し、この節の天災天罰を眼前に見ながら謹み畏れもせず、と云つて餓死の貧人乞食をも敢て救はうともせず、その口には山海の珍味結構なものを食ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引してゆき、高価な酒を湯水を呑むと同様に振舞ひ、この際四民が難渋してゐる時に当つて、絹服をまとひ芝居役者を妓女と共に迎へ平生同様遊楽に耽つてゐるのは何といふ事か、それは紂王長夜の酒宴とも同じ事、そのところの奉行諸役人がその手に握り居る政権を以て右の者共を取締り下民を救ふべきである。それも出来なくて日々堂島に相場ばかりを玩び、実に禄盗人であつて必ずや天道聖人の御心には叶ひ難く、御赦しのない事だと、私等蟄居の者共はもはや堪忍し難くなつた。湯武の威勢、孔孟の仁徳がなくても天下の為めと存じ、血族の禍を犯し、此度有志のものと申し合せて、下民を苦しめる諸役人を先づ誅伐し、続いて驕りに耽つてゐる大阪市中の金持共を誅戮に及ぶことにした。そして右の者共が穴蔵に貯め置いた金銀銭や諸々の蔵屋敷内に置いてある俸米等は夫々分散配当致したいから、摂河泉播の国々の者で田畑を所有せぬ者、たとひ所持してゐても父母妻子家内の養ひ方が困難な者へは右金米を取分け遣はすから何時でも大阪市中に騒動が起つたと聞き伝へたならば、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け馳せ参じて来てほしい、各々の方へ右金米を分配し、驕者の遊金をも分配する趣意であるから当面の饑饉難儀を救ひ、若し又その内器量才力等がこれあるものには夫々取立て無道の者共を征伐する軍役にも使たいのである。決して一揆蜂起の企てとは違ひ、追々に年貢諸役に至るまで凡て軽くし、都べてを中興 神武帝御政道の通り、寛仁大度の取扱ひにいたし年来の驕奢淫逸の風俗を一洗して改め、質素に立戻し、四海の万民がいつ迄も天恩を有難く思ひ、父母妻子をも養ひ、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ、支那では尭舜、日本では天照皇太神の時代とは復し難くとも中興の気象にまでは恢復させ、立戻したいのである。
この書付を村々に一々しらせ度いのではあるが、多数の事であるから、最寄りの人家の多い大村の神殿へ張付置き、大阪から巡視しにくる番人共にしらせないやう心懸け早速村々へ相触れ申され度い、万一番人共が目つけ大阪四ケ所の奸人共へ注進致すやうであつたら遠慮なく各々申合せて番人を残らず打ち殺すべきである。若し右騒動が起つたことを耳に聞きながら疑惑し、馳せ参じなかつたり、又は遅れ参ずるやうなことがあつては金持の金は皆火中の灰と成り、天下の宝を取失ふ事に成るわけだ。後になつて我等を恨み宝を捨る無道者だなどと陰言するを致さぬやうにありたい。その為め一同に向つてこの旨を布令したのだ。尤もこれまで地頭、村方にある税金等に関係した諸記録帳面類はすべて引破り焼き捨てる、これは将来に亙つて深慮ある事で人民を困窮させるやうな事はしない積りである。去りながら此度の一挙は、日本では平将門、明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類してゐると申すのも是非のある道理ではあるが、我等一同心中に天下国家をねらひ盗まうとする欲念より起した事ではない、それは日月星辰の神鑑もある事、詰るところは湯武、漢高祖、明太祖が民を弔ひ君を誅し、天誅を執行したその誠以外の何者でもないのである。若し疑はしく思ふなら我等の所業の終始を人々は眼を開いて看視せよ。
但しこの書付は細民達へは道場坊主或は医師等より篤と読み聞かせられたい。若し庄屋年寄等が眼前の禍を畏れ、自分一己の取計らひで隠しおくならば追つて急遽その罪は所断されるであらう。
茲に天命を奉じ天誅を致すものである。
天保八丁酉年 月 日 某
摂河泉播村々
庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ
〔註〕
小前 細民、貧民。
湯王 殷の湯王、民を愛するを以て知らる、夏の桀王の暴虐を討つて伊尹と共にこれを亡ぼす。
武王 周の武王、暴虐を極めた殷の紂王を討ち亡ぼし、善政を施した。
湯武 湯王と武王。
天照皇太神の時代 古代日本の政治が至平至公であり理想主義的であつたことは、本居宣長、賀茂真淵、平田篤胤、佐藤信淵等の説くところであつて、茲には善政を布き、産業奨励に力められた天照皇太神の時代の宜しきことを讃仰する意。
中興の気象 建武中興の事、後醍醐天皇が王政復古に力められた時代の雄邁な気象、精神。
詳しくは 「大塩の乱資料館」サイトの次の資料を御覧ください。
大塩檄文(画像。大塩平八郎筆)成正寺所蔵史料より
大塩檄文(翻字)成正寺所蔵史料より
参考として、島本仲道著『青天霹靂史』(明治20年8月刊)所載の本文を掲げる。
四海困窮すれば天禄永く終らん小人に国家を治めしむれば災害並至ると昔の聖人深く天下後世人の君人の臣たる者を御戒め被置候故
