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工事中に大雨で被災したとき「じゃ復旧してやるから、別途金をくれ」と言うのは業者の正論だし、「安全管理をちゃんとやっていれば防げた被害ではないのか?」という疑問は発注者の正論だ。この場合どちらが正しいのかは、少なくとも新聞記事ぐらいで判断することはできない。現場で状況を見たうえで判定を下すしかないのだ。
外野が「業者が可愛そう」と思おうと、「業者の手抜かりに余分な金を使うべきではない」と思おうと、それは感想を言ってるに過ぎない。判定とは別次元のことだ。
では政治の世界はどうか。主権者である国民の目と耳はメディアだけである。ネットでさえもメディアのニュースを基にしている。すると国民は上述の例と同じように「感想」を言い合う事しかできないのか? 判定には直接関われないのか? 思い浮かぶのは「裁判員」と「選挙」だが、「裁判員」は少数者でとても国民の意思とイコールとは言いがたいし。
唯ひとつ「選挙」だけは該当するだろう。国民が自分の感想のもとに判定を下すのだ。誤った判定を下せば、その結果はすべて国民自身に跳ね返る。その時になってメディアのせいにしてもカエルの面になんとかだ。判定を下すには「自分の基準」を持たねばならないから、個々人の生活実態がその基準の出発点となろう。従って生活の重みのない「スネかじり」に判定を任せるわけにはいかない。
選挙で自分が棄権をし他人の投票で決まったにしろ、「私は判定を拒否する」と宣言したにしろ、結果は同じことだ。自分が投票しないことは「白紙委任状」を出したと同じことになる。「私は一切の決定に従う」と書面で提出したに等しいのだ。かと言って耳障りの良い言葉を連発しているだけの者に、軽々しく信任を与えてはならない。「どうやって実現するのだろう?」の疑問を解消しないと、紙くず籠に一票を投じることになる。
当選後に実行はしたが100パーセントの実現に及ばなかった政党と、当選後に「実際は無理なんだよね」とすぐに棚上げした政党と、最初から実施すべき方法など持たず票を得るためだけに連呼している政党を見誤ってはいけない。たとえ自分のためになる公約を掲げていても実現の方法を考えていない者に、貴重な一票を投じることは自殺行為になる。「また騙された」と嘆いていても、現実は少しも良くはならない。
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