東照神君も鰥寡孤独に於てはあはれみを加ふへく候是れ仁政之基と被 仰置侯然るに于茲二百四五十年太平之間に追々上たる人驕奢とておこりを極め大切の政事に携り候諸役人共賄賂を公に授受とて贈貰致し奥向女中の●(「タ」+「寅」)縁を以て道徳仁義もなき拙き身分にて立身重き役に経上り一人一家を肥し候工夫のみに智術を運らし其領分知行所の民百姓共に過分の用金申付是まで年貢諸役の甚しきに苦しむ上右之通り無体之儀を申渡し追々入用かさみ候故四海困窮と相成候に付人々上を怨みるものなき様に成行候得共江戸表より諸国一同右之風儀に落入り
天子は足利家以来別て御隠居御同様賞罰の柄を御失ひ候に付下民の怨何方へ告愬とてつげ訴る方なき様に乱れ候に付人々之怨天に通じ年々地震火災山も崩れ水も溢るより外色々様々の天災流行終に五穀飢饉に相成候是皆天より深く御誡めの有難き御告に候へども一向上たる人々心も附かず猶小人奸者の輩太切之政を執行ひ唯下を悩し金米を取立る手段ばかりに相掛り実以て小前百姓共の難儀を吾等如きもの草の陰より常々悲察候へども湯王武王の勢位なく孔子孟子の道徳もなければ徒に蟄居致し候処此節米価弥高直に相成り大阪の奉行並に諸役人共万物一体の仁を忘れ得手勝手の政道を致し江戸へ廻し米をいたし
天子御在所の京都へは廻し米の世話も致さゞる而已ならず五升壱斗位の米を買ひに下り候者共は召捕などいたし実に昔し葛伯といふ大名その農人の弁当を持運び候小児をころし候も同様言語同断何れの土地にても人民は
徳川家支配の者に相違なき処如此隔を附け候は全く奉行等の不仁にて其上勝手我儘の触書等を度々差出し大阪市中遊民ばかりを太切に心得候は前々も申通り道徳仁義を存せす拙き身分にて甚以て厚かましき不届の至り且つ三都の内大阪の金持共年来諸大名へ貸付け候利得の金銀並に扶持米を莫大に掠取り未曽有之有福に暮し町人の身を以て大名の家老用人格等に被取用又は自己の田畑新田等を夥敷所持何に不足なく暮し此節の天災天罰を見なから畏も致さず餓死の貧人乞食をも敢て救はず其身は膏梁の味とて結構の物を喰ひ妾宅等へ入込み或は揚尾茶屋へ大名の家来を誘引参り高価の酒を湯水を呑も同様にいたし此難渋の時節に絹服を纒ひ候河原者を妓女と共に迎へ平生同様に遊楽に耽り候は何等之事哉紂王長夜の酒盛も同事其所の奉行諸役人手に握居候政を以て右之者共を取締り下民を救ひ候儀出来かたく日に堂島相場はかりをいじり事いたし実に禄盗にて決して天道聖人の御心に叶ひ難く御赦しなき事に候蟄居の我等もはや堪忍成りかたく湯武之勢孔孟之徳はなけれども天下の為と存じ血族之禍を犯し此度有志の者と申合せ下民を悩し苦め候諸役人を先誅伐いたし引続き驕に長し居候大阪市中金持の町人共を誅戮に及ひ可申候間右之者共穴蔵に貯置候金銀銭等諸蔵屋敷内に隠し置候俵米夫々分散配当いたし遣し候間摂河泉播之内田畑所持致さゞる者縦令所持いたし候共父母妻子家内の養方出来かたき程の難渋者へは右金米等取分け遣し候間いつにても大阪市中に騒動起り候と聞伝へ候はゞ里数を厭はず一刻も早く大阪へ向ひ馳参るべく候右の面々へ金米を分遣し可申候鉅橋鹿台の金粟を下民へ被与候遺意にて当時の饑饉難儀を相救遣し若又其内器量才力等有之ものは夫々取立無道之者共を征伐いたし候軍役にも使ひ可申候必一揆蜂起の企とは違ひ追々年貢諸役に至る迄軽く致し都て中興
神武帝御政道之通り寛仁大度の取扱に致し遣し年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改め質素に立戻り四海万民いつ迄も天恩を難有存し父母妻子を被養生前の地獄を救ひ死後の極楽成仏を眼前に見せ遺し
尭舜
天照皇大神の時代に復しがたくとも中興之気象に恢復とて立戻し可申候此書付村々一々知らせ度候へども多の事に付最寄の人家多き大村の神殿へ張附置候間大阪より廻し有之番人共に知らせざる様に心掛け早々村々へ相触可申万一番人共眼附け大坂四ケ所の奸人共へ注進致し候様子に候はゞ遠慮なく面々申合せ番人を不残打殺し可申候若し右騒動相起り候と乍承疑惑いたし馳参り不申又は遅参に及び候はゞ金持の米金は皆火中の灰に相成り天下の宝を取失ひ可申候間跡にて我等を恨み宝を捨る無道者と陰言を致さず致様致すべく候其為め一同に触知らせ候尤是まて地頭村方にある年貢等に拘はり候諸帳簿記録類は都て引破り焼捨可申候是れ往々深慮ある事に候人民を困窮為致申さゞる積りに候乍去此度の一挙当朝の平将門明智光秀漢土の劉裕朱全忠の謀反に類し候と申者是非これ有る道理に候へ共我等一同心中に天下国家を簒盗致し候欲念より起し候事には更に無之日月星辰の神鑑にある事にて詰る所は湯武漢高祖明太祖民を吊ひ君を誅し天討を執行候誠心のみに候若し疑しく覚へ候はゞ我等の所業終る処を爾等眼を開て看よ
但し、此書附に前の者へは道場坊或は医者等より篤と読聞せ可申候若し庄屋年寄眼前之禍を畏れ一己に隠し候はゞ追て急度其罪可行候
天保八丁酉年月日
奉天命致天討候
某 摂河泉播村々
庄屋年寄百姓並に
小前百姓共へ
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